去る者と残る者
◇◇
幕僚会議の後、大坂城を出ていった石田宗應は二度と戻ってくることはなかった。
彼の居場所は京にある妙心寺であることは分かったのだが、彼は何人も近寄らせずに、一人で部屋に閉じこもっているらしい。
俺は徳川との『共存』の道を選んだ時点で、豊臣恩顧の将たちの心が離れていくことは覚悟していた。
特に豊臣家の天下を悲願としていた宗應に、とてつもない衝撃を与えることは予想に難くなかった。
それでも粘り強く『天下万民の笑顔のため』と説けば、きっと理解してくれるだろうと甘く考えてのである。
しかし彼の受けた衝撃は俺の想像を遥かに超えるものであったらしい。
豊臣家の大黒柱とも言える彼とこのような別れ方をするのは本意でない。
だが彼に譲れぬ信念があるように、俺にも固い信念があるのだ。
どちらかが折れなくては共に歩めないなら、俺から折れる訳にはいかなかった。
そして宗應なき大坂城では、評定が行われた。
もちろん議題はただ一つ。俺の江戸定府についてだ。
例のごとく多数決が行われたのだが、前回とは異なり『賛成多数』で可決されたのだった。
「では、秀頼殿には返事の書状をしたためていただこう」
「うむ、分かった」
甲斐姫の言葉に従って、俺は江戸定府を了承する旨の書状を江戸の徳川秀忠宛に記す。
そしてそれを外交を担当している織田老犬斎に手渡したのだった。
何か大きなことをやり遂げた達成感と共に、肩の重い荷が下りた気がして、思わず天を仰いだ。
――これで良い。これで良かったのだ。
何度も心の中で繰り返した言葉が、再びここでも繰り返される。
多くの命が奪われる大戦が回避されたのだ。
良かったに決まっているし、後世でも俺の決断は『英断』として評価されるに違いない。
しかしなぜだろうか……。
まだ心の中にわずかに後悔の念が残っているのは……。
評定が終わり、皆が次々と部屋を出て行く。
すると大蔵卿が最後まで残っているのが目に入った。
どうやら彼女は俺に話があるようだ。
俺は姿勢を正して、彼女に問いかけた。
「大蔵卿、いかがした? われに何か用でもあるのか?」
彼女は少し言いにくそうにしていたが、腹を決めたのか唇を噛みしめながら俺を見た。
そしてずんと腹に響くような重い口調で告げたのだった。
「淀様のことでお話がございます」
と――
◇◇
その日の夕げ――
俺がこの時代に転生したきた当初は、わずか三人で取っていた食事も、今では伊茶とあざみの二人が加わり、随分と賑やかになったものだ。
千姫が覚えた歌のことを話せば、伊茶は京や大坂の街のことを、そしてあざみは育てている草花のことを話す。
それら全てに淀殿は優しい笑顔で頷き、時には相槌を打っている。
この日の夕げも全く変わらない光景。
だが俺だけはどこか落ち着かなかった。
気がつけば、ちらちらと淀殿の顔を覗いてしまう。
それは先に大蔵卿から告げられた話で、頭の中がいっぱいだったからだ。
――淀様は江戸へは行かず、大坂城に残ると申されております。
徳川家から出された『江戸定府』の条件は、俺と千姫の二人だ。
側室や他の家族のことまでは言及されていない。
その為、淀殿が江戸に移らなくても、大勢に影響はないだろう。
もちろん彼女もそのことを知っていて、そう決断したに違いない。
だが、彼女はそれで『幸せ』に暮らせるのだろうか。
今こうして家族と笑顔で過ごしている時間こそが、彼女にとっての『幸せ』なのではないのか。
彼女はそれをなぜ手放そうとしているのか……。
「秀頼ちゃん、どうしたのです? 人の顔ばかりジロジロと見て」
考えを巡らせているうちに淀殿が不思議そうに俺の顔を覗き込んでいる。
俺ははっとして、「い、いえ、何でもございません!」と答えた。
顔が熱くなっている。恐らく真っ赤に染まっているだろう。
思わず俯いて、膳部に目を向けた。
すると千姫が横からムッとした声をあげた。
「むぅ……! 秀頼さま! そんなにおかか様のことがお好きなのですか!?」
「まったく……秀頼様はいつまでも甘えん坊なんだから……ダメでしょ!」
「あははっ! 顔を赤くした秀頼様も可愛いなぁ!」
千姫の言葉に伊茶とあざみも反応する。
そしていつも通りの小競り合いへと入っていったのだった。
「か、可愛いって…… あざみは秀頼さまに甘すぎるのじゃ!」
「まぁ! そう言う千様だっていつも秀頼様に甘えてらっしゃるではないですか」
「あははっ! あざみはただ素直に可愛いものを可愛いと言っただけだぁ。頬を膨らませている千様も負けずに可愛いでねえか」
「えっ!? 千が可愛い!? ちょっとおやめなされ! 恥ずかしいではありませんか!」
彼女たちの様子に視線を戻した淀殿は、心の底から愛おしいものを見るような優しい目をしている。
そしてついに彼女に真意を聞くことが出来ずに、この日の夕げはお開きとなったのだった。
俺の決断によって、石田宗應は大坂城を去り、そして逆に淀殿は江戸行きを拒否して大坂城に残る。
なんという皮肉な結果であろうか。
俺の耳には大坂城内の何かが少しずつ崩れ落ちていく音が確かに届いていた。
しかし『己の信念を貫く』という大義名分を盾に、それらからは目をそむけていたのだった。
◇◇
食事をしていた部屋から、廊下へと出てきた俺。
するとそこに待っていたのは伊茶だった。
「ちょっといい?」
口調からして幼馴染として接していると分かると、俺も彼女の調子に合わせて答えた。
「ああ、どうした?」
「会って欲しい人がいるの」
「そうか……」
俺が返事をすると同時に先を歩き出す彼女。
俺は黙ってその背中を追ったが、この時点で彼女が誰に会わせたいのか、何となく分かっていた。
そして人気のない場所までやってくると、俺の想像通りの人物が静かに佇んでいた。
それは謎のフードの少女……すなわち未来の千姫だった。
「やっぱりな……」
「やっぱりって、たっちゃんどうして分かったの?」
「そんなことはどうでもいいだろ。それより、ちょうど良かった。一つ聞きたいことがあるんだ」
俺が少女と向き合うと、彼女の方から先に問いかけてきた。
「秀頼さまは元の時代に戻るおつもりなの?」
核心をつく質問だ。
俺は彼女の問いに答えずに、問いで返した。
「もし俺が元の時代に戻ったとしたら、俺……『豊臣秀頼』はどうなるんだ?」
「どう、って言われても……今まで通りに秀頼さまは秀頼さまのままよ」
「では記憶はどうなる?」
「あなたの持っている『未来の知識』はなくなるけど、あなたが今まで行動してきた記憶は全て残るわ」
「そうか……それは良かった」
「じゃあ、やっぱりあなたは……」
そこで言葉を切る少女。俺はその先をきっぱりと言い切った。
「ああ、伊茶……麻里子と共に元の時代に戻る」
伊茶と少女の二人が俺の顔をじっと見つめている。
正直言って、美少女二人から見つめられるとすごく照れくさい。
俺は彼女たちから視線を逸らして続けた。
「元の時代の俺の家族に心配かけちまってるからな。それに麻里子のこともこれ以上ここに縛り付けておく訳にはいかねえし」
「たっちゃん……でもそれじゃあ……」
――千姫の前から去るってことだよ……。
麻里子の言葉の続きは聞かなくても分かっているつもりだし、千姫だけではない。
幸村や淀殿、そしてあざみたちとも別れることになるのだ。
考えるだけで身が引き裂かれる思いに駆られる。
しかし俺はこの時代にやって来て様々な人の『生き様』と『死に様』を見てきた。
それらに共通していたことに、気付いたのだ。
それは……
『人は家族の為に生き、家族のために死んでいく』という摂理だ。
そして今、元の時代では俺が目を覚ますのを祈っている家族がいる。
俺には彼らの愛情を切り捨てて、自分の感情を優先することがどうしても許せなかった。
幸いなことに俺がこの時代を去っても『豊臣秀頼』は、以前と変わらずに千姫らと共に過ごすことが出来ると言うではないか。
つまり近藤太一だけがこの時代から去るということになる。
ならば去るも残るも俺の心次第ということ。
自ずと俺の心は固まった。
「……いつ戻られるおつもりなの?」
「千姫と俺が駿府城に入った時だ」
実はつい先日、徳川家康から書状が届いていた。
それによると、俺たちは江戸城に入る前に、駿府城に立ち寄ることとなっている。
時はこれよりちょうど一年半後。つまり慶長一六年(一六一一年)の秋と決まった。
少女は俺の迷いのない答えに下を向いた。
その様子はどこか物悲しさを映している。
そして彼女はぼそりと言った。
「彼女に……千姫にちゃんとおっしゃってください。全てを」
彼女の言う『全て』とは、俺の正体や俺が元の時代に戻ることを指しているのだろう。
俺は口には出さずに、大きく頷いた。
すると彼女は、まるで煙のように目の前から姿を消した。
そしてこれより先、彼女が俺の前に現れることは、一度もなかったのだった――
◇◇
一年半後――
慶長一六年(一六一一年)一〇月二日――
ついに俺、豊臣秀頼が大坂城を去る日の朝を迎えた。
そして俺は大坂城で取る最後の食事となる朝げへと向かった。
つまり母、淀殿との最後の時を過ごすために――
なお妙心寺は、関ヶ原の戦いの後、石田三成の息子である重家が過ごしたとされる寺です。




