初めての好敵手⑦ 恋はおなごの命ならば
………
……
夜更け過ぎーー
「ううっ…… ああ、寝ちゃったのね……」
光はふと目を覚ますと周囲を見回した。
散乱した盃や膳部……
そして酒が床を濡らし、食べ物も散らかっている……
しかし……
人は誰もいないーー
光ただ一人が部屋の中心で、佇んでいる。
光は急に胸が締め付けられるような痛みを覚えると、耐えきれぬ喉の渇きを感じた。
「水……」
光はふらふらと立ち上がると、危うい足取りで部屋を出た。
……と、そこにいたのは……
「あんたまだいたの……」
伊茶であった。
ギロリと彼女のことを睨みつける光。
そんな光に対して、伊茶は穏やかな表情で頭を下げた。
「寝間は別の場所とうかがっておりますゆえ、起きてこられるのを、お待ちしておりました」
「そんな事を言ってるんじゃないわ。
あんな事をされて、どうしてまだ『この屋敷』にいるのか、と言ったのよ! 」
彼女の言う『あんな事』とは、無論、出会い頭に頬を叩いたその事だ。
しかし顔を上げた伊茶は、光の剣幕など物ともせずに、ニコリと微笑んだ。
「ふふ、光様こそ、なぜ『あんな事』程度で、私が奉公を投げ出すとお思いでしたのでしょう? 」
「な、なんですって……!? 」
驚きを隠せない様子の光。
しかし伊茶にしてみれば、頬を叩かれた事なんて、本当に些細な事。
なぜなら彼女はここまで来た道のりは、とても一言で言い表わせる事など出来ぬ程の、困難と挫折の連続だったのだから……
それもそうだろう。
幼馴染を取り戻す一心だけで、この時代に飛び込み、文字、生活習慣そして言葉すらも分からぬままに、『大阪城の鬼乳母』こと大蔵卿の側に仕える事になったのだから……
伊茶は、なおも驚愕に顔を青くしている光に対して、盃を差し出した。
「な、何よ? これ」
「お水になります。お喉が渇いたかと……」
「ふんっ! 毒でも入ってるんじゃないでしょうね!? 武家の娘がやりそうな事だわ! 」
光の言葉に、伊茶は目を細めて口元を緩めると……
ーーグイッ!
と、一気に盃を飲み干した。
ーータンッ!
床に盃を置き、もう一度水を注ぐ。
そして彼女は少し低い声で言ったのだった。
「これでお分りでしょうか。
では、お水を飲まれますか? 」
伊茶の気迫に押されるように、光は何度かコクコクと首を縦に振ると、廊下の上に腰を下ろした。
ーーグイッ!
冷たい水が喉を潤すと、自然と荒れていた心も鎮まっていく。
光はあらためて伊茶の顔を見つめた。
あれ程毛嫌いしていた武家の娘……
武家が公家の生活を支配し始めようとしている昨今の情勢において、光の婚儀はその象徴とも言える出来事と光は考えていた。
位の高い貴族が、武士の言われるがままに娘を差し出す……
その事がどうしても彼女には許せなかった。
そして、まるで光を迎えに来るような、伊茶の奉公。
光は伊茶の顔すら見たいとも思わなかった。
しかし今、彼女は伊茶の顔を、穴が開く程に見つめている。
気の強さがうかがえる強い瞳、そして透き通るような健康そうな肌。
不思議なことにその顔を見ていると、心が落ち着くような気がしてならかったのだった。
しばらく心を空っぽにして水を飲んでいると、伊茶が声をかけてきた。
「光様、お腹も空かれてませんか? 」
「お腹……? 」
光は、ふと自分の腹辺りに目を向ける。
すると確かに、くるくると可愛らしい音を立てて、物を欲しているのが分かった。
その様子に伊茶は、ニコリと微笑むと、さっと何かを差し出した。
「これは……? 」
「大阪城名物のおかきにございます。
かの太閤殿下が作らせたとか……
いやぁ、やっぱりお偉い方がお好きな物は、誰が食べても美味しゅうございますね! ささっ! どうぞ! 」
「え、ええ……」
伊茶の言われるがままに、包みの中の菓子を一つ手に取る。
ーーポリッ!
「まぁ! 美味しい! 」
光はあまりの旨さに目を丸くする。
すると伊茶は満面の笑みで言ったのだった。
「ですよね! さきほど文七さんとほとんど食べちゃったのですけど、よかったら残り全部どうぞ! 」
「えっ!? いいの? 」
「ええ、もちろんでございます! 元はと言えば、こちらは光様への手土産ですから! 」
「ちょっと! なら勝手に食べたというの!? わらわに許しも得ず! 」
「まあまあ、よいではありませんか! 食べないなら私が頂いちゃいますよ! 」
「あっ! やめなさい! これはわらわが……! 」
そこまでやり取りをすると、伊茶が手を口に充てて目を細めた。
それを訝しく思った光は、眉をひそめながら問いかけた。
「な、何よ!? 」
「ふふ、ようやくお見せ頂けたので、嬉しくてつい……」
「な、何をよ!? 」
「笑顔にございます。やはりおなごは笑顔が一番でございますね! 実にお美しゅうございます! 」
「な、な、な、な……!? 」
夜でなければ、光の顔が恥ずかしさのあまりに真っ赤に染まっている事が、一目瞭然であろう。
それは幸いではあったが、彼女の狼狽する様子を、伊茶は目を細めたまま、じっと見つめている。
光はすくりと立ち上がると、廊下を歩き始めた。
「もう寝ます!! 寝巻きの用意は出来ているんでしょうね!? 」
「ええ、もちろんでございます」
「なら早く行くわよ! 」
一人でズンズンと廊下を歩き始める光。
彼女の足を早めているのは、恥ずかしさもあるのは確かだ。
しかしそれ以上に、伊茶という武家の娘に気を許しそうになっている自分が許せなかったからである。
ーーわらわは……わらわは武家が嫌いなのじゃ! それなのに……
心にもやがかかる。
それを振り払いたくて、彼女は廊下を大股で歩いていこうとしたのだった。
しかし……
そんな彼女の背中に、伊茶の透き通った声が響いてきたのだ。
「光様! 一つお願いがございます! 」
その声に光は思わず足が止まる。
しかし、振り返ることはしなかった。
なぜか振り返ったらいけないような気がしてならなかったからだ。
ところが……
次の伊茶の言葉に……
光は……
無意識のうちに振り返ってしまったのである。
「光様! 諦めないでくださいませ!!
光様の恋を!! 」
「な……なんですって……!? 」
ーードタッ、ドタッ!
進みかけた足を伊茶の元まで急がせると、彼女の真正面にドスンと腰を下ろす。
先ほどまで笑顔から真剣な表情に変えている伊茶に光は掴みかかった。
「どういう意味か答えなさい!! 」
光の剣幕に伊茶はたじろぐ事なく、むしろ熱を込めて答えた。
「そのままの意味でございます!
今の恋に決着をつけずに、他人の決めた嫁入りをするなんて……
そんな事を許してはなりません! 」
「あんた……自分が何を言っているか、分かっているの!?
そんな事出来る訳……」
そう言いかけた光。
しかし伊茶の目は、とても冗談を言っているようには思えず、真剣そのもの。
「まさか……あんた本気で……」
光は伊茶から少し離れると、あらためて彼女の顔を見た。
それでも伊茶の真剣な顔つきは全く変わらなかった。
そして彼女はさらに驚くべきことを口にしたのだった。
「公家とか、武家とか……そんな事の前に、光様は『おなご』です。
笑顔が素敵な『おなご』でございます!
『おなご』ゆえに恋をするのです!
訳も分からぬしきたりゆえに、『おなご』であることを諦めるなんて道理が許せましょうか!? 」
「あんた……馬鹿なの……? 」
「ええ、私は馬鹿で、公家やら武家やらのことはよく分かっておりません。
しかし『おなご』であることは確かでございます。
同じ『おなご』として、今の光様を放っては置けないのです」
ーーガシッ!
今度は伊茶の方が身を乗り出すと、開いた口が塞がらない光の手をしっかりと握った。
そして最後にきっぱりと言い放ったのだった。
「恋はおなごの命でございます!
咲くか、散るかも知らずして蕾のままに切り落としてしまうなんて断じて許せませぬ!
咲かせてみせましょう! 恋の華を! 」
と――
 




