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初めての好敵手⑥ 乱れる理由

◇◇

 突然頬を叩かれた伊茶は、何がなんだか分からずに、部屋を退出すると、頭の中を真っ白にしたまま元来た廊下をとぼとぼと歩いていた。

 ふとそんな彼女に向かって声がかけられた。

 

 

「もし、そこのお前さん」



 伊茶はぼけっとしたままその声の方へと視線を向けると、そこには先ほど光の部屋の場所を教えてくれた、下男と思われる少年が、相変わらず廊下の隅で正座をしたまま手招きしていたのである。

 

 

「あなたは……」



「てまえは文七。この屋敷で光様のお世話をさせていただいております」



 伊茶は彼の言葉に目を丸くすると、急いで彼の目の前に腰を下ろした。

 そして慌てたように早口でまくし立てるように言ったのだった。

 

 

「私は伊茶。今日から光様のお世話をすることになったのだけど、あれは一体どういうことですか!? 」



 彼女の言う「あれ」とは、無論彼女が部屋の中で見た「惨状」とも言える光景のことだ。

 彼女にしてみればこの時代にやって来る前からしても、あんなに男女が乱れている場面に出くわしたのは初めてであった。

 

 伊茶は、頭の中がぐるぐると掻き回されているように混乱していることを、そのまま口調に表したのだが、文七は困ったような顔で、

 

「と、取り合えず落ち着いてください! 」


 と、彼女の混乱を収めようと試みた。

 ところが伊茶はむしろ逆上していったのだった。

 


「落ち着いてなどおられません! 今思い返せば、汚らわしい上に、無礼この上ないわ!

ああ、無性に腹が立ってきた! 」



 そして彼女は、バリバリと手持ちの光への手土産の包みを開け出すと、中の「おかき」を口に頬張り始めたのである。

 

 

――ボリボリッ!!



「どうせあんなに酔っぱらっていたら、この絶品のおかきの味だって分かるはずもないのだもの!

ほらっ! 文七さんも、お一つどうぞ! 」


「い、いえ……てまえは……」


「なにっ!? 私の好意を受け取れないというの!? 」


「い、いえ! そんなことはございません! では、お一つ……」



 伊茶の気迫に負けた文七は、おかきを一つ頬張ると「おお! これは旨い! 」と思わず唸る。

 

 その様子に伊茶は多少気を取り直したのか、嬉しそうに目を細めると、「まだまだいっぱいあるから、どんどん食べましょ! 」と、手でおかきを鷲掴みにしながら、ボリボリと口に入れ続けたのだった……

 

 

 

………

……

 腹が膨れれば気分が晴れるのは、どの時代でも変わらぬらしい。

 結局手持ちのおかきを全て平らげると、すっかり満腹になったお腹を撫でながら伊茶は満足そうに笑顔を浮かべた。

 

 彼女の機嫌が良くなったことに、文七はほっとすると、足を崩して座り直す。

 そして伊茶はあらためて落ち着いた口調で文七に問いかけた。

 

 

「光さんはどうしてあんな事を? 」



 すると文七はその問いに周囲をきょろきょろと見回すと、誰もいないことを確認してから小さな声で語り始めたのだった。

 

 

「実は……」



 彼の話を要約すれば、公家の若い女や男たちが公然と乱れ始めたのは、猪熊教利いのくまのりとしなる人物の影響が大きいとのこと。

 

 伊茶もこの時代にやってきてから猪熊教利いのくまのりとしという男の名前くらいは耳にしたことがあるくらいに、この頃の大坂や京では有名な人物だ。


 

――光源氏の再来



 とまで揶揄される程の色男であった彼は、あらゆる面で自由奔放に振舞っていた。

 その様は、武家……すなわち徳川幕府による、公家に対する公私に渡る締め付けが厳しくなっていく中にあって、彼らや京の庶民たちに大きな影響を与えたのである。

 

 

――着こなしも、恋も、そして生きる事すらも自由が許されぬ世など、面白くともなんともねえ!



 猪熊教利いのくまのりとしは、そう公言すると、貴族の若者たちに対して「もっと自由に生きようぞ! 」と、強く呼びかけ続けた。

 

 人の持つ本来の欲求を刺激する過激な言葉の数々は、閉塞感が根強い公家の社会に大きな波紋を投げかけたのは言うまでもない。

 

 若者を中心として、彼の主張に賛同する人々が、一人、また一人と増え始めると、それはついに社会現象にまで発展していったのであった。


 それが「乱交」という形になって表れたということだ。

 

 しかし、反武家、反社会的なその主張は、施政者たちにしてみれば面白いものではない。

 それに「乱交」が横行する事実は、公家……しいては朝廷の権威を落としかねない。

 

 今年……すなわち慶長12年(1607年)に、ついに彼は、京の所司代板倉勝重の助言の元、天皇の勅旨によって、京を追放されると大坂へと逃れたのだった。


 だが彼の唱えた主張は既に公家の若者たちに文化として深く根付いており、その影響を受けた者の一人が光であったという訳だ。

 

 

「光様をはじめとして、多くの公家の若人わこうどたちは、武家に対して強く反発しております。

恐らく伊茶様が武家の出であるとご存じでしたのでしょう」


「だから会った途端に、頬を張られたという訳ね。でも、理不尽よね! 私が光様に何をしたって言うのよ! 」


「ええ…… しかし光様に言わせれば、自分が武家の嫁として嫁がねばならぬ事の方が理不尽であると思われておられることでしょう」



 しんみりと漏らすように口にした文七。

 しかし伊茶はその言葉に、ぷくりと頬を膨らませて抗議した。



「ちょっと! 文七さんはどっちの味方なのよ! 」


「て、てまえはどっちの味方とか敵とか、そんなつもりはございません! ただ……」



 言葉を濁らせる文七に対して、伊茶は不思議そうに彼を見つめる。

 そして彼は、ぐっと腹に力を入れると、一層声を低くして言った。

 

 

「光様のお辛い胸の内を思うと、てまえも心苦しくてならないのです」



「お辛い胸の内……? 」



 伊茶は眉をひそめる。

 

 すると文七はぽつりと漏らした。



「光様には幼い頃よりお慕いになられている想い人がおられるのです」



 文七の言葉を耳にした瞬間に、伊茶はハッとした顔になると、一人の男の顔が思い浮かんだのである。

 そして彼女の予想は見事に的中したのであった。

 

 それは……




「国吉様でございます……」



 文七の言葉を聞いて、伊茶は、国吉が自分と共に光の待つ部屋へ足を運んだ理由が分かったような気がした。

 

 国吉は、光に「届け物をして欲しい」と呼ばれた時点で、乱交の場に引き込まれる事が分かっていたに違いない。

 そこで偶然にも同じく光に用事のある伊茶と共に訪れれば、光の注意を逸らす事が出来るのではないか、その隙に部屋を出る事が叶うのではないか……そう考えたのだろう。

 

 しかし結果は彼の思惑とは真反対であった。

 

 光は、国吉が伊茶と共に現れたことに逆上し、彼女に暴力を振るって追い出し、国吉を部屋の中に連れ込んだ……

 

 恐らく伊茶がいきなり頬を叩かれた真相はこんなところだろう。

 そう考えれば伊茶は「とばっちりを受けた」としか言いようのないことだ。

 

 

 だが、このとばっちりのお陰で、一つの光明が見えた気がするのも確かであった。

 

 

 つまり彼女がここへやって来た理由である、「光の弱みを見つけ、秀頼への輿入れを破棄させる」という密命において、「光の弱み」にあたる部分が見い出せたような気がするということだ。

 

 しかし、いかに彼女の私生活が乱れていようとも、彼女の持つ「高貴なお家の血筋」は揺るがないし、乱交の事実がきっかけで婚約破棄に繋がるとも考えにくい。

 

 

 ……となれば、伊茶に残された道は、ただ一つ。

 

 

――彼女自身に動いてもらうより他ない!

 

 

 もちろん、嫁入り前の女性が、自身の婚約に対してどんなに嫌悪しても、何の影響もない事は周知の通りだ。

 しかし彼女は「武家を嫌い」そして「想い人がいる」。

 すなわち秀頼との婚姻については、確実に良くは思っていないのは明らかだ。

 

 もはやそこから突破口を見出すより、道は残されていない……

 

 そんな風に伊茶には思えたのだった。

 

 

 

 

 そして辺りが夕焼けに染まるその頃……

 

 廊下の奥から、ふらふらとした足取りで国吉が姿を現したのだった――

 

 

 

 




後世「猪熊事件」と呼ばれる、公家内の乱交の事件は、果たして事件単体が問題だったのでしょうか。


私にはどうにもそう思えません。


この頃の公家の若者たちの生活に関する情報があまりなかったので、近世における「性に対する概念」から照らし合わせて、その実態を推測してみました。


官位・官職を権威の象徴として利用するのは、この時代に始まったことではありませんが、武家が公家を完全に御するのは、江戸幕府が開かれた後、京の所司代の権力が強まってからなのではないかと思います。


それに対する反発が全くなかった、とは言い切れないのではないでしょうか。


さて、次回は光、国吉の二人を巡り、伊茶が動きだします。

今後もどうぞよろしくお願いいたします。


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