風雲!関ヶ原の戦い!①歴史を狂わせたもの
◇◇
「そんな…こんなのありえない…」
俺はその「音」を聞いて、笹尾山のふもと付近で茫然と立ちつくした。
まだ朝霧が完全には晴れていない為、視界はかなり遮られている。そうでなくてもまだ大人の腰ほどまでの身長しかない俺だ。周囲の状況など確認のしようもない。
しかしその「音」は合戦の開始を告げる法螺を吹き鳴らす音に間違いなく、それは戦の始まりが告げられたことを理解するのに難しくなかった。
そしてそれを示すかのように周囲の大人たちは、叫び声をあげながら駆け足で前進していくのだった。
「秀頼様!ここは危険です!早く離れましょう!」
俺の背後に立っていた才蔵が俺の腕を掴み、素早く彼の馬の背に俺を乗せた。
固い鞍に俺の尻はしこたまうちつけられたが、その痛みを感じられるほど、俺は自分を保つことは出来ていないでいる。
ほとんど無意識のうちに、願望の声を腹の底から発した。
「だめだ!まだこの書状を届けねばならぬ!」
そして俺は精一杯の抵抗を馬上で試みたが、相手は大人の才蔵だ。俺のわめき声や腕っぷしでは彼の馬を反転させるには至らないのは仕方のないことだ。
しかし俺の願いは虚しくも馬が突き進む風にかき消されると、俺たちは天満山の横を過ぎて東山道(現在の中山道)に入り、大坂城の方面へと進んでいく。
そして合戦の舞台となった関ヶ原をまさに抜けようとした時であった。
ドス…
という鈍い音とともに、俺は勢いよく馬から投げ出された。
ふわりとした浮遊感とともに目に移る風景がスローモーションのようにゆっくりと映っていく。その中に尻に矢が刺さって驚き苦しむ、才蔵の馬があった。
そしてそのまま地面に落下すると、背中に味わったことのない衝撃が走った。
「ぐはっ…」
一瞬呼吸が止まる。しかし幸いなことに、頭は打っていないようだ。ただ肺の中の空気が薄れた為か、俺は目を回した。
そしてあまり経験のない独特の鉄の味…どうやら口の中を切ったようだ。
全身が痛い。その上、力が入らず立てそうにもない…
ああ…このまま死ぬのかもしれない…
そう観念して緊張から入り過ぎていた力を抜いた時だ。
「秀頼様!」
才蔵がいつになく大きな声で俺を励ますように呼ぶと、そのまま俺を背に担いだ。
薄れる意識の中、雑兵たちの怒りに満ちた声が聞こえてくる。
「敵襲だ!!矢が飛んできているぞ!すでに山麓に敵がいる!!」
「くそ!金吾の野郎(小早川秀秋のこと)が徳川に寝返りおったそうだ!」
「大谷刑部様の軍勢が食い止めているようだが、こっちにくるのも時間の問題だぞ」
そんな…ばかな…小早川秀秋が…合戦開始ですぐに裏切っただと…?
俺はもうろうとする頭の中で、再び「あり得ないこと出来ごと」に混乱する。
もう何が何だかよく分からないことになってきた、というのが正直なところだ。
「秀頼様!こうなっては仕方ありません!北国街道から遠回りして大坂を目指します!」
そう才蔵は律儀に背中の俺に報告をすると、もう一度反転して天満山の方へと向かっていった。
慶長5年(1600年)9月14日――
俺の知っている歴史の上では、関ヶ原の本戦が勃発する「前日」…
俺の目の前でその戦いの幕は切って落とされた。
それはすなわち、歴史が変わったということだ。
たった一日、されど一日…俺は合戦を止める為の書状を徳川家康に届ける事が叶わずに、天下分け目の大戦が始まったのである。
しかしなんでこんな事になってしまったのか…
その答えは、俺の知る由もない所で、一人の男の「恐れ」によって運命の歯車が狂った為だった。
◇◇
関ヶ原の合戦が「1日早まった理由」を紐解く為に、少しだけ時間を戻す。
慶長5年(1600年)9月10日 清州城――
徳川家康は9月1日に江戸を発ってから、時間をかけて清州までやってきた。それは言わずもがな、我が子である徳川秀忠の進軍を待っていたからというのもある。しかしそれに加えて、敵味方に対して余裕を見せるという意味合いが大きかったかもしれない。
とにかく彼は物見遊山でもするかのように、ゆっくりとした行軍速度で清州城にたどり着いたのである。
しかし彼は城に入ったのも束の間、彼の到着を待っていた一人の間者の報告を聞いて、涼やかな表情は一変し、苦々しいものを浮かべた。
「加藤と黒田が合流して北上しておるだと…?」
彼は思わず右の親指の爪を噛んだ。不機嫌、不安、不満…「不」がつくような感情の時には、いつも彼は右の親指の爪を噛む癖がある。
最近はその癖が出ておらずに、その為少し伸びた爪を根本から一気に噛み砕いた。
清州城では2日ほどのんびりと過ごす予定でいたのだが、彼は次の日にすぐにそこを発つことにした。それは何かあれば即座に行動できるように、少しでも前線に近づいておきたいと考えていた為である。
この時点で彼はとある不安を抱えていた。それはまだ小さなものであったに違いない。
しかしその小さな芽でも潰しておかねば気が休まらなかったのだ。
慶長5年(1600年)9月11日 岐阜城――
徳川家康と本多正純の二人が兵3000を引きつれて、岐阜城に入城した。
それまでの城では仰々しい迎え入れには笑顔を見せて上機嫌の家康であったが、ここでのそれは却って彼の癪に障ったようだ。城内の人間には一瞥もくれずに、すぐに彼は城主の間へと消えていった。
城主の間に入りどかっと重い腰を下ろしてあぐらをかく家康。
そして、右太ももに肘を当てて、その親指の爪を噛む様は、まさに不機嫌そのものの姿である。
そんな様子に正純はあえて虎の尾を踏むような問いかけをした。
「これから天下に覇を唱えようかというお方が、何をそんなに不機嫌になられているのですか?」
もちろんこれこそが正純の悪い癖なのだが、ここでそれを注意するほどの余裕が家康にはないようだ。彼の指摘に顔をそむけて、すねたように気持ちを吐き出す。
「ふん、老いぼれの気持ちなど、若い弥八郎(本多正純のこと)には分かるまい」
すまし顔の正純は、この言葉は「俺の気持ちを分かってほしい」という倒置なのだ、と直感した。そこで
「では、この若造がお館様のお気持ちを当ててみせましょう」
と、人を小馬鹿にしたような軽い口調で宣言をする。
不機嫌な表情は崩すことはなかったが、その目は少しだけ何かを訴えかけるように正純を見つめた。その瞳をちらりと見ると、正純は家康の返事を待たずに続けた。
「お館様は、恐れているのです」
ぐさりと刀で胸を一突きするような鋭い一言に、さすがの家康も多少面を食らったようだ。
への字に曲がっていた口が、驚愕とともに少し開いた。
「何に恐れていらっしゃるかも、当ててみせましょうか?」
「もうよい!その減らず口に蓋をしてしまえ!」
懐の広い家康であっても、さすがにそれ以上自分の恐れていることを、年少者に言い当てられることには耐えられないようだ。彼は正純に口を閉ざすように指示をすると、顔を外へとそむけて、自分も口を閉ざしてしまった。
しかしそこでめげるような正純ではない。彼はすっと立ち上がると、
「とにかくお館様はこれから天下を背負う方なのです。それなりの姿を周囲に見せねばなりますまい。ささ、広間には城中の者が既にお館さまを待っております。
行きましょう。
今宵も夕げを囲みながら、みなを鼓舞せねばなりませぬ」
と、無情に家康へ進言すると、一人で広間の方へと歩いていってしまった。
「ふん、とことん意地の悪い男だ」
家康はそんな捨て台詞とともに、下ろしたばかりの重い腰を持ち上げたのであった。
この時家康は確かに一つのことを恐れていた。
それは何を隠そう豊臣秀頼が苦心して成し遂げようとしていた、「東西和睦」。いや、正確に言えば、「石田冶部を叩きのめす前に和睦すること」だ。
彼にはこの大一番において絶対に成し遂げなくてはならない事がある。
それは彼が天下人を目指す上で、障害となる反乱分子の粛清である。その為に、上杉討伐の構えを演じてみせ、伏見では腹心の鳥居元忠を犠牲にした。
それも全て、石田治部とそれを支持する者たちをおびき出す為の遠計であった。
そして互いに「豊臣家の御為」と掲げれば、秀頼側は日和見を決める事は明白である。こうして豊臣を抜きにして、全てを片付ければ、自ずと天下は誰の手に移るかは自明の理である。
しかしそんな彼の考えを打ち崩すたった一つの策…
それこそ完全決着する前に和睦してしまうことなのだ。
もちろんそれが石田三成や毛利輝元から出された和睦状であれば、即座に破り捨てるであろう。
しかしもしそれが「豊臣秀頼から発せられた和睦」であったとしたら…
「豊臣家の為」を掲げている以上、従わざるを得ないであろう。
そうなれば、何らかの形で反乱分子は残る可能性が非常に高い。そうなれば、将来彼が独裁的に何でも決めるのは難しい。しかしそれ以上に面白くないのは、「和睦をまとめたのは豊臣秀頼」という事実だ。
なぜならこの事実は、徳川家康はやはり豊臣の家臣である、ことの証となるからである。
しかしそんな事にならない為に様々な手は打ってきたつもりだ。
それは、相手を生かさず…されど殺さず…
吉川広家や小早川秀秋から寝返りの約束を取り付けても、すぐにこちら側に引きいれなかったのも、そのうちの一環だ。
つまり常に接戦であるように見せていたのである。
そして九州…
ここには西日本で最大の懸念とも言える島津の存在がある。
単純に江戸から遠く離れており、その動向はつかみづらい。
それは味方か敵かですら分からないほどなのだ。
確かに島津義弘をはじめとする数名は近畿まで来て、石田方として戦っている。もしそれが真意であれば、後の脅威となることは必定である。
その為の抑えとして多少強引な手を使ってでも、加藤清正と黒田如水を九州に置いておいたのだ。
しかしその二人がそろいも揃って、島津から離れるように進軍しているという情報が入ってきていることに、家康の心のうちに二つの不安がめぶいた。
一つは九州を島津に掌握されてしまう懸念。
そしてもう一つは、加藤と黒田の毛利攻めだ。
もしその懸念が現実となれば…
毛利はとっとと和睦をまとめて、大坂城を出たがるのではないか…
そしてさらに悪いことに、和睦の後に毛利と島津が手を結べば、石田三成などよりもさらに大きな脅威となって彼の前に立ちはだかるのではないか。
それが彼の「恐れ」の種だったのである。
慶長5年(1600年)9月12日 岐阜城――
家康の元に二つの報せが届くと、彼が抱いていた恐れが見事に的中した事は、流石の本多正純のすまし顔をも驚きに歪ませた。
その報せとは、
「加藤、黒田の連合軍が中国に進出。なおも東へと行軍中」
「毛利輝元が西の丸から動く。本丸にて豊臣秀頼と会談」
の二つであった。
「これはまずいことになったのう…弥八郎」
そう不機嫌そうにしながらも、どことなく声が弾んでいるように正純には感じるのは、想定外の展開に策略家としての血が騒いでいるからなのか、それともいつも冷静沈着な正純が表情を崩したことが嬉しいという皮肉なのだろうか。
そして正純は、和睦の可能性が迫っている現状よりも、心の大きな引っかかりに対して完全に気を取られてしまった。それは、
「加藤と黒田をけしかけたのは、お館様でしょうか?」
と、正純は努めて冷静に家康に問いかけた内容のことだ。
「ふん、わしが自分を追い込むような指示など出すものか」
当たり前のことのように家康は反論する。家康にとってもこの部分は最も気になっていることだ。すぐにでも腰を上げなくてはならないのは、重々承知の上で正純との問答に付き合うことにした。
「では一体誰が…?」
正純があごに手をあてる。彼が何かを考えるときにする癖だ。
この癖すら「嫌味たらしい」と嫌う者も少なくない。
なにしろ若いのに敵が多い人なのだ。
「さあ…しかし毛利とは考えにくい。自分で自分の領土を攻めさせるなんてしないだろうからのう」
「では、石田冶部は?」
「それもないだろう。そもそも冶部の言葉で主計頭や如水が動くとは思えん」
そこまで家康は答えると、あることに気づく。
「おい!さっきからなぜわしばかりが答えておる。お前の意見も言ってみろ」
家康がなじるように正純に意見を求めると、少し考えた正純は、家康をさらに不快にさせるような事を流れるような口調で言った
「石田冶部とお館様が、雌雄を決着する前に和睦をすることで最も得をする人間。それに加藤や黒田を動かすほどの影響力のある人間…こうなれば一人しかおりません」
「ええい!もったいつけるな!その人間の名前を言うてみよ!」
もちろんこの時点で気付かない程、暗愚な家康ではない。
しかし彼は正純にそれを求めた。
それは自分の「恐れ」がまだわずかながら「杞憂である」と信じたかったからだ。
もし自分の考えている人と正純の考えている人が異なれば…それは「杞憂」であったと、安堵するかもしれないと考えたのだ。
しかし、正純の口から出た人の名前は、彼の意見と寸分たがわずに一致する。
「豊臣秀頼殿下…その人しかおりませぬ」
この時、家康は大きな槌で頭をガンと殴られたような衝撃を覚えたのであった。
「もし本当に殿下だとしたなら…殿下に何が起きたのだ…?それとも淀殿がよほど優れた人間を雇い入れたのか…むう…面白くないのう」
「とにかく今は『和睦状』が来る前に行動せねばなりますまい。お館様、いつここを離れるおつもりで?」
既に正純の顔は小癪にも元のすまし顔に戻って、次の指示を家康に求めた。
「ふん、言われなくとも分かっておるわ。明日じゃ、明日の朝一番にここを発つぞ!」
「はっ!ではそのように申しつけます」
慶長5年(1600年)9月13日 ――
まだ夜が明けぬうちから岐阜城は慌ただしく城中の者が右往左往していた。それは「内府殿が出立する」という連絡を受けたからである。
そして辰の刻(午前8時)――徳川家康と本多正純が率いる徳川本隊は、何かに駆り立てられるように西へと進軍を開始し、同日正午には美濃赤坂に到着。既に待機していた兵を加え、徳川家康の本陣は兵32,730まで膨れ上がった。
それは史実よりも「1日」早い到着であった。
活動報告に私なりの関ヶ原の戦いにおける、豊臣秀頼の立場に対する考えを掲載いたしました。
どうぞご一読いただけると幸いです。