初めての好敵手【終幕】
◇◇
慶長12年(1607年)6月25日――
千姫の小さな頬はこの日もぷくりと膨れている。
それを見た蘭は目を丸くして彼女をたしなめた。
「まあ、千姫様! そのように毎日、毎日頬を膨らませていると、その内本当にお顔がまん丸になってしまわれますよ! 」
いつもの軽い調子の蘭に対して、千姫はきりっと鋭い視線を向ける。
しかし、あまりに迫力のない彼女睨みは、むしろ蘭のいたずら心に火をつけてしまったのだった。
「もしや、千姫様のお顔をそのように丸くしているのは、伊茶の事でしょうか? 」
「むむぅぅ…… こんなはずじゃなかったのじゃ! 」
「うふふ、仕方ありませんわ。だって今や伊茶は秀頼様の側室ですもの」
「だからと言って、毎日毎日あのように秀頼様にべったりしているのはおかしいのじゃ!
秀頼様も秀頼様じゃ! 千と言う正室がありながら、ああして側室をずっと側においてぇ! むむぅ! 」
このように千姫が愚痴をこぼすのも仕方のないことかもしれない。
なぜなら伊茶が光に代わって側室になると決まったのは、元は大蔵卿の侍女である彼女なら、必要以上に秀頼の側には近づかないだろうという淀殿と千姫の目論みがあったからだ。
しかしいざ蓋を開けてみれば、それは千姫の期待を大いに裏切るものだった。
さすがに寝床は別々であるものの、朝げや夕げはもちろんの事、なんと秀頼が真田幸村とともに政務にあたっている時まで、伊茶は秀頼の側にぴたりと寄り添っているのである。
しかもその事を淀殿をはじめとして周囲の面々は一切咎めようとはしていない。
それには歴とした理由があった。
それは……
――私が淀様の『目』となって、常に秀頼様の周囲を監視いたしましょう。秀頼様に『悪い虫』が近づけば、すぐにお報せいたします!
と、常々淀殿に告げているからだ。
つまり普段はあまりおおっぴろに秀頼の側にいる事が出来ない淀殿の手足となって、秀頼を監視する事を宣言したのである。
この彼女の計らいに、淀殿は大いに喜び、彼女が秀頼と常に行動を共にする事を許した。
しかも伊茶という女性はとにかく年上の女性に取り入るのが上手い。
あのいつも難しい顔をしている大蔵卿に気に入られているのは伊達ではない。
淀殿も彼女の事をすっかり気に入って、共に食事を取る時には、進んで彼女を隣に座らせるほどなのだ。
なんでも器用にこなす上、気立てが良く誰からも好かれる伊茶。
一方、とにかく不器用で何をやらせても上手くいかず、人見知りが激しく常に他人を遠ざける千姫……
どうしようもない劣等感と、はがゆい現実に、千姫の小さな胸の内は荒れ狂うばかりだったのであった。
もちろん彼女の心持ちは、最近になって再び彼女の侍女に復帰した蘭には手に取るようにして分かっている。
彼女は伊茶から聞いた言葉を用いて千姫に言った。
「千姫様。これは初めての好敵手というものです」
「らいばる? なんじゃ? それは? 」
「ふふ、簡単に言えば『宿敵』でございます! 」
「宿敵……」
「そうです! かつての太閤殿下も、初めは明智光秀殿から最後は北条氏政殿まで、数々の好敵手を蹴散らして、天下人となられました!
今や千姫様も豊臣家の一員なれば、ここは一つ好敵手を蹴散らして、秀頼様のお心を掴み取るべきかと思われますわ! 」
右の拳を固く握りしめて熱弁する蘭に、千姫が目を輝かせて鼻息を荒くする。
「おおおお!! 蘭! 『らいばるを蹴散らす』とは、まこと良い響きじゃ! 」
するとそこにばしゃりと冷水を浴びせるような青柳の声が聞こえてきた。
「もう……蘭! およしなさいな! またいらぬ騒動を巻き起こして、真田様から大目玉を食うのが落ちですよ! 」
眉をひそめながら冷たい視線を蘭に浴びせる青柳に対して、蘭はわざとらしく悲しげなものを顔に浮かべて嘆いた。
「ああ……浮世とはかくも冷たいものなのでしょうか……
つい先日まで粉骨砕身で千姫様の奉公に励んでいた青柳も、今となっては伊茶に肩入れ……
そりゃあそうですわ…… 何せ伊茶のお家と青柳のお家は古くからのお付き合いですもの。
千姫様、もはや青柳の心は千姫様のお側にはございません。
でも千姫様は青柳を恨んではなりませぬ! 恨むなら世知辛い浮世をお怨みなされ。ああ……世知辛い……」
蘭の口調に、千姫の瞳が潤み始める。
そして震える声で青柳に問いかけたのだった。
「青柳は…… 千から離れていくつもりなのか? 伊茶の側で仕えたい、そう申すのか? 千のことが嫌いになってしまったのか? 」
千姫の今にも泣き出しそうな顔を目にした青柳の顔が青ざめる。
その様子を見て、千姫の背後から青柳の事を見つめる蘭の口角はニタリと上がっていた。
――ぐぬぬ…… おのれぇぇ…… 蘭めぇぇ!
しばらく歯ぎしりをした青柳であったが、千姫の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた瞬間に、
「千姫様! 青柳は千姫様のお味方です!
ですから泣かないでくださいませ。何でも協力いたしますから! 」
と、彼女の涙を袖で拭きながら精一杯の引きつった笑顔を見せたのだった――
………
……
「千姫様! ここはお得意の『料理』で秀頼様の心とお腹の二つを掴んでしまいましょう! 」
「おおっ! 」
蘭の号令に気合十分の千姫。
お気に入りの黄色の小袖に身を包み、髪も綺麗に整えてある。
しかし未だに彼女が作る事が出来る料理と言えば……
馬鹿でかい塩むすびのみ……
例の如くそれを大きな盆に載せて、ふらふらしながら廊下を行くと、秀頼が政務を行なっている部屋までやって来た。
そして蘭が小声で青柳に囁いたのである。
「伊茶の気を逸らすのはあなたのお役目ですからね! 」
それを耳にした瞬間、青柳の目が丸くなる。
しかし蘭は彼女の反応など御構いなしに部屋の中に向けて大きな声を発した。
「千姫様が秀頼様に差し入れを持って参りました! 入ってもよろしいでしょうか!? 」
その言葉が終わると同時にすっと襖が開けられる。
すると部屋の中の三人……豊臣秀頼、真田幸村そして伊茶が、いずれも穏やか表情で、千姫の方へ顔を向けた。
千姫は真っ先に秀頼の顔を見ると、途端に頬を桃色に染めて嬉しそうな笑顔になる。
そんな彼女の事を、秀頼もまた愛おしそうな視線を向けていた。
この瞬間が千姫にとっては至福の時ーー
そして恥じらいながら彼女は、大きな盆を秀頼の前に差し出した。
「し、塩むすびを秀頼さまに作って参りました! 」
「うむ! お千の作るおむすびは相変わらず立派だな! はははっ! 腹が減っていたので、これくらいが丁度よい! 」
伊茶は人の頭程もある大きな塩むすびを見て目を大きく見開いている。
そして何か言おうとした。
その瞬間に、蘭が肘で青柳をつつく。
無論それは、
ーー伊茶の気を逸らしなさい!
という合図に他ならない。
しかし人間とっさに相手の気を逸らすような事を思いつくものではない。
困り果てた青柳は、天井を指差して大きな声を上げた。
「あっ! あそこにっ!? あらら!! 」
それは古典的とも言える気の逸らし方……
ただ、それはどの時代でも効果覿面であった。
「えっ? どうしたの? 」
と、伊茶は青柳が指差す方へと視線を移したのだ。
だが……
同時に秀頼や幸村、そしてなんと千姫まで頭上を見上げているではないか!
ーーこの馬鹿! それでは何の意味もないではありませんか!
と、突き刺さるような鋭い視線が、蘭から向けられると、青柳は隅の方で小さくなってしまったのだった……
………
……
「うむっ! 旨いぞ! お千!! 」
「ありがとうございます! 秀頼さまぁ! 」
口いっぱいに塩むすびを頬張る秀頼を、嬉しそうに見つめる千姫。
誰が見ても微笑ましい光景に、部屋の中はぽかぽかと春の陽気のような暖かさに包まれていた。
伊茶も始めはその様子を見て、自分も幸せな気分であったのだが……
ーーちょっと、たっちゃん! 顔がにやけ過ぎ!
と、徐々に面白くないものが胸の内に湧き始めたのである。
そして……
秀頼がちょうど半分ほど塩むすびを食べ進めた時のこと。
「秀頼様! ずっと同じ味では、そろそろ飽きたでしょう!? 少しだけ塩むすびをそのままにして待っていてくれますか? 」
と、伊茶は有無を言わさぬ鋭い視線を秀頼に向けた。
その剣幕に秀頼は思わず、二度頷く。
すると彼女はそそくさと部屋を出ていったのであった。
そして、しばらくすると彼女は早足で戻ってきた。
その手には味噌と刻まれた葱。
さらに彼女の後ろには、一人の侍女が七輪を抱えている。
「秀頼様、その塩むすびをこちらへ! 」
「う、うむ」
秀頼は伊茶の気迫に押し出されるように手にした塩むすびを伊茶に手渡す。
彼女は慣れた手つきで葱と味噌を塩むすびにのせ、それを七輪で炙り始めた。
ぷぅんと味噌の焼ける香ばしい匂いがあたりに充満する。
「おお! 焼きおむすびか!! 」
秀頼は思わず目を輝かせて、伊茶の手元を見つめていた。
「ええ! 秀頼様は昔から焼きおむすびがお好きでしたものね! 」
「うむ! 大好物だ!! 」
「さあ、どうぞ! 召し上がれ! 」
「おお! これは旨そうだ! 」
秀頼は伊茶の作った焼きおむすびを一口頬張ると、目を見開いた。
「う、う、うまぁぁぁい!! 」
ーーガツ! ガツ! ガツ!
巨大な焼きおむすびが、瞬く間に小さくなっていく。
秀頼は頬を少しだけ紅潮させて、一心不乱に食べ続けている。
そんな彼の様子を、伊茶もまた頬を桃色に染めて、嬉しそうに見つめていた。
再び部屋の中は、幸せの春色に染まっていく。
しかし……
千姫だけは悔しそうに歯を食いしばっていた。
油断をすれば、すぐにでも大粒の涙が溢れ落ちそうになる。
もちろんそんな顔を秀頼に見せる訳にもいかず、必死に涙をこらえながら、下を向いていた。
ーーどうせ…… どうせ秀頼様は、千のことよりも伊茶の事を好いておられるのじゃ…… 千のことなど邪魔で仕方ないのじゃ……
秀頼が伊茶を側室に迎えたあの日から、千姫は秀頼が少しずつ自分から遠のいていくように思えてならなかった。
でも、それでも心のどこかでは、自分の気のせいであると、淡い期待を寄せていたのである。
ところが、今目の前で幸せを絵に描いたような秀頼と伊茶の仲睦まじい様子を見て、彼女の懸念は完全に確信へと変わったのである。
自分の小さな手ではどうする事も出来ぬ現実に、彼女の心は傷つき、情けない自分が悔しくてならなかった。
ーーもう千には大坂城に居場所がないのかもしれぬ…… 母上…… 父上…… じじ上様……
ふと徳川家の家族の顔が浮かんでくる。
その顔はとても懐かしくて、彼女の心を惑わせた。
ーー江戸へ…… 江戸へ行きたい……
そんな風に心が暗くなる。
……と、そんな時だったーー
ーーポンッ……
柔らかな温もりが、彼女の頭を優しく包む。
「えっ……」
千姫は思わず顔を上げた。
そこには秀頼の太陽のような暖かな笑顔。
そして彼は爽やかな声で彼女に礼を言ったのだった。
「ありがとう、お千。お主の心遣い、とても嬉しかったぞ! 」
「秀頼さま……でも、伊茶の作った焼きおむすびの方がお好みだったのじゃろ? 千の作ったただの塩むすびなんかより……」
「それは焼きおむすびの方が美味かったに決まっておろう! 」
秀頼の言葉に、千姫はきりっと睨みつける。
「ならばお千に優しくするのはおやめくだされ! 秀頼さまなんか大っ嫌いじゃ!! 」
「これこれ、お千。勘違いするでない。
あの焼きおむすびも、元はお千の作った塩むすびではないか。
つまり先ほどの焼きおむすびは、お千と伊茶の二人の心がこもったもの。
ならば美味いに決まっておるではないか」
伊茶と千姫の二人が目を合わせる。
すると先に、優しく微笑んだのは伊茶の方だった。
厚い雲に覆われた千姫の心の内が、一気に晴れ渡ると、透き通った青空が彼女の体温を引き上げる。
体中が熱くなっていく千姫。
そして秀頼はニコリと微笑むと、傷ついた彼女の心を包み込む一言を告げたのだった。
「さすがはわれの正室じゃ。われはお千が正室で心より嬉しく思うぞ! 」
この言葉を耳にした瞬間……
千姫の中で何かが弾け飛んだ。
それは迷い、疑い、憎しみといった、彼女の心を暗くしていた元凶たち。
そして彼女は飛び込んだのだった。
秀頼の……若い夫の胸の中に。
「秀頼さまぁぁぁぁ!! 大好きじゃぁぁぁ!! 」
◇◇
豊臣秀頼の側室取りーー
それは彼の側近、真田幸村の思惑通りにはならなかったのは間違いない。
しかし……
伊茶という秀頼の事を誰よりも良く知る少女が側室になった事で、大坂城には様々な変化が生じた。
それは……
『笑顔』ーー
彼女がもたらしたのは秀頼の笑顔であり、秀頼の笑顔は大坂城の様々な人を笑顔にした。
そんな笑顔の輪の中に、千姫もいる事は言うまでもないだろう。
彼女もまた、「初めての好敵手」の登場に、はじめこそは戸惑ったものの、今となっては心よりその存在との『戦い』を楽しんでいる。
「秀頼さまぁぁぁぁ!! 生け花にございます!! 」
「まあ、千様はまたお好きな黄色のお花ばかりを集めてこられたのですね。
ここは一輪だけ赤のお花をさしましょう。
そうすれば……」
「おお! これは華やかじゃのう! うむ! これをわれの部屋に飾ろうではないか! 」
「むむぅ! また伊茶は千の邪魔をしてぇぇ! 」
「ほほほ! 千様。伊茶はそう簡単に負けませんよ! 」
「千だって、伊茶には負けないのじゃ! 」
「はははっ! よい、よい! お千はいつも一生懸命で可愛いのう! 」
「えへへ! 秀頼さま! 千はいつも一生懸命にございます! 」
「うむっ! では、われも一生懸命、千を笑顔にするように頑張るぞ! 」
「うんっ! 秀頼さま! 千も秀頼さまを笑顔を見たいゆえ、頑張ります! 」
今日もまた、千姫と秀頼の笑顔が、大坂城の中を太陽のように照らす。
こんな幸せがいつまでも続けばいい……
誰もがそう思っていた夏だったーー
これでちょうど300話になります。
物語の新たな動き出しと、幸せに溢れたお話を区切りにもってこられた事を、本当に嬉しく思います。
ここまでお付き合い頂いた読者様には本当に感謝の言葉しかございません。
どんな形になるか分かりませんが、この感謝の想いを形にして恩返し出来る事を、心より願っております。
まことにありがとうございます。




