失脚狂想① 狂った計画
◇◇
慶長一三年(一六〇八年)一月 駿府城――
徳川家康は親指の爪を噛みながら、目の前で頭を下げる本多正純を睨みつけていた。
昼間は彼の十一男、鶴千代丸(後の徳川頼房)ら、幼子や彼らの母たちと和やかな時を過ごした。
しかし夕げを終え、夜の帳が下りた所で正純を部屋に呼びつけた途端に、苦虫を潰したような顔に一変させたのである。
その理由はただ一つであった。
――豊臣秀頼の暗殺に失敗してしまった……
「次こそは必ずや仕留めてみせます」
「もうよい! これ以上動けば、お主だけではない。わしにも疑いの目が向けられるわ」
「失礼いたしました……」
悔しそうに唇を噛み締めながら引き下がる正純。目が真っ赤に充血し、くまもある事からも良く眠れぬ日々を送っているのだろう。これ以上彼を追い詰めても仕方あるまい。
そう考えた家康はふぅと一つ息を吐くと、ぼそりと言った。
「大坂の件が片付けば、わしの役目ももう終わりよ。後は全て江戸の将軍に任せ、のんびりと余生を過ごそうと思う」
正純は頭を下げたまま、ちらりと家康の目を覗いた。
家康は彼の視線をじっと受け止めながら続けた。
「西の目付けは京と小田原に任せ、お主は宇都宮にて東の目付けを頼もう。よいな?」
「……西は小田原……」
西とは江戸より西を指す。
京や大坂があり、遠くは九州も含む。日本の歴史において政治と経済の中心を担ってきた地域だ。
徳川の世が続くには、西を抑える事が最重要と言えよう。
それを『京』と『小田原』に任せると、家康は発言した。
『京』とは板倉勝重を中心とした京都所司代、さらに堺奉行の大久保長安。
『小田原』とは今や将軍、徳川秀忠の腹心中の腹心にまで確固たる地位を気付いた大久保忠隣と息子の大久保忠常である。
どちらにも『大久保』の名がある。
すなわち家康は、西の事は『大久保』に任せると言っているに等しかった。
しかし正純は到底納得がいったような顔ではなかった。
なぜなら西国の大名たちを徳川将軍家に屈服させる事に尽力したのは、他でもない、本多正純だからだ。それは家康も重々承知している。
だが承知しているからこそ、大久保忠隣に任せると決めたのである。
それは本多正純という男の限界を、常に側においていた家康が誰よりも知っていたからであり、
――正純では西国の大名たちを御する事はかなわん
というのが家康の出した結論だったのだ。
元より軍務よりも事務を得意とする彼だ。
表に立って諸将を束ねるのではなく、裏方で仕事をさせる方が力を発揮出来る。
そういった面においては、若い頃より幾多の戦場を駆け巡ってきた大久保忠隣はその資質がある。
それは決して優劣を意味しているのではない。
適正が異なるだけなのだ。
しかし家康はあえてその事を口には出さなかった。
それは彼の優しさであり、甘さでもあると自覚している。彼は可愛がってきた正純が、己の能力を断じられる事に強い痛みを感じてしまうのではないか、と危惧したのであった。
だが生来から人の言葉の裏をかくのが癖となっている正純にとって、家康から告げられなくとも彼の意図は十分に理解出来たのだった。
長い沈黙が続く……
たまらずに家康の方から口を開いた。
「わしがこの世を去ったら、体は久能に納め、霊廟は日光に立てよ。そう将軍には伝えてある」
「さようですか……」
「宇都宮はわしの魂を守る砦。お主も己を忠臣と名乗るのであれば、かの地でわしを守るがいい」
「御意にございます……」
とってつけたような口実。
しかし今の家康にはこれくらいしか彼を西から遠ざける理由が見つからなかった。
「ではそれがしはこれにて失礼いたします」
すごすごと退出していく正純の背中を見つめながら、家康は胸を痛めていた。
胸にうずく寂寥感と、冬の空気の冷たさが相まって、彼は身震いをすると、体の芯を温めようと火にかけていた湯を口にしたのだった――
◇◇
京学府――
「よう、息災そうだな、宗應殿」
「ふふ、長安殿もお元気そうで何よりです」
学長室で二人きりとなった石田宗應と大久保長安は、少し距離を取って洋風の椅子に腰をかけた。
互いに口元には笑みを浮かべているが、目の色は対照的だ。
まるで春の海のように穏やかな石田宗應に対し、大久保長安は真夏の太陽のようにぎらぎらと燃えている。
そして肌の色も常に屋内にいる宗應が白いのに対し、いつでも外に出て仕事をしている長安は冬でも真っ黒に日焼けしていたのだった。
まるで凹凸のような二人であったが、不思議と馬が合う。
過去にたった一度だけしか顔を合わせた事のない仲だが、気の置けないものである事は、力を抜いて足を大きく広げた長安の座り方を見れば一目瞭然だ。
そして二人に共通する事はもう一つ。
わずかの時間すら惜しいと悔やむ性格である事。
それを示すように、座るなりすぐに宗應から切り出した。
「実は見ていただきたい絵がございまして……」
「ほう、今さら『春画』ならいらねえぞ。もっとも、うちの忠輝公はおたくの秀頼様からもらった『春画』をえらくお気に入りなようだがな」
「ふふ、御安心ください。しかし『春画』の絵師に描かせた物ではあります」
――パラッ……
長安の前に宗應から一枚の紙が投げられる。
長安はそれを拾うと、素早く目の前に広げた。
すると目に飛び込んできたものに、彼の顔は驚愕の色に染められていったのである。
「おい……こいつは何だ?」
宗應の口元の笑みが少しだけ大きくなる。
そして彼は再び口を開いた。
その口調は明らかに先ほどまでとは違い、秘めたる業火を感じさせるものだった。
「農民の男に、とある忍へ食事を運ばせていた人物の似顔絵でございます」
「とある忍だと……? そんな奴にどうして『こいつ』が?」
「さあ……? そこまでは分かりかねます。しかし、一つだけ明確な事がございます」
「それはなんだ?」
一つ呼吸を置く宗應。
そして次の瞬間、彼の目が冷酷なものに一変した。
「その忍は越前卿と秀頼様が病を発症される寸前に『水』を吹きかけたという事実でございます」
――ゾワッ!!
長安の全身に鳥肌が立ったのは、宗應の言葉によるものか、それとも彼の殺気によるものか、長安自身も判断がつかなかった。
しかし彼はすぐに気持ちを立て直すと、静かに問いかけた。
「ではその忍がお二人の病に関係している……そう言いたいのか?」
「ふふ、長安殿らしくはありませんね」
「どういう事だ?」
宗應はゆっくりと立ち上がると、長安を見下ろすようにして言い放った。
「はっきりとおっしゃってください。『お二人を暗殺しようとした』と」
「ば、ばかな……」
「もっとも……秀頼様には天運が味方いたしましたが」
「まさか……」
長安がゴクリと唾を飲む。滅多に動じる事のない彼だが、あまりの驚愕に立ち上がる事すら出来なかった。
そして吐き出すように言ったのだった。
「まさか『本多正純』が暗殺を企んだというのか……」
なおも腰を抜かしている長安。
そんな彼の真横まで近付いた宗應は、ぽんと彼の肩に手を置くと、耳元で囁いた。
「本多正純を蹴落とす……悪くない話でしょう?」
消え入りそうな声とは裏腹の巨大な衝撃を伴う言葉に、長安は大きく目を見開いた。
しかし彼も相当な野心家である。
すぐに元の表情に戻すと、ニタリと不敵な笑みを口元に浮かべて答えた。
「利害一致……だな」
と――




