忍びよる影! 秀頼の危機!!④ 決意
◇◇
慶長一二年(一六〇七年)一一月一五日 夕刻――
「忌々しいのですが、もうあなたより頼れる方はいないのです」
淀殿は苦々しい表情で、きりっと顔を上げた。
その視線の先には……
豊国乃大明神――
それは神となった豊臣秀吉の事。
場所は京の豊国神社の本殿。
その前に彼女はひざまずくと、深く頭を下げた。
「どうか……どうか秀頼ちゃんをお助けください!」
言い終えた瞬間から涙が溢れ出す。
しかし彼女はそれを拭う事なく、何度も何度も礼をしては秀頼の快復を祈願し続けたのであった。
……とそこに現れたのは千姫と伊茶だった。
そして、いつになく真剣な面持ちの千姫は、決意を込めた声で淀殿に懇願した。
「お母上、千たちもお祈りさせてくだされ!」
もう涙は出尽くした。
いくら泣いたって何も変わらない。
ならば今自分が出来る精一杯の事をやろう。
愛する者の為に……
それが千姫の決意であった。
千姫の言葉に淀殿は小さく頷くと、三人で並んで祈願を始めた。
そしてそれは夜が明けるまで続けられたのであった――
◇◇
俺、豊臣秀頼が高熱で倒れてから三日が経った。
京の学府にある医療棟の隔離室で俺は寝かされている。
「あ、あう……あつい……痛い……」
目が覚めると同時に声が漏れる。
うっすら目を開くが大きな部屋には俺一人。
小姓も侍女も誰もいない。
「だ、誰か……助けて……」
自然と涙が頬を伝う。
しかし体を起こす事すらかなわない。
なぜなら少しでも体を動かそうものなら、激痛が全身を駆け巡るからだ。
それでも片手をゆっくりと上げた。
虚空をつかむ手は震え、疱瘡による白い泡が手の甲を覆い尽くしていた。
「俺は……このまま死ぬのか……」
朦朧とする意識。このまま昏睡に身を任せ、意識を飛ばしてしまえば激痛から解放されるかもしれない。しかし俺は怖くてそれが出来なかった。
なぜならそうしてしまえば、二度と目を覚ます事が出来ないかもしれないのだから。
しかし俺の意志とは反して、俺は再び白一色に染まった世界へと誘われていったのだった――
◇◇
慶長一二年(一六〇七年)一一月一六日 学府、学長室――
「おいっ! 佐吉!! 秀頼様の御容態はどうなっているんだよ!?」
加藤清正は荒々しく扉を開けると同時に、怒号を部屋中に響き渡わたらせた。彼は険しい顔を真っ赤に染めて、まるで赤鬼のようだ。そして視線は部屋の中央に座る石田宗應だけに向けられていた。
一方の宗應は両手を口元で組み、いつも通りの涼やかな表情で、じっと清正を見つめている。
彼は大股で宗應の目の前までやって来ると、
――バンッ!!
と、大きな音を立てて、机を両手で叩いた。
「なんとか言えよ!! なんでそんなに冷たい顔が出来るんだよ!! おい! 佐吉!!」
「清正殿! 少し落ち着いてくだされ!」
激昂した清正に対して、肩に手をかけながら真田幸村が諭す。
しかし清正はその手を払いのけて唾を飛ばした。
「秀頼様が苦しんでいるって時に、てめえらはこんな所で固まったままで何とする!! それでも忠臣と胸を張れるのかぁ!!」
びりびりと部屋を震わせる清正の咆哮。彼は鼻息を荒くして、宗應を睨みつけていた。
しかし宗應は手を組んだまま顔色一つ変えない。そしてちらりと部屋の隅にいる明石全登の方へ目を配った。すると全登は淡々とした口調で告げたのだった。
「……秀頼様の病は疱瘡。拡がる事がなきよう、秀頼様の御意向により、隔離されております」
「それがなんだってんだよ!? だからと言って……」
清正がそう言いかけた瞬間だった。
「虎之助!! 話は最後まで聞けぇぇぇぇ!!」
と、床が抜ける程の衝撃を伴った一喝が宗應の口から発せられたのである。
清正は出かけた言葉を飲み込み、目を丸くした。
宗應は相変わらず手を組んだまま、目だけをぎろりと清正に向ける。
その瞳の奥に宿る炎を見て、清正は二歩後ずさった。
それはまるで地獄の業火――
そう…… 宗應もまた涙を流し尽くしたのだ。
そして瞳に残されたのは、燃えるような無念の感情だけだったのだった。
清正はそれを瞬時に覚った。すると彼の中で燃え上がっていた苛立ちは収まっていき、代わって大粒の涙がぽろぽろと流れ落ちてきたのである。
宗應は清正の感情が収まった事を確認すると、再び全登の方へ視線を向けた。
それを合図に全登は続けたのだった。
「まもなく発症してから四日が経過いたしますゆえ、一度高熱は収まるかと存じます」
「では、その時にうかがっておかねばならぬな」
さらりと宗應が言った言葉に、清正の顔が再び赤く変わった。
「佐吉!! まさかてめえ……」
宗應は再び清正に目を向けると、平坦な口調で告げたのだった。
「秀頼様の後継……すなわち豊臣家を継ぐ者を決めていただかなくてはなりません」
――ガタリッ!!
「てめえぇぇぇぇぇ!!」
清正は一直線に飛び出すと、宗應の胸倉を掴んだ。
そしてぐいっと彼の顔を自分の顔に引き寄せて吼えた。
「まるで秀頼様が死んでしまうような物言い!! 断じて許さん!!」
「清正殿!! お止め……」「よいのだ、源二郎!!」
幸村が止めに入ろうとした所を、宗應は言葉で制する。
そして穏やかに、しかしかすかに震える声で言った。
「俺は何人たりとも豊臣を潰させはしない。例え秀頼様の身に何が起ころうとも」
宗應の闘志の籠った言葉に、清正の手がわずかに緩む。
すると宗應は額に青筋を立てて咆哮した。
「手をこまねいて秀頼様が弱っていくのを見届けるのが忠臣のする事か!? 答えよ! 虎之助!!」
「でもよぉ…… 佐吉…… 俺はよう……」
がくりと膝を落とし、うつむく清正。
宗應もまたその場にしゃがみ込むと、涙でぐしゃぐしゃになった清正の顔を覗き込んだ。
「虎之助。秀頼様は今、病魔に勝とうと戦っておられるのだ。それは太閤殿下の夢を叶える為に他ならないのではないか? 皆が笑顔で過ごせる天下泰平の世を作る為ではないのか? ならばその『夢』を断たせぬよう努力するのが、われらの役目ではないのか?」
清正はもはや言葉を失い、ただ頷く事しか出来ない。
宗應もまた枯れたはずの涙を目尻に浮かべながら続けた。
「秀頼様が横になっておられる部屋の襖の前までなら行く事は出来る。虎之助、お主にもついてきて欲しいのだ」
「佐吉……」
「お主がいると秀頼様はたいそう御喜びになられるから……」
――うわぁぁぁぁぁぁあ!
ついに清正は大声を上げて泣き始めた。
まるで純真な幼子のように真っ直ぐな感情を映した清正の泣き声。
それはその場にいる全員の涙を誘ったのだった。
………
……
泣き終えた加藤清正が明石全登、そして大谷吉治の二人に抱えられるようにしながら退出していくと、部屋の中には石田宗應と真田幸村の二人だけとなった。
そして幸村もまた、秀頼の病室へ移る為に部屋を後にしようと宗應に背を向けた。
しかし……
「源二郎、ちょっと待て」
と、宗應は幸村に声をかけてきた。
その口調は幸村が今までに聞いた事もないほど低く、背筋を凍らせる程に冷たい。
幸村はごくりと唾を飲み込んだ後、いつもの穏やかな顔を背後の宗應に向けた。
……と、その瞬間だった。
――ゾワリッ!!
幸村は体感した事もないような寒気に、体を震わせてしまったのである。
「い、石田殿……」
幸村はあまりの恐怖に宗應の顔をまともに見る事が出来ない。
それほどまでに宗應の全身から発せられる『憎悪』の念は、尋常ならざるものだったのだ。
そして宗應は聞く者の心を凍結させるような声で幸村へ語りかけた。
「風魔小太郎、という名を聞いた覚えはあるか?」
風魔小太郎…… その名は確かに配下の霧隠才蔵の口から聞かされた事がある。
そして今回の秀頼の病と、先の結城秀康の病。この二つは小太郎からもたらされた可能性が高い事。さらにその小太郎は本多正純とつながりがあったのではないかと疑われる事も同時に耳にしていたのである。
しかしいずれの疑いも確証はないと言う。
そこで幸村は秀頼が病から快復した頃合いを見計らって、彼に相談しようと考えていたのであった。
ところが今、宗應は憎悪の念をたぎらせながら『風魔小太郎』についてたずねてきた。
彼が一体どこまで何を把握しているのかが分からぬ以上は、軽々しく口を出す訳にはいかないと考えた幸村は、はぐらかすように答えた。
「どこかで聞き覚えがあるような、ないような……」
そんな彼を宗應はギロリと睨みつけた。
まるで大蛇が獲物を一口に飲み込まんとする威圧感に、幸村は圧倒されそうになる。だが、かえって微笑を浮かべて余裕を示す事が出来たのは、幼い頃から父昌幸による厳しい鍛錬の賜物だろう。
すると宗應もまた口元にかすかな笑みを浮かべた。
「ふっ、まあよい。お主が何を隠していようが、俺の決意が変わるものではないのだから」
「はて……? 石田殿は一体何をなさるおつもりでしょうか?」
あくまでさりげなく問いかける幸村。
しかしこの時既に彼は気付いていた。
――石田殿は本多正純を害するおつもりだ……!
という事を。
しかし確証がない状況で正純に罪を問えば、逆に宗應の立場が危うくなりかねない。その為、刺し違えてでも彼の企みを止める気でいた。
ところが宗應の考えは幸村の想像を遥かに超えたものだった……
「俺は大坂城に戻る事を決意した」
「な……なんですと……?」
幸村は顔をさっと青くして宗應を見つめる。
しかし彼の顔からはとても冗談を言って、幸村を驚かせようという意図は見られなかった。
そして彼は続けた。
「こたびの件は仮に本多正純の浅知恵によるものだとしても、その裏で糸を引いているのは、あの古狸である事は火を見るより明らかというもの。ならばもはや徳川は豊臣を『敵』と見なしたも同然だ。もはや後戻りは出来ぬ。ならば前に進むしかあるまい。ならば、監獄のごとき京の学府を抜けねば話にならぬ」
「しかし……そのような事が出来ますでしょうか……」
なおも唖然とする幸村に対し、宗應は彼の両肩に手を乗せると目に力を込めた。
「源二郎! その為にはお主の協力がいる! 頼む! どうかこの願いを聞いてくれ!」
「石田殿……一体何をお考えなのでしょう……?」
そして最後に宗應は、一層声を低くして告げたのだった。
「京から脱出する。もし徳川が邪魔立てしようものなら……」
「しようものなら……」
「武力で鎮圧する!」
それは史実に記されるはずもない『石田宗應脱出戦』。
すなわち豊臣家と徳川家による淀川沿いを舞台にした一戦の幕開けを意味していたのだった――
◇◇
千姫と石田宗應がそれぞれの決意を固めた頃、甲斐姫もまた一つの決意を胸に京から離れた場所で、ある女性を前にしてひざまずき、頭を深く下げていた。
どんな事があっても気高く生きてきた彼女にとって、他人にひざまずく事は初めてであった。
「どうか秀頼殿の命を救ってはくれまいか」
彼女はいつになく熱のこもった声を出した。
すると相手の女性は柔らかな口調で問いかけた。
「なんで私に?」
甲斐姫は顔を上げて彼女を見つめる。そして一つ息を飲み込んだ後、変わらぬ口調で答えたのだった。
「失礼ながら、首のつけねに『あばた』があるのを知っていた。すなわち貴女は過去に疱瘡にかかった事があったという証。であれば秀頼様の側で看病しても問題ないと考えたからだ。それに貴女の知識、そして持っている薬の数々はきっと秀頼様の病を良くしてくれるに違いない」
疱瘡は他人に感染するという事はこの頃から知られていたが、同時に『一度感染した者は再び感染する事は少ない』という事も知られていた。
それを示すように徳川家光の乳母を幕府が募集した時の条件として、『疱瘡にかかった事がある者』というものがあったとされている。
甲斐姫は目の前の女性とは一度だけ面識があった。そして彼女の『あばた』と呼ばれる、疱瘡を克服した時に出来るかさぶたの跡がある事を覚えていたのであった。
再び頭を下げる甲斐姫。
その様子に女性は「私なぞに頭を下げないでくだされ」と甲斐姫の顔を上げさせた。
そして今度は彼女がひざまずき、深く頭を下げたのであった。
「昔、秀頼さまに助けられた御恩がございます。今度は私が助ける番。どうか私を秀頼さまの元へ連れていってくださいませ。この通りにございます」
思わず甲斐姫の瞳から涙がこぼれ出す。
彼女はそれをぐいっと拭うと、女性を立たせて言ったのだった。
「よろしく御頼み申します。あざみ殿」
と。
そう……
彼女の名は『あざみ』。
数多の薬草を駆使し、多くの村人の命を救ってきた彼女は、豊臣秀頼から受けた恩を返すべく、京へと上る決意を固めたのだった――
「秀頼さま! 待っていてくだされ! あざみが今行くからなぁ!」
書籍化にあたりまして、『このストーリーは良かった!』というものがございましたら、教えていただけると嬉しいです!
イラストもラフであがってまいりました!
すっごくカッコいいので、是非ご期待ください!
では、引き続きよろしくお願いいたします!




