秀頼の扱い方
◇◇
俺、豊臣秀頼は今、猛烈にイライラしている。
「お千や。今日の日付を言ってごらん」
そう目の前の少女に問いかける俺。もちろん口元には、問いかけた相手と遊んでいる事を演出する為の笑みを浮かべる。不自然に引きつってはいるが…
「秀頼さま!その問いかけは本日何度めでありましょうか?千はもう飽きました!」
ぶぅと口をとがらせて抗議する少女こと千姫。
俺はそれをあやすように、その答えを促した。
「月日をちゃんと言えるのかのお稽古なのですよ。こういうのは繰り返しが肝心。上手く言えたら、そこにあるコンペイトウを差し上げようではないか」
「ほんとに?」
先ほどまで寄っていた眉間のしわを解き、俺の顔をのぞきこむ千姫。
俺は胸を張ってそれに答える。
「ああ、男に二言はないとも!」
「やったぁ!慶長5年(1600年)長月(9月)12日になります!」
ああ…やはり何度聞いても、1600年9月12日だ…
あと3日!
関ヶ原の戦いまで、あと3日しかないんだぞ!!
それなのに何も起らない…いや、正確には「起こせない」のでは、「予定通り」に関ヶ原の戦いが始まってしまうではないか!?
俺は頭を抱える。
3通の書状を霧隠才蔵に代筆してもらった後、その結果を楽しみに待っていた。
「所領が危うい!」と知った毛利輝元が、徳川家康との和議へと動いてくれるのではないか、そんな甘い期待をしていた為だ。
しかし1週間程前に「黒田、加藤の両軍が動き出しました」という、史実通りなのか、それとも俺の書状が功を奏したのか判断がつきにくい情報を得た後は、俺のもとに追加の情報は届かなかったのである。
それは常に千姫か淀殿が俺の部屋に入り浸っているせいで、なんらかの情報を持っていたとしても、才蔵が俺に近づけなかったからかもしれない。
とにかくこんな切羽つまった状況なのに、情報もない、何も出来ないと「ないないづくし」の自分自身にイラついていたのである。
ガリ!
そしてコンペイトウを無造作に掴んで口にしてしまうのは、ストレスのはけ口として、いつものことだ。
「あー!!あー!!」
くそ…いつも思考にふけろうとするとこれである。
俺の隣にいる千姫が俺の耳元で騒ぐのだ。これでは次のことを考えようにも集中出来ない。
俺は文句を言おうと千姫の方を見た。
その表情は、両方の頬を真っ赤にして涙を浮かべている。
俺は直感した。
この顔は…目の前の相手への怒りと、自分のものを取られた時の悲しみを一緒にたたえたものだ…
そして千姫の視線は、俺の左手に集中している。俺は自分の左手に視線を移すと、そこには空になったガラスの瓶…先ほどまでわずかにコンペイトウを含ませていた瓶だ。
しまった!と俺は自分が無意識とはいえ、しでかしてしまった事に後悔する。
そしてこうなったら仕方ない。
開き直って、押し通す!
俺はその作戦にでることにした。
「食べちゃった!」
と、俺は目いっぱいのお茶目な笑顔で、舌をペロっと出して言ってみた。
この表情を可愛い女子にされたら、たいていの男子なら何でも許してしまうだろうと誰かが言っていた顔だ。
しかし…
「秀頼さまなんか、だーーっい嫌いじゃ!!」
ドゴン!!
浅はかな俺の作戦は虚しく、右の頬にグーパンチを食らうという情けない結果に終わるのだった。
「これ…お約束になったら嫌だな…」
◇◇
俺は腫れた右頬をさすりながら、もう一度思考の中に入り込もうとする。
幸いなことに、千姫は俺を殴りつけた後に、そのまま部屋を出ていったのだ。
この千載一遇とも言える機会を見逃す手はない。あと3日…出来ることなら何でもやろう。
なんとしても関ヶ原の戦いの両軍の激突を回避させ、その仲介を豊臣が行うのだ。
そして目をつむり、集中力を高めようとした、その時であった…
スーッ!
部屋のふすまを力強く引く音がした。
人の気配に俺の集中力は完全に途切れる。
また、千姫か!邪魔ばかりしやがって…もう堪忍ならぬ!
この際だから追い払おう!
そう思い振返りもせずに
「おい!人が一人になりたい時に邪魔ばかりするな!たまには一人で遊んでおれ!」
と、大きな声で文句を言った。
背後の相手の動きが止まる。
おっ…効いたのか?そのまま外に行っておくれ。
と、内心「しめしめ」と思った矢先である。
背後の人間がしくしくと泣き出したのだ…しかも大人の女性の泣き声で…
俺は急いで振返る。
そこには大きな袖を目に当てて、涙を流す母…淀殿の姿があったのだった。
「ああ…秀頼ちゃんは私の事をそんな風に思っているのですね。母は悲しいです…」
ぐぬぬ…これまた面倒な事になった。
「ははうえ!めっそうもございませぬ!背中を向けておったゆえ、お千と間違えてしまったのでございます!」
精一杯の無邪気な少年を演じて、俺は申し開きをする。
しかし…
「ああ…私なんて背中を向けていたって、寝ていたって秀頼ちゃんの動いた音なら、全部分かるのに…秀頼ちゃんは母の事など、全く分からないのですね…」
しまった…また地雷っぽいのを踏んでしまったようだ。
しかし「寝ていても」俺の動きに気付けるとは…愛情の度合いを通り越しているような気がする。俺は思わず寒気に身震いした。
そしてさらに悪いことは重なるもので…
「秀頼さま!!ひどい!千だけなら追い出されていたのですね!!」
と、淀殿の背中からは千姫の金切り声が飛んできた。
混沌としかけた雰囲気の中、淀殿が顔を伏せたまま、
「せっかく秀頼ちゃんが会いたいって頼みこんでいた、毛利中納言との面会の話を持ってきたのに…ひどいわ、秀頼ちゃん…」
と、俺にさらりととんでもない事を告げたのだから、たまったものではない。
「ちょ…ちょっと、ははうえ!それはまことにございますか!?」
俺は慌てて淀殿の方へと詰め寄った。すると淀殿は顔をそむけるようにして
「でも、そんな母を追い出そうとするのだから、よほど秀頼ちゃんはお忙しいのでしょう。毛利中納言には断りを入れておきます」
と、嘘か真か分からないような意地悪を言いだしたのだ。
「も…申し訳ございませぬ!ははうえ!この度はこの秀頼に否がございます。つきましては何でもいたしますから、どうか毛利殿との面会をおゆるしくださいませ!」
「なんでも…?」
袖の後ろからキラリと目が光ったような気がする…
それはまるで蛇のようだ。
ゾクっとした悪寒とともに、俺は自分の軽口を後悔したが、それはもはや遅かったようだ。
「じゃあ、『ははうえ!だいすきじゃ!』と大きな声で叫んで、母に抱きついて頂戴」
「げっ…」
俺は思わずのけぞってしまった。
千姫という他人の目がある中で、男子たるもの、母親に向かって「大好き」と言って、抱きつけるものではない。
恥ずかしいにもほどがある。
しかし、そんな俺の様子を見透かしたように、
「どうしたの?そんな事も出来ないほど、お忙しいのかしら?」
と、淀殿は俺を追い詰めてきた。まさに蛇のような鋭い目をして…
「ぐぬ…」
俺は観念し、
「…は、ははうえ…だい…すき…じゃ…」
と、口をとがらせて、ぼそぼそとつぶやいた。
「ああ…母も年老いたものです。耳が遠くてなりませぬ。秀頼ちゃんの声なのに全く聞こえません」
「くっ…ははうえ、だいすきじゃ…」
淀殿は聞こえないというように首を振り、
「ああ…秀頼ちゃんは忙しい上に、声が出ないほど体調が優れないのですね。この度の面会はなし…」
「ははうえ!だいすきじゃぁーーー!!」
ガシ…
俺は城中に聞こえるのではないかと思えるほどの大声で叫ぶと、思いっきり淀殿の胸に向かってダイブした。
厚い着物の上からだろうか…思ったより柔らかく、包まれるような感覚に戸惑いを覚える。
そして、これはなんだろか…すごく懐かしいような、安心する香りが俺の鼻をツンとついた。
一方の淀殿はそんな俺を優しく受け止めて、抱き寄せる。
「母もです。秀頼ちゃん…だから…絶対に危険な目には会わせませぬ…この母が命に代えてでも守ってみせますからね」
俺はその言葉にハッとした。
そうか…淀殿は気付いているのだ。
俺と毛利輝元の面会が、軍事的に大きな意味を持つ可能性がある事を…
そして彼女は恐れている。
俺が時代の波に翻弄され、ずるがしこい大人たちに利用されていくことを…
俺はそんな淀殿の心配する親心と愛を感じながら、しばらく彼女の胸に身を預けた。
心の中で、「俺は逆に大人を利用してやるから大丈夫」と根拠のない自信に溢れていた。その一方で「淀殿は案外優しいんだな」と、そんな恥ずかしいことを思いながら彼女に身を委ねていたのだった。
しかし…
しばらくすると淀殿は、背後の千姫に向かって、優しく諭す声が聞こえる。
「これが秀頼ちゃんの扱い方です。分かりましたか?お千」
と…