大友の乱③ 『選択』するということ
◇◇
慶長一六年(一六一一年)一二月一二日 熊本城――
黒田長政を総大将とした西九州の軍勢一万は、城の近くを通る街道を南に進んでいた。
熊本城の横を通れば、豊後街道に入り東へと進路を変える予定だ。
しかし城の前で待ち構えていたのは、加藤清正が率いる一万の軍勢であった。
「ここを通せ、虎之助。俺はお主と戦うつもりはない」
そう言って馬を進めてきたのは、大将の黒田長政だ。
加藤清正とは太閤秀吉の小姓だった頃からの旧知の仲である。
彼の呼びかけに清正も馬を進めてきた。
「吉兵衛! ではお主は誰と戦うと言うのか!?」
清正の問いかけに長政は顔を歪めた。
そして言葉につまる彼に代わって、清正は大声で続けた。
「お主は太閤殿下の大恩を忘れ、事もあろうことか、秀頼公に襲いかかるつもりであろう!」
「違う! 太閤殿下の御恩を忘れた覚えなどない!」
「では、なぜ秀頼公に槍を向けるかぁぁぁ! 答えよ! 吉兵衛!!」
清正の火を吹くような咆哮が、熊本の寒空を震わせる。
それを聞いた長政は、くるりと振り返ると、無言のままその場を後にした。
清正は、その様子をじっと睨みつけた。
その後、長政の姿が完全に見えなくなると、彼もまた自陣の奥へと消えていったのだった。
本陣に戻った長政は、そこに集まっていた諸将に指示した。
「清正が道を通すまでは静観する。各々自陣に戻り、待機してくれ」
「しかしそれでは大御所殿の御意向に背くのでは?」
鍋島家当主の直茂の名代として参加している鍋島茂綱が長政に問いかける。
長政はゆっくりと首を横に振ると、悔しそうな顔で答えた。
「清正を攻めよとは命令されておらぬ」
「そこまで加藤殿を恐れる必要がありましょうか?」
「残念だが、同じ一万ではこちらの分が悪い。それ程に豊臣と加藤は強いことを俺は知っているのだ」
「そんな弱気な……」
「弱気ではない。万が一勝てても、こちらの被害が大きくなるのは目に見えている」
「しかし、戦ってみなければ分かりませぬ!」
長政は熱くなった茂綱の肩に手を置くと、低い声で説いた。
「戦の勝ち負けは、戦いだけで決着するものではない。ここで加藤の軍勢に足止めされるということは、裏を返せば加藤の軍団を熊本に釘付けにしてるも同じことであろう」
その言葉に茂綱の目が大きく見開かれた。
そして長政は彼から少し離れて締めくくった。
「それにもしここで我らの軍勢が大きな打撃を受けてみよ。熊本の背後に控えている者が黙ってはいないだろう……」
「熊本の背後……」
茂綱にもその言葉の意味が分かったのだろう。
彼はゴクリと唾を飲み込んで、長政の言葉の続きをつぶやいたのだった。
「薩摩か……」
◇◇
同日、昼過ぎ 阿蘇神社――
俺、豊臣秀頼は、大友義統との会談に臨んだ。
すると冒頭から彼は一通の書状を差し出してきた。
それは徳川家康からの『豊臣討伐令』だった。
「先にお送りした『徳川殿への降伏状』をお返しいただきたく、お願いいたす」
彼は丁寧に俺に頭を下げた。
なお部屋の中は彼のたっての願いで、俺と二人きりだ。
大野治徳や木村重成は「何をされるか分かりません!」と猛烈に反対したが、俺は強引に彼の要望に応えた。
なぜなら俺は彼を一目見た時から気付いていたのだ。
彼は自分の『選択』を迷っている、と。
そしてもし彼の願いをかなえねば、彼の『選択』は自ずと決まってしまうだろう。
ここは俺にとっても勝負どころだ。
たった一つの誤りは、そのまま『死』につながる。
俺は彼の願いをかなえると共に、自分の力だけでこの難局を乗り切る覚悟を決めていたのだった。
「これか……どうやらお主は渡す相手を誤ってしまったようだな」
俺は彼が送ってきた『降伏状』を差し出しながら、口元に笑みを浮かべた。
「ええ、どうやらそのようだ」
彼もまた笑みを浮かべ、『降伏状』を受け取ると、膝の前にそれを置いた。
これで俺の手札は早くもなくなった訳だ。
もっとも『降伏状』をどう利用するか考えていなかったので、最初から手札など何もなかったのも同然だが……。
彼のかたわらには異様に長い刀が置かれている。
今の二人の距離だと、完全にその刀の間合いに入っている。
たったの一歩でも間違えれば、奈落の底だ……。
恐怖は俺の口を動かすことを拒絶した。
しばらく冷たい沈黙が部屋を支配する。
真冬にも関わらず、一筋の汗が頬を伝った。
汗が冷えると体温が奪われていく。
俺は思わず身震いした。
だが彼はその瞬間を見逃さなかった。
――ガタッ! シュンッ!
座っている状態から抜刀して相手の首元に刃を当てる動作を何度も繰り返して鍛錬したのだろう。
流れるような所作と、閃光のような剣筋に、俺は全く反応出来なかった。
だが……
凶刃は首元でピタリと止まった――
不思議と恐怖は感じない。
なぜなら彼の瞳は……
透き通った涙のしずくをいっぱいに溜めているのだから――
「なぜだ。なぜ避けぬ?」
「避けたくても、避けられぬ程に剣が速かったからだ」
「正直に答えたつもりか?」
義統の質問に俺は答えずに、逆に問いかけた。
「何を迷っておられるのだ?」
「迷っている? 俺が?」
「迷いがなくば、お主ほどの剣の腕前で、切っ先が震えることはあるまい」
俺はちらりと刀の先端を見た。
それは確かに小刻みに震えている。
彼は口元を緩ませると続けた。
「一つ聞こう。初太郎を寄越したのは、お主だな?」
「……だとすれば何だ?」
「初太郎に言葉を含ませたのもお主か?」
俺は答えずに、微笑を携えたまま彼を見つめた。
すると彼は額に青筋を立てて叫んだ。
「答えよ!!」
俺の首筋にピタリと刃を当てる義統。
俺は微動だにせずに彼を見つめていた。
ここでの『選択』は『沈黙』が正解のはず……。
そう信じて、俺は口を結ぶ。
もし『歴史の歯車』が無理を通してでも、俺を殺したいのなら、殺せばいいさ。
しかし俺は信じているのだ。
歴史とは人と人が作るものだ。決して定められた運命によって動かされているものではない、と――
それを証明するように義統が取った『選択』は、剣ではなく言葉だった。
「泰巌が最期に俺に残した言葉は『徳川家康に恭順せよ。それが貴様の望みを叶える唯一の道である』というのはまことか!!」
真っ赤な顔で唾を飛ばしてくる義統に対し、俺は静かに口を開いた。
「初太郎のことは良く知っている。われ自らが彼の命を助けたのだからな。しかし、彼がお主に何を告げたのかまでは知らぬ」
それは本当のことだった。
俺はこの大一番の段取りを全て吉岡杏に任せていたからだ。
彼女は豊臣家の中で、誰よりも大友義統を知り、そして誰よりも彼を恨んでいる。
だから、彼女なら俺が下手に策を弄するよりは、遥かに効果的な策が打てるはずと信じている。
そしてもし彼女に任せて失敗したなら、いずれの道を選択しても詰んでいたということだ。
俺は信じていた。
自分の直感と、彼女のことを。
強気の姿勢を崩さずに、彼をじっと見つめる。
一方の彼は全身に殺気をまとったままだ。
だが、徐々に切っ先の震えが大きくなっていくのが分かった。
彼は今戦っているのだ。
己の心に巣食う『魔王』の存在と――
そして彼もとうに気付いているはずだ。
これは豊臣秀頼の策ではない。
豊臣軍の中に身を置いている吉岡杏の乾坤一擲の策であると……。
どれほど時間が経っただろうか。
気付けば部屋の床は、義統の全身から滴り落ちた汗で黒く濡れていた。
そして彼はゆっくりと刀を振りかぶった。
「これが俺の答えだ……」
――ブンッ!!
空気を切り裂く乾いた音が俺の頭上で鳴り響く。
俺は目を見開いたまま、その剣線を追った。
そして……
――ザンッ!!
と、いう鈍い音がこだました。
俺は自分の身のことよりも、彼の『選択』を見つめていた。
そしてその目に飛び込んできたのは……
『降伏状』に刀が突き刺さっている光景だった――
「……勘違いするな。俺は誰にも従わんだけだ……」
と、吐き捨てるように言った彼は、部屋の外で待機している小姓に向かって大声で指示をしたのだった。
「これより我が軍は府内城へ戻る!! ついては豊後街道からやって来る軍勢を迎撃せよ!!」
彼は素早く刀をしまい、大股で襖の前まで歩いていくと、勢い良く開けた。
――スパンッ!!
乾いた音と共に、外で待機していた者たちが並んで座っている姿があらわになる。
彼はその内の一人の前で立ち止まると、その者を見下ろしながら問いかけた。
「これで満足か?」
それは吉岡杏だった。
彼女は下げていた頭を上げて、彼を見上げると無表情のまま告げたのだった。
「満足などするはずもないでしょう。あなたのしてきた吉岡の人々への仕打ちを考えれば……」
義統はニヤリと口角を上げた。
「そうか。ならば良い」
と、言い残してその場を去っていったのだった。
◇◇
慶長一六年(一六一一年)一二月一三日 早朝――
――ワァァァァァ!!
という大きな喊声が阿蘇の大地に響き渡った。
夜を徹して豊後街道を進軍してきた細川軍。
彼らが無理をした理由は、『このままでは軍功は大友義統に全てかっさらわれてしまう』という焦りだった。
そして阿蘇に到着したやいなや、彼らを待っていたのは大友軍の突撃だったのである。
「おのれぇぇ! 謀りおったなぁ!」
細い街道の出口にあって、縦長の陣形を取らざるを得ない細川軍に対し、その出口を包囲している大友軍は徹底的に袋叩きにしていった。
「とにかく虎口を抜けよ! 全軍、突き進めぇぇぇぇ!!」
――うおぉぉぉぉ!!
すさまじい気合いと共に、一点突破を試みる細川軍だが、分厚い包囲網を作った大友軍を簡単に抜けることはかなわなかった。
一方の大友義統は飯高山という少しだけ小高くなっている場所で戦況をじっくりと眺めていた。
兵の数の上では細川軍二万に対して、大友軍は三万。
およそ一万も差がある為、優位なはずだ。
しかし彼は、既に『死』を覚悟していた。
なぜなら自分自身のことを良く知っているからだ。
彼は今、大友家の大黒柱とも言える泰巌を失った。
そして天下を治める江戸幕府の軍勢を攻撃した。
加えるなら、大友義統は『誰かに操られていないと何も出来ない男』だ。
そんな彼の元に残って、将来を共にしようなどという奇特な人間が果たしてどれほどいるだろうか……。
細川軍の諸将たちの叫び声が聞こえてくる。
「時勢も見えぬ暗愚な当主に従うか、我らと共に江戸将軍家に従うか、道を選ぶなら今しかないぞ!!」
考える必要などない。
彼らに与えられた『選択』は実に易しいものなのだから――
次々と大友の旗が戦場から消えていくと、豊後街道に残っていた細川軍が、続々と阿蘇の麓へとなだれ込んできた。
正確な数は分からぬが、三万いた兵のうち、義統のもとに残った兵たちは三千に満たないだろう。
彼らも『大友義統』ではなく『大友家』と運命を共にする覚悟を決めた者たちに違いない。
――これで良い。これなら多くの者が死なずにすむ……。
そして細川軍が完全に豊後街道を出た瞬間に、義統は動いた。
「街道を固めよ!! うおぉぉぉぉ!!」
と、力強い号令をかけると、山を一気に駆け下りて豊後街道の入口へと突き進んでいった。
つい先ほどまで自分の背中についてきた者たちが、一斉に槍を自分に向けている。
裏切り、逃亡、嘲笑……。
今まで幾度となく自分が繰り返してきた行為。
それらの行為によって浮き彫りになる人間の醜い部分が、自分ではなく目の前にいる相手に映しだされている。
もはや絶望しかない状況にあって、彼は『人間』を初めて知った。
自分の『選択』で自分の未来を決めることの尊さと残酷さを初めて知った。
だから彼は喜びに浸っていたのだ。
まるでこの世に生を受けて、産声を上げた赤子のように――
細川軍が陣形を整えている隙をつくように、三千の大友兵は豊後街道の東の口を塞いだ。
その直後だった。
豊後街道の脇で息を潜めていた豊臣軍が一斉に姿を現した。
彼らは、一目散に街道を東へと駆け抜けていったのである。
「逃がすなぁぁ!! 追え! 追えぇぇぇ!!」
細川忠興の雷鳴のような号令が飛んだ。
その瞬間に、およそ四万まで膨れ上がった軍勢は弾かれたように、街道を塞ぐ大友軍へ襲いかかった。
――ドゴォォォォン!!
甲冑と甲冑のぶつかり合う轟音が響き渡る。
義統を守る兵たちの数は、砂が手からこぼれ落ちるように次々と姿を消していき、ついに彼も槍を手にして戦わざるを得なくなった。
彼は懸命に槍を突き出している間、過去の自分を思い起こしていた。
あれ程、『生』に執着していた自分。
あれ程、『城』に執着していた自分。
あれ程、『大名』に執着していた自分。
そして、『誰か』に生かされていた自分。
彼はそれでも積み上げてきたものがある。
それが目の前で奮戦している兵であり、豊後国の領地だった。
しかし、虚栄と屈辱の泥にまみれながら積み上げてきたものが、たった一つの『選択』で、一瞬にして潰えようとしている。
人生とは面白いものだ――
彼は後悔などしていない。
生まれて初めて『自由』を得た彼は、自分の手で全てを壊すことを『選択』したのだから。
「どうだぁぁぁ!! そうりぃぃぃぃん!! たいがぁぁぁぁん!! これが俺の生き様だぁぁぁ!!」
天に向かって大声で叫ぶ。
しかし彼の言葉はただ虚しく青い空に吸い込まれていくだけだった。
ついに彼の回りは誰もいなくなった……。
そして彼は『選択』した。
己の『死』を――
しかし……
それを許さぬ者がいた――
「よしむねぇぇぇ!! そうやすやすと死ねると思うなぁぁぁ!!」
彼の心臓を激しく揺さぶる甲高い声が響き渡った。
それは、吉岡杏だった――
「この戦の重心、吉岡杏が確かにとらえました」
拙作の描く『大友義統』。
それは、『暗愚』『誰にも慕われず』『常に誰かの傀儡となって生きてきた』人物像です。
島津忠恒も似たような設定ではありますが、彼の場合は『頭を素直に下げられる』という特徴があります。
義統はそれすら出来ない。
つまり『誰に媚びることすら出来ない』人物です。
そんな彼が取った選択に、賛否両論あるのは分かっております。
しかしここで重要なのは『人生の面白みは、損得勘定では計ることは出来ないのではないか』という問題提起にあります。
皆さまには彼の生き様がどう映りましたでしょうか。
次回は『大友の乱 終幕』です。
吉岡杏は一体どうやって乱戦の戦場の中にあって大友義統のもとまでやってこられたのか!?
彼女たちの行方は!?
そしてその次はいよいよ『大坂冬の陣』へと突入していきます!
秀頼は大坂の陣に間に合うのか!?
とうとう始まる徳川軍の猛攻に、大坂城の人々はどう立ち向かっていくのか!?
こうご期待ください!




