黒田如水の墓① けじめ
◇◇
慶長一三年(一六〇八年)八月二八日――
ついに俺たちは九州最後の滞在地である福岡に到着した。
滞在と言ってもわずか二日間だけだ。
その後は海路で堺の港を目指すことになっている。
そして俺と真田幸村の二人は今、福岡城の客間へと通されたのだった。
「ようこそいらっしゃいました、秀頼様」
にこやかな表情で迎えてくれたのは黒田長政だった。
「丁寧な出迎え、まことにありがたきことじゃ。長政殿」
俺は高圧的な態度ではなく、親しみを込めて彼に返事をした。
そして一段高くなっている上座ではなく、彼の正面に腰を下ろすと小さく一礼する。
その様子に彼は目を丸くしていた。
俺は不思議そうにしている彼に向けて滑らかな口調で言った。
「お主とお主の父には、われも太閤殿下も大いに世話になった。礼を尽くさねば罰が当たるというものだ」
「なんと……これは驚きました」
俺の態度に面を食らっている長政は、後に続ける言葉を失っているようだ。
そこで俺は間髪入れずに彼に問いかけた。
「そういえば万徳丸殿は元気にやっておるか?」
万徳丸とは彼の嫡男で、後の福岡藩主黒田忠之のことだ。
この時は六つか七つだったと記憶している。
「ええ、それはもうやんちゃで仕方ありません」
「うむ、折角だから万徳丸殿にも会っていきたいのう」
「かしこまりました。ではすぐにここへお呼びしましょう」
長政は部屋の外に待機していた小姓に声をかけた。
そしてしばらくすると、見た目からして腕白そうな少年が、母と思われる女性と共に現れた。
「万徳丸と申します! よろしゅうお願い申し上げます!」
ここに来るまでの間、母に言いつけられたのだろう。
棒読みの台詞ではあるが、一生懸命さの伝わる口調で彼は挨拶してきた。
「うむ、素晴らしい挨拶じゃ。われは豊臣右大臣秀頼と申す。万徳丸殿、よろしゅう頼んだぞ」
俺の笑顔に緊張が解けたのか万徳丸が無邪気な少年の顔へと変わる。
そんな彼の顔を見て、俺はこれから自分がしようとしていることを思い浮かべて、ちくりと胸が痛んだ。
――あのように純粋な心をいつ忘れてしまったのだろうか。
そんな感傷に浸ったのも束の間、俺は気持ちを切り替えて言ったのだった。
「万徳丸殿。お主の父上もじじ殿も、豊臣家によく尽くしてくれてな。特に父上なぞは、幼少の頃、かの織田信長公によって誅されそうになった所を、わが父、太閤秀吉公が守ったのだ。その恩に報いる為に、粉骨砕身で忠義に尽くしてくれているのだぞ」
和やかな雰囲気に合わせたような穏やかな俺の声。
しかし……
黒田長政、そして後ろに控えている彼の側近、栗山善助の二人は明らかに顔を引きつらせていた。
もちろん会話の真意など知りもしない万徳丸は、輝く瞳で父の長政を見ている。
そして俺の思惑通りの言葉を出したのだった。
「父上は忠義の人なのですね! さすがは我が父上じゃ! きゃははは!」
俺はニコニコしながら万徳丸の様子を見つめている。
もちろん長政も優しい父親の顔で万徳丸の頭を撫でている。
しかし微かに震えている口元から、彼の憤りと焦りの感情が見て取れた。
それもそのはずだろう。
暗に息子に対して「黒田家は代々豊臣家に忠誠を誓ってきた」と植えつけられたのだから。
それは言ってみれば『踏み絵』のようなものだった。
もちろん俺がどんな策を弄そうとも、黒田長政が徳川将軍家を裏切ることなどないというのは目に見えている。
つまり彼は黒田家存続の為ならば、豊臣家を踏みにじってでも徳川将軍家に恭順することだろう。
それを示すように、史実において、彼は大坂の冬の陣では江戸城を守り、さらに夏の陣では徳川秀忠を守った。
もちろん黒田家が存続していく為には最善の道理であり、如水も天から息子の行動を褒めているに違いない。
だが俺の感情は、『理屈』で全てを片付けてしまうことを許さなかったのだ。
――お主の父、黒田如水は豊臣家への忠義に殉じて死んでいったのだぞ!
俺は彼の前でそう言ってやりたかった。
それが出来ないから、仕方なく何も知らない無垢な少年を『だし』に使ったのだ。
姑息であり、決して許されないこと。
黒田長政を完全に敵に回してしまうこと。
そんなことは百も承知だ。
承知な上で実行したのだ。
俺、豊臣秀頼という武士の一分の為に――
ところが……
彼の反応は俺の予想の一歩先を行くものだった。
「万徳丸よ。一国を治める藩主である以上、われらはただ自国だけでなく、天下に目を向けねばならん。すなわち天下を統べるお方に忠義を尽くすことが肝要じゃ。かつては太閤殿下であり、次に大御所様、今は上様じゃ。太閤殿下の御偉業を継がれるお方にお主も良く尽くすのじゃぞ」
なんとあっさりと黒田家が忠義を尽くすべき相手が移り変わったことを息子に告げたのである。
しかもごく自然に、理路整然と……
見た目は互いに全く変わらない。
しかし俺は黒田長政の機転と知恵に圧倒されて言葉を失っていたのだった。
「はいっ! 父上!」
「うむ、良い返事じゃ。ではわしは秀頼様にお話があるゆえ、先に下がっていなさい」
元気よく返事をして部屋から下がっていく万徳丸とその母。
再び部屋の中には、俺たち四人だけとなった。
誰も何も口にしない、どこか気まずい空気が流れる。
しばらくした時だった……
黒田長政は深々と頭を下げたのである。
そして彼の口から発せられたのはたった一言だった。
「ありがとうございました」
ずしりと心に重く響く口調。
万感の思いが込められているのが、すぐに伝わってきて、思わず熱いものが込み上げてきた。
それは『感謝』と『別れ』の言葉だったのだ。
亡き太閤秀吉と彼の妻、寧々に育てられた恩。
そしてもう二度と振り返らない不退転の決意。
その二つがまるで陰と陽のように入り混じっている。
これが黒田長政の『武士としてのけじめ』。
きっと誰よりも苦悩し、断腸の思いで決断したのだろうことは、顔を上げた彼の目に光る涙が、何よりの証だった――




