初めての好敵手⑧ 国吉の出世話
◇◇
伊茶がこの時代にやってきてから早数年が経過した。
今でもミミズが這ったような字を読む事が出来なければ、武家の慣習なるものも分からない事だらけだ。
そんな彼女にとって「公家や武家の娘にとって『恋』はご法度」などという暗黙の常識など、到底理解出来るものではなかったのである。
そうは言っても、出会い頭でいきなり頬を叩かれた時は、
――何よ! この女! むかつく!
と憤慨したし、国吉が、服を乱して部屋から出てきた時は、
――まあ! なんて汚らわしい!!
と面白くないものを抱いたものだ。
しかし、国吉の第一声は驚くべきものであり、彼の話を聞いていくうちに、光への感情が同情へと変化していったのである。
………
……
国吉の話の出だしはこうであった。
――これも全て私が悪いのです……
聞けば国吉は、元は公家の出の次男。
しかし、彼のお家の長男が徳川の世に反抗的だった事を咎められ、お家は落ちぶれてしまったという。
それでも公家との繋がりに目を付けた京の商家『若狭屋』が、国吉を丁稚として雇い入れ、今は手代にまで昇進したそうだ。
そして国吉の元の住まいは、鷹司の屋敷のすぐ側……
つまり光と国吉は、幼馴染の仲であった。
二人の距離が離れれば、互いに対する想いが明白になるのは、どの時代でも変わらぬ真理らしい……
国吉が去った後、光はようやく自分の気持ちに気付き、塞ぎこむことが多くなった。
そんな中に舞いこんできた彼女の縁談……
意馬心猿――
元より乱れていた彼女の生活が、より一層乱れたのは、これが原因であったのは想像するに難くない。
その事を国吉と文七の口から聞かされた時は、伊茶の心もまた大いに乱れた。
――そんなのダメ! 絶対に許せない! なぜ本人の気持ちも確かめずに、勝手に縁談が進むの!? そんな事あってはならないわ!!
しかしそんな伊茶の様子を見て、国吉は優しく諭したのであった。
――伊茶さん、くれぐれも無茶はいけませんよ。これも全て世が定めた事でございます。光様もきっと秀頼公と夫婦になれば、私の事などお忘れになることでしょう
――国吉さんは……国吉さんはそれでいいの!? あなたも光様の事が……!
そう言いかけた伊茶に対して、笑顔のままに首を横に振った国吉。
――よいのです。私は光様がお幸せに暮らせれば、それだけでよいのです
その言葉を残して彼はその場を去っていった。
ただでさえ『恋』の許されぬ時代にあって、さらに悪い事に光と国吉とでは、貴族と町民という埋めがたい身分差まである。
例え彼らがどれほどに互いの事を慕おうとも、織姫と彦星のように一年に一度の逢瀬すら許されないのだ。
しかし……
伊茶には到底納得のいくものではなかった。
否! 納得する訳にはいかなかったのだ!
なぜなら……
彼女もまた、幼馴染を強く想いながら、精一杯この時代を生きているのだから!!
そこで伊茶は決意した。
例え実らぬ恋だとしても、咲くか散るかの決着すらつけぬまま、光を嫁入りさせる訳にはいかない、と――
ところが……
彼女の固い決意など、周囲の人々が気付くはずもない。
ましてや屋敷から離れた『若狭屋』の旦那になど……
………
……
慶長12年(1607年)6月2日ーー
それは伊茶が光に奉公を始めた翌日の事。
国吉は朝から『若狭屋』の旦那に呼ばれた為、言いつけられた部屋で一人座って待っていた。
手代の昇進したとは言え、まだまだ駆け出しの身。
旦那と顔を合わせる事はあっても、直接話しかける事など滅多にないことだ。
彼は緊張の面持ちで、旦那が部屋に入ってくるのを待ち続けていたのであった。
そしてしばらくした後、すっと襖が開けられると、柔らかな声が彼にかけられた。
「やあ、よく来たね。元気そうで何よりだ」
若狭屋の旦那はこの時まだ三十を出たばかり。
しかし、一代で商売を成功させて、京のど真ん中で店舗を構えたことからも分かる通り、相当なやり手である。
そんな旦那だが、商売の事から一歩離れると、どこにでもいる温厚な好青年であった。
この日も変わらず、細い目をさらに細めて、優しい笑顔を国吉に向けている。
国吉はゆっくりと顔を上げて答えた。
「ありがとうございます。おかげ様でこの通り、何不自由なく過ごさせていただいております」
「そうか、それは良かった。ところで、国吉。お前に一つ頼みがある」
「はい、私で出来ることなら、なんなりとお申し付けくださいませ」
「いやいや、そう畏まることではない。とあるお屋敷には、しばらくの間、出入りをしないでもらいたいのだ」
「とあるお屋敷……」
その時点で国吉には、どのお屋敷の事を指しているのか、明白に分かっていた。
なぜなら彼が頻繁に出入りしている場所は限られているからである。
それはもちろん……
「鷹司様の御屋敷ですよ」
鷹司という名を聞いただけで、国吉の脳裏にぱっと浮かんだのは光の事であった。
もちろんそのような事などおくびにも出さず、彼は「はい……」と、少し沈みがちな口調で頭を下げる。
すると若狭屋の旦那は、諭すような口調で続けたのだった。
「お前も知っての通り、今鷹司家は光殿の婚儀で大切な時期を迎えている。
しかし、その光殿にはあまり良い噂が立っていないと言うではないか。
その内の一つが、派手な男遊びであり、その相手の一人にお前が含まれていると耳にした。
そこで、しばらくは鷹司家そのものと距離を取って欲しいのだよ。
下手に関わって、火傷でもしようものなら、お前も私もたまったものではないからね」
旦那は国吉を責めるような口調では決してない。
むしろ国吉を面倒から巻き込まぬように助けてあげたいという心意気すら感じられることに、国吉は胸がいっぱいになった。
「申し訳ございません……私の身から出た錆で、旦那様にご迷惑をおかけしてしまいました」
「よいのだ。それに迷惑などとは思っていない。
しかし男女のもつれが必要以上に燃え上がると、様々な所へ飛び火するのは、私たちが生まれる遥か昔から変わらぬ定めのようなもの。
そうなる前に、どうにかしなくてはならないということは、分かってくれるね」
「はい、おっしゃる通りでございます」
聞きわけの良い国吉の様子に、旦那は微笑を浮かべて頷いている。
そして彼は国吉に対して、最後にこう言い渡したのだった。
「しかし光殿がお前を名指しして届け物をさせていることは知っている。
そこでだ。
お前にはしばらくの間、江戸の『若狭屋』の店に出向いてもらうことにした。
そうすれば光殿からの名指しをお断りする道理となろう」
その言葉には国吉も目を丸くして旦那を見つめた。
「江戸……でございますか……? 」
「ああ、これからは江戸での商売が中心となっていくことだろう。
お前にはその先駆けとして、店に立って欲しいのだ。
番頭として」
「番頭……」
ここで言う「番頭」とは、商家における「主人(旦那)」に次ぐ第二位の地位の者であり、江戸における番頭を任されると言う事は、『若狭屋』の江戸の支店の店主として抜擢されたことを意味しているのである。
言わば出世話だったのだ。
国吉はにわかに信じられず、言葉を失っていた。
そんな彼に向けて、旦那はさらさらと流れるように彼の処遇について話を続けたのだった。
「番頭になるからには、名も『国助』とするがよい。
それから独り身のままでは『若狭屋』の番頭としての格に欠けよう。
お前には松坂の越後屋の所からお嫁さんを貰えるように手はずを整えておいた。
それに江戸には屋敷も用意してある。
全てが新たな生活となるが、お前なら何の問題もないと思っているよ」
江戸での新しい生活……
妻をめとり、屋敷を持つ……
旦那の言葉は全て自分事ではないような、どこか浮世離れしたものであり、彼の腹の内に素直に落ちるものではない。
それでも次の旦那の言葉で、それが現実のものであることを、彼は飲み込まざるを得なかったのであった。
「江戸への出立は三日後とする。それまでは暇を出すから、身の回りの片付けをしておくれ」
そう言いつけられると、国吉は頭を何度も下げながら部屋を去っていく。
すると入れ替わりに部屋に入ってきたのは、旦那の妻であった。
「お前さん、国吉は大丈夫かね? あの様子だと、心の整理をつけるのに苦労しそうではないかい? 」
妻の問いに旦那は穏やかな表情のまま答えた。
「ええ……そうかもしれません。ですから、三日を与えたのですよ」
「たった三日で片付くものかね? 」
「さあ…… あとは国吉の気持ち次第……とでも言いましょうか。
私は商いの『いろは』なら何とか分かりますが、男女の色恋のこととなるとからっきしですので……」
「まあ、あの子にはもっと大きな事を任せたいというお前さんの気持ちも分からなくもございません。
あとはあの子次第……確かにその通りかもしれませんね……」
夫婦は大きなため息をついて、国吉が去っていった襖を見つめる。
その視線は、我が子に送るような愛情と祈りのこもった暖かいものだった――
………
……
――三日後、江戸へ……
そのお達しを受けた国吉は、とぼとぼと京の街を行くあてもなく歩いていた。
様々な事が頭の中にずしりと重荷となってのしかかり、一体何からどう片付けたらよいのか、見当もつかない。
そしてそんな彼の心を占めていたのは……
光の事であった……
――私が妻をめとり、江戸で暮らすと聞けば、彼女はどんな顔をするだろうか……
きっと素っ気ない態度を取って、自分の事を突き放すに違いない。
でもそれはきっと本心ではない……
なぜなら彼女は……
いや、自分も……
そんな風に逡巡している時のことだった。
「もし、そこのお方。道を教えてはもらえませんでしょうか? 」
と、突如背後から声がかけられた。
その聞き覚えのある声に国吉が振り返ると……
そこに一人で立っていたのは、昨日出会った女中……
伊茶であった――




