初めての好敵手⑮ 背中に向けて叫べ!
◇◇
「この大馬鹿者共め!! なんということをしてくれたのだ!! 」
大坂城の一室に、真田幸村の激怒した声が響き渡った。
顔を真っ赤にして仁王立ちする真田幸村の目の前には、蘭、伊茶、それに青柳の三人が正座をして小さくなっている。
彼の怒りに火をつけたのは言うまでもなく、正式に鷹司光と豊臣秀頼の婚約破棄が決まったことだ。
しかも彼の知らぬところで、蘭たちがそう仕向けるような動きをしていた事が、彼の耳にも届いてしまったのである。
ここまで苦労に苦労を重ねて段取りをつけてきた幸村が、烈火の如く怒るのも無理はない話だ。
「まあまあ、源二郎様。そうかっかしないでくださいな。
鷹司のご主人様も『光はいずれ宝鏡寺に、と考えていたところなので』とおっしゃっておられたのでしょう?
それに石田様からも『学府から介抱していた光殿を出してしまったこと、それに不用意に刀を持ち出させてしまったことは、石田宗應の落ち度。女中たちの事はどうか穏便に』と、その手にある書状に書かれているのではありませんか? 」
蘭は見透かしたかのように、幸村の手にしている二通の書状に目を向けながら、悪びれもせずに言うのだから、大した肝っ玉だと、隣に座る青柳は目を丸くした。
もちろんこの二通の書状は、いずれも石田宗應が手配したもので、少しでも彼女たちへの怒りの矛先がそれるように、と配慮されたものである。
それらの書状は同時に、真田幸村の策が、石田宗應の眼鏡にかなわなかった事も意味していることは、幸村の胸に突き刺さっている。
つまり彼の怒りの元は、彼女たちの勝手な行為だけではなく、淀殿や石田宗應に自分の意見が通じなかった事への苛立ちでもあったのだ。
もちろんその事を正しく理解出来ぬ程に真田幸村という男は落ちぶれてはいない。
それは彼が怒りに任せて大声を上げるも、未だに彼女たちに対して、今回の事の処分を下せないでいる事からも明らかであった。
そんな中……
伊茶は一人そわそわとしていた。
ーーもうすぐ……もうすぐ会える……!
そんな期待感は彼女の耳から入ってくる幸村の怒声を右から左に流し、高鳴る胸に本当は今すぐ飛び上がってしまいたい衝動に駆られていたのだ。
そこまで彼女が心待ちにしている出会いの相手は……
言わずもがな豊臣秀頼その人。
いや、八木麻里子からしてみれば、幼馴染の近藤太一という事になろう。
この時代にやって来る前までは、何でもないように毎日顔を合わせる事が当たり前だったのに、たった一度だけ顔を合わせるのに何年もかかるなんて思いもよらなかった。
そして、人と人との出会いは、かけがえのない貴重なものなのだと、彼女は身にしみて痛感したのである。
ーーなんて声をかけたらいいのかな?
いかんせん今彼女がいる時代では、彼女と秀頼の身分は天地程にかけ離れているのだ。
畏れ多くも親しい調子で名を呼ぶことなんて出来ない。
ーーうーん……どうしよう……
一人悩む彼女。
しかし……
彼女に頭をひねらす時間は残っていなかった。
それはあまりに唐突に訪れたのである……
「おお! 幸村! こんなところにおったか!
宗應から書状がきておる! お主とわれ宛てじゃ!! 」
ーーその声は……!
伊茶は地面に落ちた雫が地面を弾けるように、顔をその声の持ち主の方へと向けた。
そしてその目に飛び込んできたのは……
豊臣秀頼ーー
「おや? 蘭に青柳か? それにそちらの女中は……」
「伊茶にございます!! 」
思わず立ち上がって大声で名乗った伊茶。
秀頼はあまりに突然の事に、びっくりして腰を引かせている。
しかし伊茶はここで立ち止まる訳にはいかない。
「秀頼様!! 私が伊茶でございます!! 」
「う、うむ! 分かった! お主の名は伊茶と申すのじゃな! 分かったゆえ、少し落ち着かれよ! 」
「秀頼様! 」
なおも何かを口にしようとするが、いざとなると何も出てこない。
話したい事は山ほどあるはずなのに……
「こらっ! いい加減にしないか! 」
幸村は伊茶の肩に手を置くと、ゆっくりと彼女を元の位置に座らせた。
その様子を見て秀頼は未だに顔を青くして言ったのだった。
「と、とにかくわれは先に城主の間におるからの。
この者たちの事は、ひとまず不問でよいのではないか? それより早く幸村も部屋に来ておくれ! 」
秀頼はそう言い残すと、その場を立ち去ろうとしている。
このままみすみす絶好機を逃してしまうのか……
ここまで辿り着くのに、数年も要したというのに……
石田宗應や蘭たちの協力も無駄になってしまう……
ーーそんなの嫌……!
でもどうする事も出来ない。
これ以降、彼と話をすることは、もうかなわないかもしれないのに……
そうすれば彼女の『夢』が絶たれてしまう。
近藤太一と共に元の時代に戻るという『夢』がーー
彼女は思わず自分の髪をいじる。
それは彼女が元の時代の八木麻里子だった頃から変わらない癖……
その癖を見た秀頼は……
ピクリと眉を動かした……
明らかに懐かしむようなその視線。
伊茶はその反応と視線を見逃さなかった。
ーーたっちゃんは……私の事を覚えてくれている……!
彼女の中でなぜかそう確信めいたものが芽生える。
しかし無情にも彼はそれ以上何を口にする事もなく、彼女に背を向けた。
そして、一歩また一歩と廊下を歩き始める。
少しずつ離れていくその背中……
もう……
どうする事も出来ない……
その時だった。
「叫べ!! 伊茶!! 今しかないのよ!!
貴女の夢を掴むのは!! 」
なんと隣の蘭が廊下中に響き渡る声で言い放ったのだ。
その言葉は……
伊茶の背中を突き動かしたーー
そして彼女は腹の底から声を放ったのである。
秀頼の心を突き刺すようにーー
「たっちゃん!!! 」
と……




