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失脚狂想⑤ 逆鱗

◇◇


――おお! まるで珠のような子じゃのう!

――かかか! お主の子とは思えぬ、利発そうな子じゃ!

――ふんっ! この子も彦左のようなひねくれ者が親じゃなくてよかったのう!

――何を言うか、新十郎!

――おおい、長安! そんな離れた所に立っていないで、こっちへ来い!

――しかし……私は『本当の家族』ではございませぬゆえ……

――若い癖して難しい事を考えるでない! この子はお主にとっては『弟』なのじゃぞ!

――俺にとっての『弟』……

――ふんっ! 彦左もたまには良い事を言いよるわ!

――たまにはとは何じゃ!?

――という事だ、長安! 早くこっちへ来てこの子を抱いてくれ!



 在りし日の光景。

 何度も何度も夢の中で繰り返されるその光景に、大久保忠隣おおくぼただちかは涙を止められなかった。

 

 人はどれほど涙を流せば、自然と止まるものなのだろうか。

 

 目の前に広がる駿河湾が埋め尽くすくらいに流さねばならないのか……

 

 二人の『息子』をほぼ同時に亡くした哀しみは、彼の全てを奪い去った。

 食事もほとんど喉を通らず痩せ細り、黒々と光っていた髪も雪のように白くなった。

 憔悴しきった顔は目だけがぎょろりと浮かび、口は半開きのまま。

 周囲の誰が声をかけても、反応する事はかなわない。

 

 そんな日が一カ月も続いた。

 その間、再三再四にわたって将軍から江戸城へ登城するように申しつけられたが、全て彼は無視していた。

 さらに忠常と生前親しくしていた幕府の若い家老たちから、「せめて仏に手を合わさせて欲しい」と何度か懇願されたが、固く門を閉ざした彼は、誰一人として忠常の墓前に手を合わせる事を拒否した。

 それほど、彼の哀しみは深かったのである。

 

 そんな中、将軍秀忠が自ら忠隣の為に『精進落としの宴を開く』と達しが出た。

 忠隣だけではなく大久保家にとって、これほどまでにない名誉な事。

 それは将軍家がどれほど忠隣を気にかけ、信頼しているかを示しているものだった。

 ところが、忠隣は事もあろうことか、将軍のお達しを拒否したのだ。

 これにはそれまで同情的だった家老たちも強く反発した。

 そして将軍の意向すら撥ね退けたという事実を、大御所である徳川家康は見過ごす訳にはいかなかった。

 

 そこでついに家康の口から有無を言わさぬ裁定が下った。

 

 

――小田原大久保家は取り潰す。忠隣は城を明け渡し、近江で蟄居せよ


 

 それは大久保家の『失脚』の瞬間だった――

 

 

 これで全ての決着がついた。

 本多正純は変わらず伏見にて政務を続ける一方で、大久保忠隣の穴を埋めるべく本多正信が彼に代わって江戸城に入り将軍を補佐する事となったのである。

 つまり本多父子の権勢がますます強まったのだった。

 

 徳川家中の争いの火種はこうして鎮火した。

 

 

 

 ……しかし、本多正純にとって本当の『地獄』はまだ始まったばかりだとは……

 

 全ての事を『裏』で糸を引いていた一人の男にしか分からなかった。

 

 その男とは……

 

 石田宗應――

 

 

◇◇


 慶長一三年(一六〇八年)五月一〇日 京学府――

 

「殿の思惑とは随分と異なる場所に『雪崩』が起こってしまったようですね」


 影の中から初芽の声だけが小さく響く。

 宗應は相変わらず彼女の方を見向きもせずに答えた。

 

「どこで起こるか分かれば、人の脅威にはなりません。思惑通りに進まぬから人は恐怖するのです」

「さようでございますか……しかしそれでは狙いの相手を仕留める事は出来ませぬ」

「ふふ、お主は意外とせっかちなのだな」


 初芽にとってどれほどぶりだろうか。

 宗應の無邪気な笑みを見たのは。

 彼女は闇の中で思わず彼の横顔に見惚れていると、宗應が静かに続けた。

 

「高い山ほど雪崩はいつまでも続き、威力は絶大となる。麓にいるちっぽけな人はただ飲み込まれるのを待つだけ」


 初芽は驚きに目を丸くした。

「まさか……殿には続きがある、と……」


 宗應は微かに笑みを浮かべたまま、淡々と彼女に指示を出した。

 

「来月頭。一隻の貿易船が堺に着きます。その船の乗組員をあらためよ」

「まさかその船に例の者がいると言うのですか」

「行けば分かる事だ。そしてその者を見つけ次第、彼と共に美濃加納へ行け」

「美濃加納……どうして……?」

「理由がなくてはお前は動けないのか?」


 宗應の顔つきが厳しくなると、初芽は思わず口をつぐんだ。


「いえ……全て殿の仰せのままに」


 初芽は静かに頭を下げると、音もなく部屋を立ち去ったのだった。

 

◇◇


 夏の空は夕方に急変するものだ。

 

 青空はいつの間にか漆黒の雲に覆われたかと思えば、直後から激しい雷雨に見舞われる。そんな経験は日本に住んでいる者であれば、誰しも覚えがあるものであり、さして驚く事でもない。

 

 しかしそれが人と人との事となると話は別である。

 突如として目の前で雷神の如き烈女が嚇怒したなら、誰しも恐怖におののくだろう。


 その恐怖の瞬間が、駿府城で穏やかな時を過ごしていた徳川家康にも降りかかろうとしているとは……

 

 

 それは慶長一三年(一六〇八年)六月一二日の事。


――ドタドタドタドタッ!!


 静寂を突き破るようにして、廊下を駆け抜ける激しい音がこだました。

 そしてその音は家康が過ごす部屋の前でぴたりと止まると、外から小姓の声が響いてきたのである。

 

「大御所様! 申し上げます!」


 まるで戦場の中にいるかのような切羽詰まった声に、家康はわずかに眉を持ち上げながら、それでものんびりと答えた。

 

「なんじゃ、騒々しいのう。落ち着いて用件を申せ」

「はっ! では申し上げます! 今しがた城に…… ぐわっ!!」


――ピシャッ!!


 なんと小姓が言い終わらないうちに、激しく襖が開けられたのだ。

 家康は目を丸くして襖を開けた人物の方に視線を移す。

 すると彼の目はひとりでに大きく見開かれたのであった。

 

「お亀か!?」


 それは家康の長女、亀姫だった。

 そして彼女はさながら怒り狂った仁王のような姿で、家康の事を見下ろしている。

 

「とりあえず座れ」

「お断りします!」


 声が震えているのは、抑えきれぬ怒りの感情からだろう。

 家康は彼女を穏やかな視線で見つめる事で、彼女の昂った感情を収めようとした。

 しかし彼女は収まるどころかますます語気を強めて問いかけた。

 

「父上は御存じだったのか?」

「何の話じゃ? とにかく落ち着いて……」「落ち着いていられるものですか!!」


 一筋の雷が家康の脳天に直撃すると、部屋の周りには家康の身を案じた屈強な武士たちが集まり始める。

 しかし家康は「大丈夫だ。わしとお亀の二人だけにいたせ」と、彼らを遠ざけた。

 明らかに何をしでかすか分からない烈女と親子とは言え二人きりになるのは、身の危険が多少なりともある事は確かだ。それでも人払いをしたのは、この時点で彼が亀姫がここに来た理由に気付いていたからであった。

 

 それは……

 

「大久保の事か?」


 亀姫は問いに答える様子はない。しかし否定する様子もない事から、彼の考えが正しかったと示していたのだった。

 

 なお亀姫は誰よりも『家族』を大事にしている。その愛情は過剰とも言えるほどで苛烈なものだ。

 そして彼女には目に入れても痛くない愛娘がいる。

 しかしその愛娘の夫の大久保忠常は、『不慮の事故』によって命を落とした。さらに長安の処刑および忠隣の改易と『不幸』は続き、彼女の娘は失意の元、美濃加納城へと戻されたのだ。

 しかも亀姫の孫にあたる忠職もわずか五歳の身で幽閉されてしまった。

 

 つまり『家族』が粉々に壊されたのである。

 亀姫の怒りはどれほどのものか、想像を絶するものに違いない。

 

 それでも家康は落ちつき払った声で説いた。

 

「不正に私腹を肥やした者と幕府の命令を聞かぬ者を罰しただけの事」

「それだけではございません!」

「ああ、忠常の事は不運であった。まさかあのような場所で狼藉者に出会うとはのう。まだまだ世の中は物騒じゃ。わしももっと頑張らればならぬ」


 自然と話題をそらしていくあたり、彼の老練さが垣間見れるというものだ。

 しかし亀姫には全く通用しなかった。

 

「不運で片付けるとは、父上の目は節穴か!」


 家康の目がぎろりと光る。

 普通の人であればたじろいでしまう位の眼光だが、亀姫はむしろ身を乗り出すように挑戦的な視線を彼に向けた。

 

「いかに娘とは言え、武士を愚弄するにはそれなりの覚悟と証があるのだろうな?」


――バサッ……!


 家康が言い終わらないうちに亀姫の手から大量の紙が投げられる。

 家康はそれらを流し読むようにして目を通した。

 

――どうせ大したものではなかろう……


 そんな風に高を括っていたからであった。

 

 しかし……目を通す程に、彼の顔はみるみるうちに青くなっていったのである。

 亀姫は父の変わり様を目の当たりにすると、冷酷な口調で言った。

 

「京の学府にて忠常殿と狼藉者の亡骸を調べさせたところ、それぞれの体から鉄砲の弾が見つかったとの事」

「ばかな……」

「そして周辺の村の住人から、確かに鉄砲音が聞こえた事。それを役人たちに口止めされていた事」


 亀姫は書状の中身を何度も読んだのだろう。

 暗唱するかのように家康に向けて発し続けた。

 

「その直前に本多正純が、なぜか京で鉄砲を買い求めていた事」

「これは一体誰が……」

「全て大久保彦左衛門が独自に調べ上げた事です」

「なぜだ……なぜ彦左衛門とお主がこんな事を……」


「将軍にしてわらわの弟、徳川秀忠公が命じられたからに決まっておりましょう!」


「そ、そんな……秀忠が……なぜだ……」



 亀姫はぐわっと目を見開くと、一喝した。

 

 

「家族を無惨に殺されて黙っていられると思ったかぁぁぁ!!」



 天まで轟くような大声にさしもの家康と言えども壁際まで下がった。

 しかし亀姫は逃がさない。

 彼女は壁に「ドンッ!」と手をつくと、家康に影を落としながら続けた。

 

「そしてここにとある農民を連れてきております」

「農民だと?」

「なんでもわらわの弟の越前卿と豊臣秀頼公の暗殺を企てた忍がいたとか……」

「それは単なる噂話と聞いておる。そんな忍は最初からいなかった、と」

「噂話かどうかは御自身のその大きな耳でお確かめあれ」


 

 亀姫が大声で「入ってこい!」と部屋の外へ声をかけると、小汚い貧相な男が部屋へ入ってきた。

 そして彼女に「全てを話せ」との命令に、彼は洗いざらいをしゃべったのだ。

 

 本多正純が忍の少年と接触していた事。

 そしてその少年が豊臣秀頼に狼藉を働いたとして、彼の追手に斬り殺された事。

 

 家康は全身に汗をかき、もはや彼が口にしている内容が耳に入ってこなかった。

――もしこの男の存在が世に知れたら、徳川を揺るがしかねない

 それだけは防がねばならない。

 しかし自分の愛する家族を粉砕された怒りに狂った亀姫が、果たしてすんなりと許すだろうか。

 

 家康は懸命に逡巡したが、結論など出せるはずもない。

 すると亀姫は農民の男を退出させた後、決定的な言葉を投げかけてきたのである。

 

 

「父上はどこまで御存じだったのでしょう?」



「い、いや……わしは……」



「まさか越前卿と秀頼公、そして忠常殿を秘密裏に抹殺する事を御指示されていたのではあるまいな? だとしたらわらわはここで父上を殺さねばなりませぬ。家族をないがしろにし、己の利だけに走った男を、父と言えども許しておくのは、三河魂に反しますゆえ」


 

 腰の短刀に手をかけた亀姫。その短刀はかつて家康が彼女の夫あてに贈ったものだ。

 家康は目を泳がしながらも強がった。

 

「お、お主に父を殺せるはずがなかろう! 誰よりも家族を大切にするお主に!」


「わらわは母上と兄上が亡くなった時から、父上の事を『家族』とは思っておりませぬ」


「な……なんだと……」


「もしそれでもわらわを家族とおっしゃるのなら……」


「言うなら……?」


 亀姫は焦点の合わない家康に対して、ぐいっと顔を近付けると、冷めた口調で告げた。

 

 

「誠意をお見せくだされ」



「誠意だと……」



「悪を罰し、誤りを正す事が何よりの誠意にございます!」



 そして次の瞬間、亀姫はすらりと短刀を抜くと、

――ドンッ!!

 と家康の足元に突き立てた。

 

 そして彼女はくるりと振り返ると、身動きが取れないままの家康をそのままにして部屋を出ていったのだった。

 

 

なお史実においても、亀姫の本多正純に対する憎悪は激しかったようです。

彼女と孫が治めていた宇都宮城を正純に引き渡す際には、家財から植木に至るまでの一切合財を持ち去り、果てには襖や畳みまでひっぺ返して持っていこうとする始末。


そしてついには彼の失脚の引き金となる「釣天井事件」の罪状を弟の将軍秀忠につきつけたとか……


拙作の亀姫は家康公に啖呵を切っておりますが、本物の彼女もかなりの烈女だったと思えてなりません。


さて、次回は追い詰められた本多正純。彼の乾坤一擲の策とは……!?


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