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希望の光は日輪の輝き

◇◇


 慶長一七年(一六一二年)一月九日――


 戦後処理に、年末年始の行事と、息つく暇もなく対応にあたっていた徳川秀忠が、ついに二条の屋敷を出立する日を迎えた。

 その前に、引き続き京に残る家康へ挨拶をしようと、彼の部屋をたずねたのだった。

 しかしそこに家康の姿はなく、彼の側室である阿茶の局が一人で調薬にいそしんでいた。


「おや、上様ではありませんか? そんなところにつっ立ていないで、こちらにおいでなさいな」

「いえ、父上に一言ご挨拶をいたしたかっただけですので」

「そうでしたか。しかし大御所様は……」

「やはり今日も大坂ですか……」


 秀忠がため息まじりに言うと、阿茶の局は眉をひそめながらうなずいた。

 実のところ、家康は老いた体に鞭をうって、毎日のように朝から晩まで大坂城へおもむいていた。

 しかし決して城内に入るためではない。

 なぜなら彼の目的は、『堀の埋め立ての普請』なのだから。

 つまり彼は滞りなく、『和睦』の条件が遂行されるのかを厳しく監督し続けていたのだった。


「無理がたたって体を壊さねばよいのですが……」


 秀忠は心配そうに言うと、阿茶の局は微笑みながらうなずいた。

 なぜ彼女が微笑んだのか不思議に思った秀忠は首をかしげる。

 すると彼女は秀忠が何か問いかける前に、自分から切り出したのだった。


「ふふ、どんなにこころざしが異なろうとも、親子の愛情を失ったわけではない、と」

「当たり前でございます。父上はわれにとって大切な『家族』でございます」


 心外な、と言わんばかりに眉間にしわを寄せる秀忠に対して、眩しいものを見るように目を細めた阿茶の局は、穏やかな口調で言った。


「そのお言葉を大御所様にも聞かせてあげたいものです。きっとお目を覚まされることでしょうに」


 すると秀忠は、ゆっくりと首を横に振った。


「残念ながら父上は変わらないでしょう」

「おやまあ、どうしてそのように思われるのでしょう?」

「父上は『三河武士』でございますゆえ……では、われはこれにて失礼いたします。阿茶の局殿におかれましてもお体にはくれぐれも気をつけてくだされ」


 そう言い残して秀忠は去っていった。

 一人部屋に残された阿茶の局は、外を見つめた。

 今日は春を思わせる陽気だ。

 眩しく輝く太陽の光が目に入ってくるのを手で抑えながら、誰あてともなくつぶやいたのだった。


「人は人の愛によって生かされているのを忘れたなら、日輪のない空の下で暮らしているようなものです」


 と……。


◇◇


 秀忠が京を発ってから、十日後に大坂城の堀の埋め立て、そして出城の破却は完了した。

 それらが作り上げた数年の歳月に比べて、壊すのに費やした歳月は二十日にも満たない。

 なんと儚いものなのだろうか。


 さて、徳川家康はというと、最後まで普請を見届けた後、阿茶の局らを伴って京を発った。

 そして鉄砲の工房が集まる国友村に立ち寄ると、ここでも自ら現地におもむき、鉄砲の増産を指示した。

 この彼の行動からして、『大坂城を平和の象徴とする』というのは、伊達政宗が秀頼に告げたように、しょせんは綺麗事にすぎないのがはっきりとした。


 そうして家康は、各所で『戦の準備』を怠りなく行わせた後、ようやく駿府城に到着した。

 なんと京をたってから、実に一ヶ月後のこと、すなわち二月中旬だったのであった。


◇◇


 旧暦の二月といえば、もう春の足音が聞こえてくる頃合いだ。

 特に穏やかな気候で知られる駿府は、桜の花が開くのを待ち望む小鳥たちのさえずりが心地よい日々が続いていた。


 そんな中、相変わらず秋を思わせるような哀愁を漂わせた千姫は、今日も縁側に座って空を見つめていた。

 しかしいつもと違うのは、彼女をたずねてきた人物が、侍女の蘭と青柳だけでなく、もう一人いたということだった。

 それは阿茶の局だった――


「お千殿。今日は良い天気でございますね」


 千姫は、ちらりと声のした方に目をやる。

 そこには穏やかな笑顔を浮かべた阿茶の局の姿があった。

 しかし千姫はそれ以上の興味を示さずに、再び視線を空に戻した後、小さな声でつぶやいた。


「ええ」


 素っ気ない彼女の態度にも、阿茶の局は表情を変えることはなかった。

 そして彼女の隣に腰掛けたのだった。 


「お千殿の目には、青い空に何が映っているのでしょう?」


 阿茶の局の透き通った声が、ししおどしのように響く。

 だが、千姫は何も答えなかった。

 

 しばらく沈黙が続く。

 小鳥のさえずる声だけが、辺りを包んでいた。


 ……すると、千姫の頬に一筋の涙が流れてきた。

 そして彼女は震える声で言った。


「秀頼さまぁ……」


 阿茶の局は、それでも気丈に空を見つめ続ける千姫を見て、ニコリと微笑んだ。

 そして、涙をふく布地ではなく、一通の書状を彼女の前に差し出したのだった。


「高台院様より預かっております」


 と、阿茶の局が言ったが、千姫は一瞥すらくれずに、涙を流しながら空を見上げ続けている。


「千様!」


 思わず蘭が千姫をたいさめようとしたが、阿茶の局は片手でそれを制すると、「では、わらわが読み上げさせていただきましょう」と言った。

 そして、流れるような手つきで書状を開いて、先ほどとはうって変わって力強い口調で、書状を読み上げ始めたのだった。


「お千へ。息災にやっておるだろうか。ちゃんと食べて、ちゃんと寝ているだろうか……」


 その出だしだけで千姫の目が大きく見開かれた。

 そして興奮からか、頬がほのかに桃色に染まっていったのである。


 それは……。

 愛する夫、豊臣秀頼からの書状だ。

 そして彼女は気付いていたのである。



 その書状は、『以前の』秀頼から送られてきたものだ、ということに――



 しかし彼女はなおも空を見上げたまま、阿茶の局の方へ顔を向けない。

 阿茶の局もまた、千姫の変化など気にする素振りを見せずに続けた。


「われは無事に大坂城に着いたゆえ、なんの心配もいらない」

「はい……」


 阿茶の局の声が秀頼の声と重なる。

 千姫は秀頼をすぐ隣に感じていた。

 彼女はさながら秀頼に答えるように、甘えた声で返事をした。


「年末年始の行事に忙しくしており、こうしてお千への書状が遅れてしまったこと、まことに申し訳なく思う」

「……そんなことありません。千は嬉しい……」

「寂しくはないか」

「……千は寂しいです」

「辛くはないか」

「……千は辛いです」

「だがもう少しの辛抱だ。必ずやわれがお千を迎えにいく」

「えっ……?」


 ついに千姫は阿茶の局の方へ目を向けた。

 そして阿茶の局もまた千姫と向き合った。


「そして、お千の『鬢削びんそぎ』は、われの手で行うと誓おう!」


 鬢削とは、女性が成人した時に行う、髪を切る儀式のことだ。

 千姫は今年、それを江戸の本丸で母の江姫と行う予定となっていたのである。

 

 それを秀頼は自分の手で行うと誓ってくれた。

 すなわち彼女の大切な日に、絶対に側にいると誓ってくれたのだ。

 彼女の涙腺を再び決壊させるには十分の理由と言えよう。


「うわぁぁぁぁぁぁん!! 秀頼さまぁぁぁ!!」


 ついに両手で顔を覆いながら号泣しはじめる千姫。

 彼女の背中を阿茶の局は優しくなでながら、書状を締めくくったのだった。


「それまではどうか笑顔で待っていて欲しい。われは笑顔のお千を好いておるのだから。頼んだぞ。豊臣秀頼」


 なおも泣き続ける千姫に対して、阿茶の局はたたんだ書状を彼女の膝の上に乗せた。

 そして、優しい口調に戻して告げたのだった。


「最後に高台院様よりお言葉を預かっております。『この書状は、石田宗應より届けられたもの。彼は書状を手渡す際に、こう告げました。秀頼様が戻ってまいりました』と」


 ここで言う『戻ってきた』とは、無論、秀頼の中身が再び『近藤太一』に戻ったことを指している。

 千姫はそれを正しく理解しながら、何度もうなずいた。

 

 泣き続ける千姫。

 だが阿茶の局が訪れる前までに流した涙とは、明らかに異なるものだった。

 それは暖かくて……まるで今日の『日輪』のような涙だ。

 それまで『失望』の闇しかなかった彼女の心は、『希望』の光で満たされていった。


 すると自分でも不思議なことに、自然と涙が止まっていくではないか。


 そして……。


 次に現れたのは、雪解けあとのような眩しくて清らかな笑顔だった――


 その笑顔を見た阿茶の局は、目を細めながら小さくうなずくと、静かにその場をあとにした。

 そして心の中で祈ったのだった。


――大御所様の心の中にも『日輪』の輝きを……。お願いいたします。『日輪の子』である太閤殿下のあとを継ぐ者よ。



 翌日――


 その日も、駿府城のとある部屋の前の縁側に、千姫の姿はあった。

 そこに腰をかけた彼女は、足をぶらぶらとさせながら、青い空を眺めている。

 しかし、昨日までの彼女と大きく異なるのは、彼女の表情だ。


 それはさながら向日葵のような、明るくて美しい笑顔。

 黄色い小袖がよく似合う笑顔だった。


 そこに蘭がやってきた。心なしか彼女の表情もまた明るい。その理由は挙げるまでもないだろう。


「千様。駿府名物のお茶を持ってまいりました」


 千姫は素直に蘭の方へ目を向けると、満面の笑みのまま口を開いた。


「ありがとう!」


 蘭にも彼女の笑顔が伝染する。

 そして蘭は千姫の隣に腰をかけると、煎茶の入った茶碗を彼女に手渡した。

 それをゆっくりと口に含む千姫。

 そして幸せそうな顔で言葉をもらした。


「はぁ……美味しいのう」

「ふふ、それはよかったです」

「ところで蘭。秀頼さまも茶がお好きなのを、お主は知っておるか?」


 蘭は千姫の問いに目を丸くした。

 彼女はまだ大坂城で暮らしていた頃、何度も千姫と秀頼が二人でお茶をすすっていたのを見ている。

 つまり彼女はその答えを知っているのだ。

 しかし彼女は、目の前で目を輝かせている千姫に対して、『小さな嘘』をついたのだった。


「いえ、そんなお話は初めてうかがいました」


 と。

 すると千姫は、ますます明るい声で続けたのだった。


「そうか! 実はこんなことがあってな……」


 秀頼との楽しかった思い出を嬉々として語り始める千姫。

 純粋で、美しい『愛』がそこにはあった。

 蘭はそれを耳にしているうちに、自然と目頭が熱くなっていくのを抑えられない。

 それでも涙は見せまい。

 なぜなら目の前の少女には、涙なんかより笑顔が似合うのだから。


 だから自分も笑顔のまま、彼女に寄り添って生きていこう。

 『日輪を継ぐ者』豊臣秀頼がもたらしてくれた希望の光を胸に秘めながら――

 

 


 

 


 

 

 


 


 

阿茶の局や高台院の出番は、これで本編では恐らくラストになると思います。

拙作内で彼女たちが果たしてきた役割の大きさは、はかりしれないものがあります。

女性たちが戦国乱世をどう生き抜いてきたのか、それを象徴しているような登場人物であったと思うのです。


さて、いよいよ書籍版の発売が近づいてまいりました。

どうかよろしくお願いいたします。

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