初めての好敵手⑯ 再会は突然に
「たっちゃん!! 」
俺、豊臣秀頼は、今猛烈に驚いている。
まさか……
自分の前の時代の名前が、叫ばれるなんて……
しかも何度も聞いたあの呼び方。
そして、髪をいじるあの癖……
間違いない……!
伊茶という女中は……
俺の幼馴染、八木麻里子だ!!
ーーガバァ!!
膝から崩れ落ちるようにして伊茶、いや麻里子……ええい、どちらでもよい!
とにかく彼女の目の前に腰を落とす。
そして俺は彼女の顔をじっくりと見つめた。
そこで麻里子の顔と、今目の前にいる伊茶の顔を重ねてみる。
二人とも、俺が言うのも何だが可愛らしい顔立ちをしている事は確かだ。
しかしその顔に重なる面影はない。
ただ一か所を除いて……
それは……
瞳の奥の色――
優しくて、暖かくて……
まるで春の陽だまりような色――
「麻里子…… なのか……? 」
思わず彼女の顔に息を吹きかけるように、小さな声が漏れた。
その時だった……
「たっちゃん!! 」
――ガシッ!!
と、麻里子は俺に抱きついてきたのである。
そして彼女は大声で泣き始めた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 」
俺が面食らったのも無理はないだろう。
なぜなら前にいた時代でも麻里子が俺に抱きつくなんて事は一度もなかったのだから。
それにいつも口うるさく俺の面倒をみる母親のような存在だったのだから……
そんな彼女が今、俺の胸に飛び込んで、まるで赤ん坊のように熱い涙を流している。
こんな時、どうしたらいいのかなんて習った事もなければ、想像すらした事もない。
彼女の溢れだす感情に、俺は戸惑った。
正直言って、俺だって泣き出したいくらいだ。
なぜなら俺の視界には、未だ真田幸村もいれば、蘭や青柳といった言わば「部外者」もいるのだから……
それでも俺の嵐のような感情の中にあって、たった一つだけ、とある想いだけは必死にその根を伸ばそうとしている。
俺はその想いにしがみついた。
そして……
俺は心のままに言葉を発した。
自分でも驚く程に穏やかな口調で――
「大丈夫。大丈夫だから」
優しく彼女の背中をなでる。
小刻みに震えているその小さな背中。
そんな背中からも、彼女が必死にこの時代を生き抜いてきた事を感じさせる。
いつから彼女がこの時代にいたのかは分からない。
だが例えたったの一日だったとしても、どれだけ不安な時間を過ごしてきたことだろうか。
そしてそれでも彼女を突き動かし続けてきたものがあったはずだ。
それは恐らく……
――たっちゃんに会いたい!
ただその一念の為だったのではないか……
彼女から感じる熱と、初めて見せる涙を見ればそれは、どんなに鈍い俺でも一目瞭然であった。
鼻の奥につんとした痛みを覚えると、俺のまぶたに湿り気が生じる。
俺はそんな自分の感情を誤魔化そうと、幸村の方へ視線を移した。
しかしその幸村は身動きが取れぬように、背中からは蘭が、そして足元には青柳がしがみついているではないか。
必死に彼女らを振りほどこうとしている幸村に対し、蘭が背中から
「ここで邪魔立てするなんて、源二郎様には『でりかしい』がございません」
と声をかけていた。
デリカシーって言ったよな、今。
もしや……
彼女たちは伊茶の正体を知っているのか……
そう思えた時、ふっと俺の中で引っかかっていた何かが取れた気がした。
すると自然と嵐のように荒れていた俺の胸の内が晴れ渡ってきたのである。
変わらぬ一つの想いを残して……
「俺が側にいるから。もう大丈夫だ」
と――
………
……
大蔵卿の筆頭侍女である伊茶が、元の時代の俺、近藤太一の幼馴染である八木麻里子であった――
ようやく泣き終えた彼女が、ぽつりぽつりと語り出した事は、まさに驚くべき事だった。
「なんと…… 伊茶の前にも『謎のフードの女』が現れたのか……」
そして俺を元の時代に戻す為に、彼女はこの時代にやって来たというのだ。
しかも数年も前に……
「でもその女の子はこう言ったの。
『必ず皆を笑顔にして! お願い! 秀頼様に関わる皆が笑顔になったら、その石を使って』
と……」
「石? 」
俺が不思議そうに尋ねると、伊茶は首からかけたペンダントのような小さな石を取り出して見せてきたのである。
「これが『悠久の時を超える石』なの」
「悠久の時を超える……」
「この石に願いを込めれば、私たちは元の時代に戻る事が出来る」
俺はその石を見て、ごくりと唾を飲み込んだ。
この石に願いを込めれば俺は元の時代に戻るのか……
ここ大坂城にいる全ての人々を置いて……
もちろん元の時代に戻る方法がないものか、それを模索しなかったと言えば嘘になろう。
それでも今は元の時代に戻る事なんて、さらさら考えていない。
なぜならは既に俺の体中には『豊臣家当主としての責任』が、その根を張り巡らせているのだ。
そして俺は知っている。
わずか十年もしない後に、大坂城は灰となってしまう事を……
淀殿も幸村も、多くの俺の家族と友人たちが、無念のうちにこの世を去るという事を……
こんな状況で元の時代に戻る事など、俺には出来るはずもない。
しかし万が一、今目の前にある小さな石が、俺の意志とは関係なく、その力を発動したなら、俺はどうなってしまうのだろうか……
「しまってくれ…… その石」
俺は思わず低い声で伊茶にそう頼んだ。
今までの穏やかな口調から一変して、冷たさすら感じるその口調に、伊茶は目を丸くしたが、すぐに俺の言葉に従って、その石を大事そうに胸の中にしまった。
その様子を見て、俺は強い口調で告げたのだった。
「今はその石の力を使わせる訳にはいかない」
「たっちゃん……」
「もし……もしお前が元の時代に戻りたいなら、悪いが一人で戻ってくれ。
俺はこの時代で果たすべき責任がある」
俺は……
俺の夢は……
あらゆる人々を笑顔にする事……
それだけは絶対に譲れない。
大坂城で奉公する人々、豊臣家を守る家臣たち、大坂の領民たち……
そして千姫――
彼らの笑顔を守るのはもはや俺に課せられた使命なのだ。
俺はどんな理由があるにせよ、その意志を曲げるつもりはない。
自然と瞳に情熱の炎が宿ると、自分でも頬が紅潮していくのが分かる。
それでも俺は自分の容姿のことなど気に留める事もなく、なおも目を丸くしている伊茶を見つめ続けたのであった。
すると……
突然伊茶の強張った表情が、笑顔に一変したのである。
そして彼女は優しい口調で言ったのだった。
「ふふっ、たっちゃん変わったね」
その言葉に今度は俺が目を丸くする番だった。
そんな俺を見ながら、少しだけ顔を赤らめた彼女は、変わらぬ柔らかな調子で続けた。
「昔のたっちゃんは、いつもダラダラしてやる気なかったもん。目標も夢も持たずに」
「ちょっと待て! 今そんな事を……」
俺は慌ててちらりと周囲にいる幸村や蘭、青柳の顔色を見る。
幸村と青柳は表情を引き締めているがどこか笑いを堪えているようだし、蘭にいたってはニタニタといやらしい笑顔を浮かべているではないか。
俺はこれ以上伊茶に話をさせないように、なおも何かを口にしようとしている彼女を遮ろうとした。
その時だった。
彼女は凛とした声で俺に告げたのだ。
「でも、今のたっちゃんはかっこいい」
「へっ……? 」
彼女の言葉を耳にした瞬間に、俺の体中に電撃が走った。
するとみるみるうちに体中が熱くなって、身動きが取れなくなってしまったのである。
恐らく傍目から見た今の俺は、まるで置物のように固まっているように映っているに違いない。
そして……
そんな俺の隙を、彼女はついたのだった――
――チュッ……
なんと俺の唇に、彼女は自分の柔らかな唇を重ねてきたのだ。
それはとても優しくて、暖かい口づけ。
どんなに言葉を重ねようとも、今の瞬間に彼女の想いが全部つまっていた。
ーーずっと会いたかった……
それは本当に一瞬の事だったが、俺には永遠にも感じられる程に長い瞬間であった。
ふわりふわりと宙に浮いた感覚に、俺はどうしてよいか分からない。
だから、ただ目の前の彼女の真っ赤な顔を見つめていた。
彼女もまた恥じらいながら俺を見つめている。
まるで時が止まったかのように、しばらく俺たちは見つめ合った。
胸が爆発しそうな程にいっぱいになって苦しい。
なぜだろう……
今まで彼女に抱く事のなかった感情が、まるで堰を切ったかのように溢れだしてくるではないか。
今の俺にはどうする事も出来ない感情の波に、俺の胸は埋め尽くされていく。
でも俺はこの時ふと疑問が湧いた。
その感情は、ただ抑えこんでいただけ、ということ。
つまり本当は……
ずっと、ずっと前から抱き続けてのではないか……
俺は……
小さな頃から……
彼女の事が――
そんな風に想いを巡らせているうちに、伊茶は何かを決心したように少しだけ語調を強めて言ったのだった。
「たっちゃんの気がすむまで、ここで頑張ればいい。私は、そんなたっちゃんの側にいたい! 」
「しかし…… それは……」
彼女と俺とでは、この時代において埋めがたい身分差がある。
今この場を離れれば、その瞬間から再び彼女は、たった一言俺と挨拶を交わすことすら出来なくなってしまう。
そんな状況の中で、俺の側にいるなんて……
しかし、彼女はニコリと微笑むと、俺の懸念を吹き飛ばすような事を告げたのだった。
「光様と秀頼様の婚約が破棄になった場合、伊茶を側室とするように。そう淀様が言いつけております」
「な、な、なんと!? 」
俺と幸村は思わず目を合わせる。
しかし俺たちが何を言い出す前に、伊茶は深々と俺に頭を下げた。
「秀頼様、これからどうぞよろしくお願い申し上げます」
「いや……ちょっと待て! かような大事は……! 」
俺が思わず理屈を並べようとしたその瞬間、
――ガシッ!!
と伊茶は俺に抱きついてきた。
そして上目遣いで囁いたのだった。
「ずっと可愛がってくださいね! 秀頼様! 」
その吸い込まれそうな眩しい笑顔に、俺は言葉を失ってしまったのだった――




