秀頼の九州訪問③ 大薩同盟
◇◇
慶長一三年(一六〇八年)八月二〇日――
ついに俺たち一行は薩摩国に入った。
豊後ではまるで異国にいるかのような街の様子に面食らったが、薩摩はどこにでもあるような景色が続いていた。
「なんだか落ち着きますなぁ!」
大野治徳が大きな伸びをしながら笑顔で大声を上げる。
確かに『日本の原風景』とも呼べるのどかな農村の風景は心洗われるものだ。
しかし、この時点で俺は一つの考えが確信に変わっていた。
それは隣の真田幸村も同じだったようだ。
「貧しいですな」
わずか一言であるが、それはまさに俺の思った事を凝縮しているものだった。
そう…… 国が貧しいのだ。
もし薩摩藩そのものが経済的に豊かであったなら、藩からの投資で商人たちを呼び寄せたり、市場を整備したりするはずだ。
そうならば、海や港が間近に迫った場所がもう少し栄えていてもおかしくない。
つまり今目の前でのどかな農村が延々と続いているのは、薩摩藩の財政が芳しくない十分な証だったのである。
俺は口元に微かな笑みを浮かべると、幸村に目配せだけして無言のまま馬を進めたのだった。
◇◇
鶴丸城、後世で言う『鹿児島城』に到着した俺たちは、豊後の府内城を目にした時とは、正反対の意味で唖然とした。
なんといわゆる『城』らしき建物が一切ないのである。
あえて言えば少々大きな屋敷が、簡素な石垣や城門に囲まれてひっそりと建っているだけだ。
むしろその屋敷の裏手の山にある『上山城』の方が、まだ城らしい体裁を整えていると言えよう。
それほどに鶴丸城は簡素な造りで、とても大大名の島津氏の本拠地とは思えないものだった。
「ようこそ。このような田舎までよくぞお越しくださいました」
無機質とも言える何もない部屋に待っていたのは二人の男。
そのうちの一人が俺たちに向かって頭を下げながら挨拶をしてきた。
そしてつられるようにもう一人の壮年も慌てて頭を下げた。
「それがしは島津龍伯と申します。ここにおるのが薩摩藩当主の忠恒にございます。以後、お見知り置きを」
「おいっ! 伯父上! 今は『家久』じゃ! 間違えるでない!」
「ふふ、これは失礼した。だが、ややこしい名前に変えたお主が悪い」
「ぐぬっ……」
島津龍伯……剃髪前の名は「義久」。言わずと知れた島津家の以前の当主であり、今も裏に表に島津家の実権を握り続けている名将だ。
そして島津家久は、つい最近までは「忠恒」と名乗っていた将。
徳川家康から一字を貰い、今は「家久」と名乗っているらしい。
しかし島津家には義久の弟で忠恒の叔父にあたる人物に「家久」と名乗る勇将がおり、どうやら義久としては彼の改名にあまり乗り気ではなかったのかもしれない。
客人の前でぴしりと一喝された忠恒は恨めしそうに義久を見たが、彼は全く気にする素振りを見せず、俺たちをじっくりと見ていた。
なお島津義久はこの時既に七五歳。
しかしとてもそんな年齢には見えない程に、肌につやがある。
やせ型で細長い顔に、切れ長の目からして、さながら狐を思わせる研ぎ澄まされた風貌だ。
一方の忠恒は、全てが緩い。
この時三二歳の彼だが、ぽっこりと腹が出て顔も丸々としている。
普段の不摂生が分かるような老け顔で、およそ一〇歳年上の幸村の方が、逆に一〇は若く見える。
――どうやら義久と話を進めた方が良さそうだな……
そんな風に考えていた矢先の事だった。
「では後の事は忠恒に任せますゆえ、それがしはこれにて失礼いたします」
「だから、俺は『家久』なんだって…… って、おいおいおい! 伯父上がいなくなったら、それがしは一人になっちまうじゃねえかよ!」
席を立ち始める義久に対して、慌てて忠恒が呼び止めた。
しかし義久は冷たい視線を彼に浴びせると、淡々と言い放った。
「お主が島津家当主なのであろう。だったら全てお主の責任で決めればよい」
「いやいや! ちょっと待ってくれ!」
「いや、待たぬ。家康公の元へ頭を下げる事は許した。しかし一字を貰って調子に乗った挙句に、『降伏の誓紙』まで出す事は許しておらん」
「ちょっと待ってくれ! 今さらそれを言うか!? もうずっと昔の事じゃねえか!」
「はて……? たった三年前の事を『昔』と表す事も許した覚えはない。そんなに自分で全てを決めたくば、今後一切口出しはせぬ」
そう言い残して義久は襖の外へ出ていってしまった。
しかし……
彼は冷たい声だけを最後に部屋に響かせてきたのだった。
「もし……島津に不利な約束をしてみろ。お主の父によって桜島へ流されるぞ。それだけは覚悟しておくように。ふふふ」
この一言に明らかに顔の色が真っ青になった忠恒。
なお忠恒の父とは、かの『鬼島津』こと島津義弘。
その名のごとく鬼のような恐ろしい風貌がぱっと頭に浮かぶと、全く関係のない俺まで凍えるような義久の言葉にぞっとして背筋が伸びてしまったのだった。
俺と忠恒は思わず顔を見合わせると、俺の方から切り出した。
「きょ、今日は旅の疲れもある。会談は明日にしようかのう。ははは……」
「そ、そうしていただくと助かります。では、また明日」
忠恒は深々と頭を下げると、そそくさと部屋を出た。
そして……
「伯父上ぇぇぇぇ! ちょっと待ってくれぇぇぇ!!」
という涙まじりの叫び声が廊下中に響き渡ったのだった。
◇◇
翌日――
昨日とは座る位置を逆にした島津義久と忠恒。
明らかに義久の方が前面に出ている事から、どうやら彼が島津家の代表として会談に臨むようだ。
そして……
――スッ
俺は少しだけ下がると、代わりに前に出きたのは……
真田幸村。
俺は彼に島津家との会談の全てを任せたのだった――
◇◇
「つ、つわものじゃ……真田幸村は日の本一のつわものじゃ……」
およそ一刻(約二時間)にわたる会談を終えた後、島津忠恒は書状に署名をしながらそう呟いていた。
一方の俺は、同じく書状に署名しながら呟いた。
「いやいや……義久殿もまことに恐ろしい男じゃ……」
俺たちが取り交わしたのは、史実にはない『大薩同盟』の書状だった。
その内容は軍事的な協力こそなかったものの、経済面における強固な協力関係を結ぶものだった。
ちなみに俺はこの会談に臨む前は「銭で島津を買う」と意気込んでいた。
言いかえれば貧しい薩摩藩に対し、巨額の経済支援を行う事で、琉球との外交や貿易を豊臣家が独占する事を企んでいたのである。
しかし島津義久は正しく俺の意向および畿内における経済事情を把握していた。
つまり豊臣家が発行している債券が額面よりも数倍の価値がある事を知っており、その債券を島津に無利子で大量に貸し付けようとしている俺の考えを読んでいたのである。
――実物の『金』ないしは『銀』以外に信用しているものはございませぬ
これが義久の口から一番最初に発せられた言葉だった。
そして直後には、
――また琉球との件については、我が島津家が徳川将軍家に一任されております。もしその意向を変えたくば、相談先は薩摩ではなく江戸になりましょう
と、先手を打ってきたのだ。
この時点でもし俺が交渉役だったなら、すぐに白旗を上げていたに違いない。
しかし彼に対峙した真田幸村は違った。
彼は何でもないようにさらりと答えたのである。
――島津と琉球の件に口を挟むつもりはさらさらございませんので、御安心くだされ
わずかに目を大きくした義久に対して、幸村は続けた。
――豊臣秀頼様の大志は、天下万民が豊かな生活をし、笑顔で暮らす事。そこまで色々と御存じであれば、我が領土である畿内の人々が豊かに暮らしている事は御存じでしょう。秀頼様は薩摩の民にも同じように豊かな生活を送っていただきたいと望んでおられるのです
――ふふ、ならば米でも金でも、大坂より薩摩に送っていただければ結構でございましょう
――ええ、そうしていただきたいのですが、その為には船が必要。秀頼様は船を造る為の造船所を琉球に建設し、豊臣の資金で運用および監督をするのを望まれているだけでございます
――ほう、では他の交易や年貢の取り立ては島津のものと……
――元よりそのつもり。つまり船を造る場所を提供してくださるだけで、薩摩の民は潤う。悪い話ではないかと存じますが、いかに?
こうしてあっさりと『大薩同盟』の大枠が合意された。
あとは細かい取り決めに関する内容をつめて、最後に当主同士の署名入りの書状を取り交わしたという訳だ。
もし幸村が流れるように対応しなければ、恐らく『妖孤』島津義久の言いなりとなって交渉は進んでしまっただろう。
そして逆に言えば、仮に幸村の方から交渉内容を切り出していたなら、さしもの義久と言えども、苦戦を強いられていたに違いない。
一見するとさらさらとした川の流れのような言葉の応酬であったが、その裏では剣聖同士の果たし合いのような緊張感のある攻防が繰り広げられていたのだった。
俺と忠恒が互いの『参謀』を褒め称えたのも無理はないだろう。
俺と忠恒はただ座っていただけだが、ぐったりと疲れた様子で互いの書状を受け取る。
とにかくこれで正式に琉球での造船が現実味を帯びてきた。
後は琉球側との交渉だが、こちらは島津と共同で進めていく事が決まった為、史実通りならば遅くとも来年には決着するはずだ。
「うむ、ではこれから天下万民の為に手を取り合っていこうではないか!」
俺は締めくくりとして忠恒に右手を差し出す。
この時代はまだ『握手』の習慣がなく戸惑う忠恒の手を強引に握った俺は、ぶんぶんとそれを縦に振った。
「よく覚えておいてくれ! これが友好の証じゃ!」
俺は笑顔でそう言うと、それまで張り詰めていた場の空気が一気に軽くなった。
そして忠恒もはにかんだ笑顔を浮かべて、握られた手を握り返してきたのだった。
なんでもないように交渉をまとめ上げていく事がいかに難しい事か。
そして政治や外交がどれだけ神経をすり減らす事か。
この話を書きながら、政治家と呼ばれる人々への畏怖を感じました。




