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失脚狂想【終幕】 本多正純

◇◇

 慶長一三年(一六〇八年)六月下旬――

 

 徳川幕府から発せられた一つ報せは全国の諸大名に激震をもたらした。

 それは……

――本多正純の全ての任を解く。以降は出羽国にて謹慎とする。

 というものだった。

 

 徳川家康の寵愛を一手に受け、幕府の中で他を圧倒する権勢を振るい続けてきた彼が突然要職から解任されたのだ。

 しかも彼の罪状は明らかにされないままであった。

 

 そこで京の町民たちは口ぐちに勝手な噂話をでっち上げた。

 

――大久保忠常公の怨霊が取り付いて気が狂ってしまったらしい

――いや、どうやら大久保長安と同じように私腹を肥やしていた事が露見されたらしい

――女ぐせが悪く、家康公の勘気をこうむったらしい


 いずれも根も葉もないものだが、全てが良くない噂であった事から、いかに彼が人々から好かれていなかったかが分かるというものだ。

 京都所司代の板倉勝重は、それらの噂話の火消しに追われる毎日を過ごしていた。

 

 そんなある日の事、勝重の前に現れたのは、渦中の人、本多正純だったのである。

 

「来月早々に伏見を離れる事になりましたので、御挨拶をと思い参りました」


 屋敷の門の前まで出迎えた勝重。

 外に立つ正純から少し離れるようにして、多くの野次馬たちが彼の様子をひそひそ話をしながらうかがっている。

 しかし正純は周囲の喧噪など素知らぬ振りで、いつも通りの無表情を貫いていたのだった。

 

――単に面の皮が厚いだけか。それとも必死に隠そうと強がっているだけか……


 勝重はそんな風に頭を捻りながらも「ささ、早く入りなされ」と中に入るよう促したのだった。

 しかし正純は静かに頭を横に振った。

 

「御挨拶だけのつもりでしたので、こちらで構いません」

「さようか……では遠く離れてしまうが、達者でな」

「ありがたきお言葉でございます。板倉殿も京の守備は大変でしょうが、どうか御達者で」

「うむ……」


 何気ない挨拶だが勝重には「京の守備」という言葉にかすかな引っ掛かりを覚えた。

 それはまるで「京で戦が起こる事」を予感させるような物言いに思えたのである。

 

――考え過ぎかのう……


 そして正純は小さく頭を下げると、早くもその場を立ち去ろうとした。

 勝重は口を引き締めて彼の背中を見送る。

 

 ……と、その時だった。

 

 正純は振り返る事なく小さな声で告げた。

 その口調は確かに『憎悪』が籠っており、勝重は思わず顔を青くしたのであった。

 

「間もなく豊臣にとある勅命が下りましょう。その勅命を受けたが最後、当家はよほど大きな理由がない限り豊臣に手出しが出来なくなります」


 勝重にとってそれは初耳であり、彼は首をかしげた。


「とある勅命……そんな話は聞いておらんぞ」

「当たり前です。豊臣が秘密裏に進めている事ですから」

「して……何が言いたい」

「いえ、勅使が『無事』に大坂にたどり着いてしまったら、大御所様はお困りになられる事でしょうな」

「まさか、お主……それを妨害しようとでも考えているのではあるまいな」

「……そんな事をしたら当家は逆臣とされてもおかしくございません」


 そう言い残して正純は立ち去っていった。

 

◇◇


 慶長一三年(一六〇八年)七月三日 駿府城――


 本多正純は徳川家康を訪れていた。

 彼が罷免されてから初めての面会であった。


 そして……


 彼が生きて家康と顔を合わせるのは、これが最後となる――


「思いの外、元気そうだのう。正純」

「ふふ、おかげさまで暇が多く出来ましたゆえ、体調は万全でございます」

「ふん! その減らず口も治っておれば言う事はなかったのだがのう!」


 そこで家康は正純から顔をそむけた。

 とてもではないが彼を凝視出来なかったからだ。


 関ヶ原の戦い以降、彼が最も共に過ごした時間の長い人こそ、本多正純であった。

 溢れんばかりの才能と少しばかり危うい性格……それら全てを彼は愛していた。

 そして彼が覇道を進んでいくに従って、残された課題は困難なものばかりとなっていったのである。

 それら全てに正純は過剰な自信を持って、正面切ってぶつかっていった。

 しかしいつしかそれは正純の才では追いつかぬ部分にまで及んでしまったのである。


――ああ…… なぜ困難に対して、自分が泥をかぶってやれなかったのか……


 家康は自身の行いを悔やんだ。

 決して弱音を吐かず、逃げる事もない……


 本多正純という男は、根っからの『三河武士』だったではないか……


 それに気付いていながら、なぜ自分は彼から逃げたのだ。

 そして彼はついにその重みに耐えかねて、自らの身を滅ぼしてしまった。

 家康は悔やんでも悔やみきれなかった。

 しかし正純の口から出てきたのは家康に対する感謝の言葉だった。


「大御所様。今まで本当にお世話になりました。小身の我が身が大御所様と共に『夢』を見られた事に、まこと感謝しております」


 家康は横を向いたまま、何も口に出せなかった。

 しかし正純は咎める事もなく、穏やかな口調で続けた。


「愚かな我が行為で大御所様にはご迷惑をおかけしてしまった事、心よりお詫び申し上げます」


 正純は深々と頭を下げた。




 しばらく沈黙が流れる……




「すまんのう。お主を守ってやる事が出来んかった」



 静寂をやぶる家康のしゃがれた声。


 正純と出会った頃はまだ声にも張りがあった。

 新しい世の中の仕組み作りと、「いつかは俺も!」というみなぎる野望に若々しかった。


――ああ…… 殿も老いたのか……


 正純は少しだけ顔を上げて家康を見つめる。

 すると……


 家康はじっと正純を見つめていたのだ……


 たったそれだけ。


 自分から目をそらさずに見つめてくれているだけで、正純は救われた気がした。

 一度目を閉じる。

 わずかに高鳴る胸の鼓動は、寂しさと興奮からくるもの。

 しかしゆっくりと目を開けた彼は、いつもと一寸も変わらぬすまし顔。


 なぜなら彼は『本多正純』だから。


 そして彼は最後の『策』を献じた。


「間もなく京からの勅使が大坂へ下向されるでしょう」

「うむ。ますますややこしくなりそうだのう……」

「ふふ、いざとなればどんな手を使っても大坂を捻り潰すおつもりでしょう?」

「ふんっ! わしはそんなに非道な男ではない!」

「よいのです。むしろそうでなくてはなりません」


 正純はそこで一度話を切る。

 家康が「早く先を言え」という目をしている。

 その目を見るのが正純はたまらなく好きだった。

 自分に寄せる期待を感じられるからだ。


 しかしそれもこれが最後。


 彼は一度だけ瞬きをすると、いつもの口調に少しだけ色をつけて続けた。


「もしその勅使が無事でなかったとしたら、護衛にあたる豊臣家はただでは済まないでしょう」

「まさか、お主……勅使を害するつもりか……?」

「いえ、そのような野蛮な真似はいたしません」

「では、何を考えておる!?」


 本多正純は変わらない。

 淡々した口調も、すまし顔も。


 変わらないはずなのだ。


 しかしなぜなのか……


 両目から溢れる涙が止まらないのは――



「勅使と豊臣家の一行が一揆の軍勢に襲われたら……」


 言葉につまる正純。涙が口を普段通りに動かすのを邪魔しているのだ。

 するとなんと家康が合いの手を出してきたのだ。

 まるで彼を助けるように。


「豊臣一行の兵はどれくらいと踏む?」

「せいぜい二〇〇」

「対する一揆は?」

「一〇〇〇は集められましょう」

「五倍か……してその後は?」


 心地の良い言葉の応酬。

 正純は気付いていた。

 これが家康からの最後の『褒美』であるという事を。

 すなわち彼の最後の『策』を聞き入れようとしてくれていると……


「京都所司代の板倉殿率いる幕府の軍勢がこれを助ける……」

「なるほど……さすれば『豊臣は徳川に守られる存在』と世間に分からせる事になると」


 家康は顎を引いて考えだした。

 正純もようやく涙を抑え、家康をじっと見つめる。


 そして、彼が最も愛した時間……『夢』見た時間がやってきた。



「お主に任せよう。京には三〇〇〇の兵を送っておく」



 家康からの「任せる」の一言。

 この為に正純は生きてきたのだ。

 家康と共に『夢』を見てきたのだ。


 再び溢れ出す涙。


 しかし彼は『本多正純』。

 どんな事があろうとも、うろたえずに小憎たらしい微笑でやり過ごす。

 たとえ愛する者と永遠の別れとなろうとも……



「では、これにて失礼いたします」



 正純は最後まで変わらぬ口調で言い切ると、一人部屋を後にした。

 そして彼は駿府城を出ると、謹慎先の『東』ではなく、『西』へと向かっていった。


 

――本多正純、出奔!



 その報せは三日後には全国へと駆け巡ったのだった――




ご一読いただき、まことにありがとうございます。


書籍版について、発売日が2018年1月27日(土)に決定いたしました。

既にアマゾンや本屋のWEBサイトで予約が開始となっております!

是非よろしくお願いします!


また帯には読者様から頂戴したレビューを掲載させていただく方向で進めております。

私なりの全ての読者様たちへの感謝の気持ちを示したかったからです。


あらためて読者の皆様、本当にありがとうございます。

貴殿らの暖かい後押しによって、この作品は生まれたのだと思っております。


これからもどうぞよろしくお願いいたします。


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