初めての好敵手⑤ 思いがけぬ光景
◇◇
伊茶が京へと出立する日ーー
「はぁ……どうしよう……」
伊茶は大きなため息をついた。
側にいる青柳はかける言葉が見当たらず、ただ彼女の出立の準備を手伝うより他なかったのである。
そんな彼女のことを恨めしい目で見つめていた伊茶は、すがるように言ったのだった。
「ねえ、青柳さん! 何か言ってよぉ! 私どうしたらいいの? 」
ぐいっと可愛らしい顔立ちの伊茶が近寄ってくると、青柳は思わず顔が熱くなるのを抑えられなかった。
そして焦ったような口調で答えた。
「な、何かって言われても、何も思いつかないから仕方ないでしょ!? 」
「そんなぁ……私に貴族のお屋敷でのお仕事なんて務まるかしら……? 」
「そ、それは何とかなるんじゃない!? 伊茶はとっても優秀なんだから! 」
「しかも、光様の秘密を探らねばならないのでしょう……? それも私には出来るって言うの? 」
「そ、それは……」
青柳は思わず言葉を濁した。
もし自分が同じ立場ならどうだろう……
青柳はそれを考えるだけで、ゾッとした。
大坂城の奥における絶対的な存在といえる淀殿から密命を言い渡され、右も左も分からぬ貴族の家に一人で向かわねばならないのだ。
もしこれで光の秘密が暴けなかったなら……
そしてもし暴けたとしても、それを口実に秀頼様との縁談を破棄させるに至らなかったら……
完全に大坂城に居場所はなくなるだろう。
まさに行くも地獄、引くも地獄とは伊茶のような状況のことを指すのだろう、そう青柳は思えてならなかったのだった。
……と、その時だった。
「まあまあ、なるようしかならいでしょ! 行けば分かるさ、何事も! 行かねば何も分からぬものよ! 真田安房守様はいつもそうおっしゃってましたわ! 」
と、実に能天気な声が部屋の中に響いてきたのである。
その声の持ち主は、言うまでもなく蘭であった。
そして彼女は伊茶に大きな包みを差し出した。
「これは……? 」
「ふふふ、よいこと? 人は誰しも美味しいものに弱い! 相手の心を掴むには、まずは胃袋からよ!
これはかの太閤殿下も愛した『おかき』よ!
こっそり千姫様のお部屋からくすねて……ごほんっ!
まあ、出どころはこの際どこでもよいでしょう。
これを贈れば伊茶の評判はうなぎ登りに違いありません! 」
「うわぁ! ありがとう! 蘭さん! 」
これまで沈んでいた伊茶の顔がばぁっと晴れていく。
すると蘭は続けた。
「ふふふ、よいこと? もう伊茶は一人じゃないわ!
私たちがついている! だから思い切って頑張ってきなさい!
私たちもこっちで色々と頑張るから! 」
「蘭さんたちも色々と頑張ってくれるの? 」
「当たり前じゃない! だって私たちは……」
ぐっと溜める蘭。
伊茶はゴクリと唾を飲み込んだ。
そして……
「私たちは『仲間』なんだから! さあ、行きなさい! 」
と、高らかと言い放った。
「はいっ! 行ってまいります! 」
ズシリと重くのしかかる荷物を抱えて立ち上がった伊茶。
しかし今の彼女には『仲間』がいる。
それだけでなぜか何でも出来てしまいそうな気がしてならなかった。
そして軽い足取りで大坂城を出ていったのだったーー
その様子を遠くで見つめていた蘭と青柳。
ふと青柳が蘭に問いかけた。
「とこで蘭、『こっちで色々頑張る』って言ってたけど、何をするつもりなの? 」
その問いかけに、顎に手を当てて考え込む蘭。
そしてあっけからんと言った。
「さあ……? 何をしましょうかね? 」
「呆れた! 何も考えていなかったの!? それじゃあ、伊茶を騙したみたいじゃない! 」
「騙したなんて、人聞きの悪い。これも『策』の一つよ! 何かあるぞと思わせて相手を動かす、これが『策』の妙というものだ、と安房守様は常々おっしゃってたわ! 」
悪びれもせずに言い返してくる蘭。
青柳は完全に引きながら、心の中で決意した。
ーーこの人だけには何も知られないようにしよう……
とーー
………
……
同日 昼ーー
伊茶は京にある貴族の屋敷が建ち並ぶ場所までやって来た。
「ええっと……確かここの道を右に曲がって……」
まるで碁盤の目のように道は続いており、一度迷えば二度とたどり着けなくなってしまうのではないかという、恐怖が伊茶の小さくなった心を襲う。
「どうしよう……迷子になったら……」
そんな風に半べそをかいていた時だった。
ふと、一人の青年が彼女に声をかけてきたのである。
「そこの女中、ひょっとして道にでも迷ったのかい? 」
伊茶はまさに渡に船と言わんばかりのその声の持ち主の方へと目を向けた。
すらりと背の高い青年。
眉目秀麗の顔は、よく日に焼けて眩しいくらいに輝いている。
普通の女性であれば一目で惚れてしまいそうな青年であったが、自分の役目に必死な伊茶は、彼の容姿のことなど気に留めることなく頭を下げた。
「ええ、そうなの! 鷹司様のお屋敷に行きたいの! お願いします! 道案内をしていただけないかしら? 」
すると青年は抑えのきいた美しい声で答えたのだった。
「ちょうど私もそのお屋敷に伺うところだったのですよ。女中さえ良ければ、ご一緒いたしましょう」
伊茶は急いで顔を上げると、
「よろしくお願いします! 」
と、即答したのだった。
「ええ、こちらこそ。私の名は国吉」
「私は伊茶です! 」
「そう、伊茶。よろしくお願いしますね」
「はいっ! 国吉様! 」
なんと爽やかな好青年なのだろう。
ーーああ……格好いい人って、心まで格好いいのね!
伊茶はそんな風に思わざるを得なかった。
その時……
ふと、幼馴染の近藤太一の顔が浮かんできたのだ。
とたんに何か熱いものが腹の底から湧き上がってくる。
ーーなんで今たっちゃんのことなんか……
彼女は自分のことが不思議でならなかった。
すると顔を真っ赤にして立ち尽くしている彼女に対して眉をしかめた青年は、「大丈夫かい? 」と彼女の顔を覗き込んできた。
伊茶は、ハッと我に返って慌てて言ったのだった。
「だ、大丈夫です! は、早く行きましょう! 」
「あっ! ちょっとお待ちなさい! そっちではありません! 」
………
……
伊茶と青年が鷹司家の屋敷に到着したのは、まだ夕刻には時間がある頃だった。
「光様のお部屋にご案内いたします」
そう小姓の少年に促されるがままに、広い屋敷の中をひたすら進んでいく。
ーーなんて広さなの!? どこまで続いているんだろう?
伊茶は驚きを禁じ得なかった。
それは大坂城の奥と同じかそれ以上にも感じられほどだったからであった。
そうしてしばらく小姓の背中を追いかけていくと、ふとその背中が廊下の途中で止まった。
そして小姓は廊下の脇に座ったのだった。
「私が案内出来るのはここまででございます。後はこの廊下の突き当たりが光様のお部屋でございます」
「えっ……!? もうすぐそこなら最後まで案内してくれればいいのに」
思わず伊茶は目を丸くした。
しかし小姓は伊茶の言葉に答えることなく、顔をそらしている。
すると国吉が伊茶に優しく促したのだった。
「このまで案内してくれただけでも礼を言わなくては、ばちが当たるがというものですよ。さあ、もうすぐそこなんですから、先を急ぎましょう」
「え、ええ……そうですね」
伊茶は何か胸につかえるものを感じながら、国吉とともに先を急ぐことにしたのである。
そして部屋の手前まで来たその時だった。
「なに!? この匂い!? 」
それは強烈な香の匂いだった。
良い香りであることは間違いないのだが、あまりに強い匂いのために、頭がぐらつく。
そして同時に……
ーーキャハハハッ!
ーーあははっ! もっと飲もうぞ! まだ日は高いではないか!
ーーもう、そんなに飲ませて何を企んでおられるのですか?
ーーウフフ! そんなこと一つに決まってるんじゃない!?
という、明らかに酒に溺れた複数の男女の声が響いてきたのである。
「これって……まさか……」
伊茶はその部屋に入る前に何が行われているか想像がついた。
男女が酒を飲んで乱れている姿をーー
もちろん国吉も気づいているはずだ。
しかし彼はむしろ足を早めた。
そして、彼はおもむろに襖を開けたのだった。
「な、な、なんですか……これは……」
伊茶は思わずそう口に出さざるを得なかった。
それもそのはずだろう。
彼女の目に飛び込んできたのは、まさに衝撃的な光景だったのである。
服のはだけた若い女性が五人。
その服の中に手を入れながら大笑いしている若い男たちも五人。
部屋のあちこちに盃が転がり、食べ散らかしたつまみが床一面に散らばっている。
しかし隣で頭を下げている国吉は全く動じることなく、静かに包みを前に出した。
「光様、言いつけの品。確かにお持ちしました」
すると部屋の中央で複数の男たちに囲まれていた、鋭い目つきの女性がゆっくりとした足取りで国吉のもとまでやってきた。
そして……
ーーブチュッ!!
なんと国吉に口づけをしたのである。
彼女のなすがままに国吉は身を任せていた。
伊茶は完全に引きながらその様子を凝視する。
すると光は国吉の唇を吸ったまま、伊茶をギロリと睨みつけた。
国吉から離れる光。
そしてねっとりとした口調で伊茶に問いかけた。
「あんた? 何者? 」
「伊茶にございます! 今日から光様に奉公しに……」
そう言った瞬間だった。
ーーバチィィィィン!!
と、高い音が部屋中に響いた。
伊茶はその音の出所が、まさか自分の頬からだとは思えなかった。
それほど思いもよらないことだったのである。
光から頬を思いっきり張られるなんてーー




