失脚狂想② 農民の行方
◇◇
「宗應様……これでよろしかったのでしょうか」
学府の学長室で一人となった宗應の背後から女性の声が、ぼそりと聞こえてきた。
彼の使い忍である初芽であった。
彼は振り返る事なく、彼女の問いに答えた。
「ええ、高い山なら小さな石を転がすだけで、大きな雪崩が生まれるものです」
「ふふ、それではまるで徳川という山が物凄く高い、と石田様が認められているようです」
微笑みながら皮肉を漏らす彼女の顔は、影の中にあっても美しいと分かるくらいに浮き上がっている。
しかし宗應は視線を微動だにせずに、凪のような口調で言った。
「徳川は大きい。この先、千年徳川の世が続いても驚かないであろう」
宗應が『素直』に敵の強大さを認めた事に、彼女は驚き言葉を失った。
そんな彼女に向かって宗應は続けた。
「だからこそ崩し甲斐があるというもの。まずは、本多正純……あやつを徳川の山から削り落としてくれよう」
「しかし大久保長安に漏らしただけでではございませんか?」
「それでいいのだ。見ておれ。すぐに雪崩は起きる」
宗應が静かに答えると、初芽の影は既に部屋の中から消え去っていたのだった――
◇◇
そして石田宗應の予言通りに『雪崩』は静かに始まった。
『暗殺者を影から操っていた者』の似顔絵を手にした大久保長安は、自身が最も信頼を寄せている大久保忠隣の元へと足を運んだ。
同時に彼は自分の元で働く多くの女性たちに『噂話』を吹き込み、京や堺で流布させていったのである。
その噂とは……
――豊臣秀頼様と越前卿は同じ狼藉者によって病にされたらしい
というものだった。
現時点で『本多正純』の存在を臭わせなかったのは、正純の息がかかった幕府の役人にもみ消される事を危惧したからだ。
そして思惑通りに、その噂は瞬く間に噂好きの畿内の町民たちの間に広まっていったのである。
まるで乾いた草原に火が燃え広がっていくようであった。
当然のように京を取り締まる板倉勝重、そして伏見を拠点として政務を続けている本多正純の耳にも届いた。
そしてある日、板倉勝重より本多正純は呼び出されたのであった。
「例の噂……本多殿の耳にも届いておりますかな?」
正純の顔を覗き込むようにして勝重が尋ねた。
もちろん正純は能面のような無表情のまま答えたのだった。
「ええ、根も葉もない噂話ゆえ、気にも留めてはおりませんが……」
「そうじゃな。しかしまるで将軍家の手の者の仕業と言わんばかりの話は、気持ちの良いものではないのう」
「ええ、まったくでございます」
表情も口調も、いつもの本多正純。小憎たらしい程に変化がない。
しかし勝重にしてみれば慣れたものだ。
彼は何の違和感もなく続けた。
「実はその噂の事で大久保長安殿が上様に報せたい旨がある、と東へ発ったのじゃよ」
「ほう……たかだか民のくだらぬ噂に大久保殿が踊らされた、と」
「いや、なんでも『黒幕』に心当たりのあるという農民がいるという事らしくてのう」
「農民?」
「うむ。こういった細かい事は大久保殿よりもお主の方がよく知っているのではないかと思い、何か知っている事があれば教えて欲しいと思い、こうして足労頂いた訳じゃ」
勝重の言葉の後、少しばかりの沈黙が漂う。
正純の表情は一寸も変わらず、鋭い刃を思わせる切れ長の目は、勝重の顔だけに向けられていた。
そして、正純は小さく頭を下げながら答えた。
「申し訳ございませぬ。それがしにはてんで見当がつきませぬ」
「そうであったか。いや、いらぬ足労をかけてしまったようじゃ。すまぬ」
「いえ、良くない噂話ゆえ京所司代の板倉殿が探りを入れるのは、極当たり前の事。しかしお役に立てずに申し訳ない」
そう言い残した正純は流れるような動作で部屋を後にしていったのだった。
しかし……
板倉屋敷を出た彼の表情は白く、冷酷さを表に出して冷たくなっていた。
彼は口元に微笑みを浮かべながら呟いた。
「大久保長安……何を掴んだ?」
そして彼はとある場所へと急ぐ為、馬を求めに急行したのであった――
◇◇
正純は目的の場所に立った瞬間に唖然とした。
そこにはないのだ……
あるはずの見るからにぼろい一軒の家が……
そして家主である農民の姿もなければ、彼の所有する畑も雑草だらけで手入れがされている様子がなかった。
つまり彼の目当ての人物はこの地を離れてしまった事を意味していた。
「ばかな……一体どこへ……」
彼は素早く周囲を見回すと、一人の村人の存在を見つけた。
そして早足にその者の元まで近寄ると、高圧的な態度で問いかけたのであった。
「おい、そこに住んでいた男はどこへ行った?」
「え……へい……なんでも小田原の城で奉公する事になったと……」
「小田原……だと……!?」
思わず声が荒くなると、村人の胸倉を乱暴に掴む。
村人は「ひぃ!」と言いながら顔を伏せた。
そして正純は歯を食いしばりながら荒々しく村人を放す。
すると村人は逃げるようにその場を立ち去っていったのだった。
「大久保忠隣が既に絡んでいるというのか……一体誰がこそくな真似を!」
吐き捨てるようにして呟いた彼の顔は、今までにない程に赤く染まっている。
決して他人には見せない怒りや焦りが、彼の顔全体の血を沸騰させて色をつけていたのであった。
……と、その時だった。
「おや? そこにいらっしゃるのは、本多正純殿では?」
と、背後から声がかけられたのだ。
彼は慌てて表情を整えると、ゆっくりと振り返った。
するとそこに立っていたのは……
「大久保長安殿か……」
ニタニタといやらしい笑みを浮かべた彼は、舐めまわすように正純の事を見ている。
正純は細い目をさらに細くしてたずねた。
「かような田舎の寒村に、今や徳川一忙しいと言われている長安殿が何用で来られたのでしょう?」
「それはこっちの台詞だぜ、正純殿。ここは風魔が暮らしていた里。すなわち小田原の近くだ。俺は忠隣殿に用があった訳だが、お主が小田原に用があるとは思えんが……」
「ふふ、我が父の所領、玉縄へ行くにはこの地を通らねばなりませんゆえ」
「ほう……東海道から少し外れているこの村をねえ……」
互いに探り合いをする言葉の応酬は、刀と槍で斬り合っているような迫力がある。
しかし二人とも相手から一歩も引く事なく、静かに視線を合わせていた。
しばらくした後、長安はゆっくりと正純の方へ歩き始めると、穏やかな口調で言った。
「では、それがしはこれから堺へ戻りますので、失礼いたします」
そして長安はすれ違いざま……
「そうそう……近々、大御所様よりお呼び立てがございましょう」
と低い声で囁いた。
正純はちらりと彼の顔を見る。
するとニタリと笑みを浮かべた長安はより一層低い声で続けた。
「ここで暮らしていた農民の件と、越前卿および豊臣秀頼公の病の件で……」
正純の目が、彼の意識とは反して大きく見開かれる。
長安は彼の表情をじっくりと堪能するように見つめた後、再びゆっくりとした足取りで彼の元から去っていったのであった。
一人立ちつくす正純。
彼らしからぬ茫然とした表情でしばらくの間動けずにいた。
そしてようやく一歩また一歩と踏み出すと、憎悪で紫色に染まった瞳に炎を宿して呟いたのだった。
「大久保……潰すしかあるまい」
と――




