忍びよる影! 秀頼の危機!!⑤ 軌跡
◇◇
慶長一二年(一六〇七年)一一月一七日――
この日も朝から豊国神社で快復祈願を捧げ続けていた淀殿、千姫、そして伊茶の三人。彼女たちの元に、片桐且元が必死の形相でやってきた。
そして大声で告げたのであった。
「秀頼様の意識が戻られましたぁぁぁ!」
考える前に体は反応をするものだ。三人とも喜びのあまりに涙が溢れ出てきたのである。
それでも気丈な淀殿は、
「且元! 早く案内しなさい!」
と、涙を拭きながら指示をした。
しかし、その時だった。
彼女たちの後を追うようにして片桐且元の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちてきたのだ。
しかし彼の涙は、彼女たちの流したそれと質が異なっていた。
それはすごく、冷たくて哀しいもの……
鋭く見抜いた淀殿は刺すような口調で且元に問いかけた。
「且元……はっきり言いなさい。秀頼ちゃんは目を覚ましたのですよね?」
且元はその問いに大きく頷く。
しかし明らかおかしい彼の様子に、先ほどまでの涙が止まった三人は、怪訝そうに彼を見つめている。
そして次に伊茶が優しい声色で且元に質問したのだった。
「且元さん。ならばなぜそのように哀しいお顔で泣かれているのですか?」
「うわぁぁぁぁ! うぐっ……」
なおも泣きじゃくる且元につられるように、千姫の瞳に涙がたまっていった。
そしてどうにか嗚咽をこらえた彼は、一言告げたのだった。
それはあまりにも残酷な宣告であった――
「これが最期の時となるかもしれません。どうか……これが最後の御挨拶のおつもりで、秀頼様とお話ください」
◇◇
今日はすごく気分が良い。
激痛もなくなり、体も自由が効く。
「俺は病に打ち克ったのか……?」
希望に満ちた心の問い。
しかし部屋の中は誰一人として入ってくる様子はない。
……となると、まだ病の途中という事か。
確か、『兄上』の結城秀康が同じ病にかかった時、一日だけ良くなったと記憶している。
だか彼はその後、壮絶な闘病へと突入した。
そして病には打ち克ったが、ついに命を落としてしまったのだ。
「そうか……今は言わば『踊り場』のようなものか」
どんな苦痛が待っているのだろう。それは想像を絶するようなものに違いない。
しかし不思議と怖くはなかった。
なぜだろう……
兄、結城秀康や父、太閤秀吉、そして軍師、黒田如水が俺の事を天井から見守っていているように思えるからだろうか。
――おめえがこっちへ来るのはまだ早えぞ!
そんな父のどなり声が心に響く心地がすると、不思議な事にすっと感情が落ち着く。
そして、ゆっくりと体を起こした俺は、布団の隣に置かれていた水差しから御椀に水を注ぐと、一口だけ口に含んだ。
冬場だからだろうか。
水はよく冷えている。
喉から腹に水が通っていく感覚は、生きている事の実感のように思えて、思わず笑みがこぼれた。
そんな時だった。
少し離れた襖の外から低い声が聞こえてきたのである。
「……秀頼様。目を覚まされましたか?」
それは明石全登のものだった。俺は今出せる精一杯の声を出した。
「ああ」
「では、申し上げます。体調が良くなったと思われているかと存じますが、残念な事に一時的なものでございます」
「ああ」
「……明日にもなれば、再び高熱と激痛に見舞われ、一度意識を失ったら最後、場合によってはもう二度と目を覚まされない事も考えられます」
「ああ」
淡々と俺の病状について説明する全登。
あらゆる感情を押し殺し、自分の職務を全うする姿は、出会った頃と全く変わらない。
俺は尊敬と感動が湧きあがると、静かに目を閉じた。
そして彼は続けた。
「ではこれより石田宗應殿より秀頼様へおうかがいしたい事があるとの事で代わります」
「ああ」
襖には影は映らない。それでも足音で数名が待機しているのが良く分かる。
既にすすり泣く声が聞こえてくるが、それは加藤清正のものだろう。
足音からして大谷吉治と桂広繁もいる。
九州にいる堀内氏善を除けば、『豊臣の七星』が奇しくも顔を揃えたという事になる。
彼らは俺がこの時代にやって来たばかりの時から表に裏に支えてくれた者たちだ。
黒田如水がまだ生きていた頃、皆で九州で味方を得る事や学府作りの事で意見をぶつけ合ったのが懐かしい。
「秀頼様。石田宗應でございます」
「ああ」
「秀頼様に一つおうかがいしたい事がございます」
「ああ」
そこで言葉が止まる宗應。
いつでも冷静沈着。そして関ヶ原の戦い以降は人間が変わったかのように大きな包容力を身に着けた彼の事だ。
恐らく俺への問いかけは一つだろう。
――もし秀頼様に何かあれば、今後豊臣家を継ぐ者はどなたに致しましょうか?
きっとそうたずねてくるに違いない。
その答えを俺は決めている。
静かに宗應の次の言葉を待った。
そして……
「秀頼様…… もし……もし秀頼様の身に……」
宗應の言葉は震え、巨大な壁に阻まれているように詰まっている。彼は抑えきれぬ感情と必死に戦っているのだろうか。
しばらく彼の言葉は前へと出て来なかった。
そうして、ついに……
石田宗應は『敗れた』――
「もし、秀頼様の身に何かあろうともぉぉ!! 決して秀頼様は負けぬと信じております!! だから……だから秀頼様の跡継ぎの事など、絶対に聞きませぬ!! たとえ我が耳が落ちようとも絶対に聞きませぬ!!」
――ドカドカドカッ!
大きな足音と共に宗應がその場を立ち去っていくのが分かる。
すると堰を切ったように襖の外から声が響いてきた。
「秀頼さまぁぁぁぁ!! この清正! 例え九州にいようとも江戸にいようとも、秀頼様の元へ駆けつける所存! しかし、もし秀頼様が冥土へ旅立ってしまったなら、どのようにして駆けつけましょうか!? どうかこの清正にもっと奉公させてくださいませ!!」
「秀頼様!! 大谷吉治でございます! 決して諦めてはなりませぬ! 『てっぺん』はまだ先でございます! 父と見た景色を今度は秀頼様と見たいのです! だから……!」
「秀頼様!! 私はまだ秀頼様への『感謝』を返しておりません! だから私はあなた様の『傘』になると心に誓ったのです! どうか、この後も私の『傘』であなた様を御守りさせてくだされ! 明石全登、一生のお願いでございます!」
「……秀頼様……希望を捨ててはなりませんぞ! 希望を捨てなければきっと道は開かれます! わが心の恩人、毛利マセンシア様はそう仰せになりました。どうか秀頼様におかれましても、その言葉を胸に病と戦いなされ!」
それは彼らが辿って来た『軌跡』の言葉の数々だった。
そうか……
彼らもまた俺と出会った事で、人生の『軌跡』が少しだけ狂ったのだ。
そして狂った軌跡は確かに、彼らの糧となって根付いている。
無力で、大坂城から出る事すらままならなかった俺でも、彼らの人生を少しでも豊かに出来たのだ。
そう考えれば、俺がこの時代にやってきた意味もあるというものだ。
「ありがとう……」
俺は一言しか口にする事は出来なかった。
いや、それ以外の言葉は元よりないのだ。
彼らに抱く感情は『感謝』だけ。
ーーどうかこれからの彼らの人生に大いなる幸福を。
そう願いながら、俺は襖の外から聞こえてくる嗚咽に耳を傾け続けていたのだった。
◇◇
加藤清正ら『豊臣の七星』の面々が去ってから、入れ替わるようにしてやって来たのは淀殿であった。
「ふふ、秀頼ちゃん。こうして二人きりでお話するのは、随分と久しぶりね」
「ええ……」
しごく穏やかな声。
それはいつも通りの朝を迎えたような爽やかさを感じさせるものだった。
そして彼女の言葉の通り、俺が淀殿と二人きりで話をするのは、およそ一年半ぶりの事だ。
養源院で母の『愛』を知り、大仏殿で決意を固めたあの時以来の事。
俺は必死に彼女へ声をかけた。
「大仏……」
俺は母の前で高らかと宣言したのだ。
――この秀頼が立派な大仏をここに建ててみせます!!
と。
「ごめんなさい……」
もし俺がこのまま病に負けてしまったら、彼女との約束を反故にしてしまう事になる。
俺はそれをどうしても謝っておきたかったのだ。
「何を謝っているの? もしや秀頼ちゃんは、『大仏が建てられなくなってごめんなさい』と言いたいのかしら?」
俺は彼女の問いかけに答える事が出来なかった。
重い沈黙がしばらく流れると、彼女の声が聞こえてきた。
「秀頼ちゃん。母は申したはずです。母は子がどこに居ようとも、ずっと愛している、と」
澄み切った清流のような声。混じりけのない純粋な『愛』の形が、声となって表れている。
「それは秀頼ちゃんが仮に天へと旅立とうとも、決して変わらない、そう申したのを覚えていますか?」
「ええ……」
「ならば秀頼ちゃんが謝る事なんてありません。もし、もし秀頼ちゃんが大仏を建てる事が出来なければ、母が必ず建ててみせましょう」
俺はその言葉で大きく目を見開いた。
そして自然と涙が頬を伝ってきたのである。
なんと……
なんと強いのだろう。
どんなに影で涙を流そうとも、決して子の前では涙を見せぬ強さ。
俺に「病に打ち克て!」とか「頑張れ!」と励まさないのは、俺の心に大きな負荷をかけぬ優しさ。
それらを『愛』と言わずして何と呼べばよいのか。
「うううっ…… 母上…… われは…… われは怖いです……」
思わず漏れ出る素直な『弱さ』。
そして母はそれを包みこんだ。
春の陽射しを思わせる笑みで――
もちろん無機質な襖からは彼女の顔を直接見る事はかなわない。
それでも分かるのだ。
母は俺の全てを包みこむ笑顔を見せてくれていると――
「秀頼ちゃん。これだけは覚えていて頂戴。母も、そして大坂城にいる皆が、秀頼ちゃんを愛しております。秀頼ちゃんには困難を乗り越えられる強さがあると信じております。だから母と皆の事を秀頼ちゃんは信じてあげなさい。それは秀頼ちゃんが自分の強さを信じる事と同じ事なのです。自分と愛する者たちを決して疑ってはいけませんよ」
そう言い残して彼女は静かに去っていった。
最後の最後まで、母は母だったのだ。
ああ……俺は彼女の子であると、胸を張れる人間だろうか。
自分と他人を無償の愛で包みこめる人間だろうか。
そんな自問をいつまでも続けていた。
そして……
次の人物が襖の前までやって来た。
「秀頼様……いえ、たっちゃん」
それは伊茶……いや、今は俺の元いた時代の幼馴染、八木麻里子だった――
彼らの辿ってきた『軌跡』は、本作の描いてきた歴史でもあります。
書きながら様々なシーンが頭をよぎりました。
次は伊茶、千姫そして幸村……
彼らはどんな『軌跡』を秀頼に思い起こさせるのでしょうか。
最後に書籍の情報を少しだけお伝えいたします。
ほぼ書き下ろしとなる予定で原作をご覧の読者様でもお楽しみいただける内容となる予定でございます。
そして本作に載せきれなかったシーンも想定いたしております。
どんなシーンが登場するのか、それはまた後日この場か、活動報告にてお伝えいたしたいと思います。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。




