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太閤にとって『二番目』に大切だったもの

◇◇


 結局、豊臣家と徳川家の主張は噛み合わぬまま、世紀の会見は終了した。

 その後は別室に控えていた高台院や阿茶の局などを招き入れ、和やかな雰囲気で饗応が執り行われたのだった。

 

 翌日、俺は徳川家康と共に方広寺を訪れ、再建工事の監督を行うと、そのまま大坂へと戻った。

 そして大坂城の大手門で千姫をはじめとして城内の多くの人々が出迎えてくれたのだった。


「秀頼さま! おかえりなさいませ!!」


 今年で一一歳となった彼女は、以前のように感情に任せて俺の胸に飛び込んでくるようなことはなくなった。

 それはそれで寂しいものだが、はじらいで頬を薄い桃色に染めながら俺を見つめる彼女も健気で可愛らしい。


「うむ、出迎えかたじけない。お千それに皆の者」


 と、俺は目の前の千姫、そして彼女の背後に控えている伊茶やあざみ、片桐且元といった出迎えにきてくれた人々に頭を下げたのだった。

 すると次の瞬間に千姫の顔が向日葵の花のような笑顔に変わる。

 そして本丸に向かって歩き出した俺の横に並んだ。


「聞いてください、秀頼さま! 千はまた新しいお歌を習ったのですよ!」

「おお、そうか!」


 俺の驚いた様子を見てから、嬉々として歌を口ずさむ千姫。

 穏やかな春の陽のぬくもりに包まれた彼女の歌は、旅の疲れを優しく癒やしてくれた。

 

 彼女の声に耳を傾け、時折その横顔に目を向ければ、彼女が俺とこうして話をすることを純粋に喜んでいるのがよく分かる。


 しかし城内にいる人々の多くは、俺が帰ってきた時に彼女とは異なる感情を抱いていたに違いない。

 なぜなら城を出る前には俺の耳にも彼らの心配する声が聞こえていたからだ。


――徳川殿に囚われてしまうのではないか!?

――いや、それどころか、命を奪われてしまうかもしれない!

――なんでも秀頼様の病も徳川の仕業だったんじゃないかって話らしいしな!


 つまり彼らは「ご無事でなりよりです」と、ほっと胸をなでおろしているだろう。

 そしてこれらの根も葉もない噂話が俺まで届くのだから、当然千姫の耳にも入っているはずだ。

 しかし彼女はそんなことは微塵も見せず、純粋に俺との会話に幸せそうな表情をしている。


「なあ、お千」


 俺は思わず彼女を呼び止めた。

 突然真顔となった俺を見て、彼女は目を丸くしている。


「どうなさったのですか? 秀頼さま」


 俺は端的に問いかけた。


「何か辛いことはないか?」

「えっ……?」


 俺の問いかけの意図が分からずに戸惑っている千姫。

 俺はそんな彼女をじっと見つめていた。

 口には出さずに瞳に言葉を込めて。


 すると、彼女は一瞬だけ瞳に哀しげな色を浮かべたが、すぐに元の輝きに戻すと、満面の笑みで答えたのだった。


「みなが良くしてくれておりますので、何も辛いことなどありません! それよりもこうして秀頼さまとお話出来ることが千には幸せでならないのです!」

「幸せ……」

「はいっ! 千は今、幸せでございます! あっ! そういえば秀頼さま! 昨日はこんなこともあったのですよ!」


 さらりと話題を変えて再び他愛もない話へと移す千姫。

 だがちらりと見せた彼女の瞳に映った悲哀の色が、俺の頭の中を完全に覆い尽くしていた。

 やはり彼女も知っていたのだ。城内の噂話のことを。

 徳川と豊臣の狭間にあって、辛い思いをしているのだ。


――秀頼殿とお千の『幸せ』は大坂にはない。江戸にある


 彼女の得意げに話しをする横顔を見ていると、家康の言葉が重くのしかかってくる。

 

 俺が守るべきものとは何か。

 一人でも多くの民が『笑顔』に暮らせる世を作る為に俺が取れる最善の行動とは何か。

 二条城の会見で俺にもたらされた迷いの欠片は、少しずつ大きくなっていっている気がしてならなかったのだった。


◇◇


 慶長一五年(一六一〇年)三月三〇日 大坂城 評定の間――


 今は評定の真っ最中。そして議題は二つ。

 再建中の方広寺の鐘の銘文をいかがするか、という点と、徳川家康の要求をのむか否か、ということだ。


 鐘の銘文の件は、あっさりと片桐且元に一任するということで決着した。


 そして次の議題について話し合っている最中だった。


「……おい! ちゃんと聞いているのか!?」


 俺は甲斐姫の叱りつける声で、はっと我に返った。


「あ、ああ。申し訳ない。して、今はどんなことを話し合っていたのかのう?」

「はぁ!? 二条城の会見の結果についてであろう? 一体他に何を話し合うというのか!?」

「そ、そうであった」

「まったく……昨日からどこか変だぞ。もっとしっかりせよ」

「う、うむ」


 真田幸村、甲斐姫、桂広繁、明石全登、津田宗凡、大野治長、大蔵卿、片桐且元、織田老犬斎、織田有楽斎と、評定衆の全員が集まり、俺に視線を向けている。


「では、早速多数決で決めようではないか! 徳川の要求をのむ、とする者は挙手!」


 高らかと告げる甲斐姫。

 だが多数決をしたところで、『否』と決まるのは目に見えている。

 終始一貫して『徳川へ恭順すべし』と主張している織田有楽斎だけは勢い良く手を挙げたが、後に続く者はいなかった。


「どうやらこの件は『否』と決着したようだな。では秀頼殿、お断りの書状を……」


 そう甲斐姫が話を進めようとした時だった。


「少し待ってくれ!」


 と、俺の口がひとりでに動いたのである。

 いや、「ひとりで」という表現するのは語弊があるかもしれない。

 なぜならそこには明確な俺の意図があるのだから。

 皆が目を丸くして、俺を見つめている。

 俺はごくりと唾を飲み込むと、腹に力を込めて言った。


「本件については思うところがある。よって保留とする。後日再度結審しよう。では、本日はここまで! 解散!」


 全員が呆気にとられて言葉を失っている中、俺はそそくさと部屋を後にした。

 慌てて真田幸村が俺の背中を追ってくる。

 そして廊下を少し進んだところで、雷のような声が響いてきた。


「ちょっと待ちな!」


 それは甲斐姫だった。

 俺は振り返らずに足だけ止めると、彼女は早足で俺の横を通り抜け、俺の正面に仁王立ちした。


「大坂のことは全て多数決で決着させるとしたのは秀頼殿ではないか! それをたった一言で破るなんて感心しねえな! どういうことだ! しっかりと説明せよ!」


 俺はうつむいていた顔を上げて彼女を見つめた。

 すると俺の瞳の色に『迷い』や『陰り』が見えることを素早く察知した彼女は、俺の両肩に手をのせて言った。


「一人で抱え込むでない。わらわもそこにいる源二郎もお主を守ると心に誓っているのだ」


 先程までとは打って変わって優しい口調に、俺は固くなった心がほぐされていくのを覚えた。

 そして小さく頷くと、彼女と幸村の二人に胸のうちを、天守の最上階にある俺の部屋で打ち明けることにしたのだった。


◇◇


「なるほどね……お千殿のことで悩んでいた訳か。しかしそうなるとお千殿はまさに傾国ということだな。ふふふ」

「笑い事ではございません、甲斐殿。かような一大事に」


 笑顔を見せる甲斐姫に対して、幸村は眉をひそめながら苦言を呈している。

 すると彼女は首をすくめて言った。


「源二郎は相変わらず堅苦しいな。ちとは太閤殿下を見習うとよい」

「太閤殿下を?」

「ふふ、寵愛したおなごの為に城一つを与えてしまうほどの度量を持て、ということだ」

「な、なんと……」


 実際に太閤秀吉は、懐妊した淀殿に対して淀古城なる城を与えているのだが、幸村にそれを求めるのも酷な話だろう。なぜなら彼と彼の父は、上田城という一つの城を守る為に、幾度となく強敵と戦ってきたのだから。


 さて、顔を青くしている幸村から目を逸らした甲斐姫は、俺にその視線を移した。


「して、腹は決まっているのか? 徳川の言いなりになることの」


 俺は言葉につまった。

 あらためて「徳川の言いなり」と言われると、胸に鈍い痛みが走る。

 そんな俺の迷いを見透かしたかのように、彼女は追い打ちをかけてきた。


「もし秀頼殿が徳川の言いなりになるなら、今まで築き上げてきたものを捨てることになるのだぞ。その覚悟は出来ているのか、と問いかけいるのだ」

「今まで築き上げてきたもの……」

「ああ、大坂の街も、京の学府も、人々との信頼も、家臣たちの忠誠も。そして……」


 一度言葉を切る甲斐姫の表情が少しだけ曇る。

 そしてどこか哀しげに言った。



「太閤殿下の『夢』も……」


 

 ぐらりと強い目眩に襲われると、思わず体がよろめいた。

 

――太閤の夢を俺が捨てる……。


 ふとよぎったのは、俺の『前の豊臣秀頼』だ。

 恐らく彼にも同様の提案が徳川将軍家から持ちかけられていたに違いない。

 もし自分や家族だけが生き長らえることだけを考えていたならば、彼は大坂城を出るという選択をしたはずだ。

 しかし彼は結局大坂城と運命を共にした。

 それはなぜだったのだろうか。


――太閤が見た夢を最後まで守り通すつもりだったのではないか。


 そう思わざるを得ない。

 では『太閤が見た夢』とは一体なんだったのだろうか。

 

 そんな逡巡をしているうちに幸村がぼそりと呟いた。


「そう言えば太閤殿下がお亡くなりになる前に現れた謎の女がこう申しておりました。『太閤の二番目に大切なものを頂く』と」

「源二郎はそれは何だと言うのか?」

「豊臣の天下ではございませんか。一番はもちろん秀頼様や淀殿のお命かと」


 甲斐姫は幸村の言葉を耳にして、どこか諦めたように声の調子を落とした。


「では、その女とやらは、『今の』秀頼殿ならこうなると分かっていたのではないか」

「つまり太閤殿下の大事になさってこられたものを手放して、千殿や多くの者を徳川との争いに巻き込ませないようにすると……」

「しかし今までの対徳川との一戦に備えた準備は一体何だったのかね?」


 彼女の言葉に胸がちくりと痛む。

 確かに俺たちはここまで豊臣の天下奪還と大坂城を守るために一生懸命努力してきた。

 それが水泡に帰すのか。ただ一つ、俺が守りたいもののために……


 ……と、その時だった。

 俺に一つの考えが浮かんだのは。


「豊臣の天下と大坂城……二つを守るのは難しい。なら、せめて一つは守れないだろうか」


 その言葉に反応したのは幸村だった。


「徳川殿の要求は『武蔵国転封』と『秀頼様の定府』。そのうち『武蔵転封』をお断りになるということでしょうか」


 幸村の言葉に甲斐姫が食いつく。


「大坂城と畿内を掌握していれば、いつかまた覇権奪還の機会はある……ということか」

「そこまでは考えていない。しかし父上の守りたかったこの景色は守れるのではないか」


 俺は窓を開けて外の景色を見ながら言った。

 春の爽やかな風が、花の匂いを連れて吹き抜けている。人々が忙しく働く声と緩やかに進む真っ白な雲が対照的な景色。

 もし大坂の陣が起こったなら、結果はどうであれこの景色は失われてしまうだろう。


 大坂の陣を回避することこそが、皆を『笑顔』にする正道なのではないか。

 俺の腹は既にその一点に傾いていた。

 

 背後から甲斐姫の声が聞こえてくる。


「とにかく皆に話をせよ。それから決めるがよい」


 その口調は、『秀頼殿がどんな決断を下そうともわらわだけは味方になってやるから安心せよ』と背中を支えてくれているようだ。

 鼻の奥にツンとした痛みを覚えると、俺は振り向くことが出来ず、しばらく外の景色に目を細めていたのだった。


 

 

  





 

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