初めての好敵手③ 相談相手
◇◇
「はぁ…どうしよう…」
淀殿の部屋から出た伊茶は大きなため息をついた。
ここまでやって来た時との足取りと比べればはるかに重い。
それも彼女に課せられた密命を思えば仕方のないことだろう。
ーー豊臣秀頼公の側室になっていただきます
という密命。
しかしそれだけならまだいい。
むしろ秀頼に近付きたい彼女にしてみれば好都合である。
ところがその密命には続きがあったのである。
それは…
ーーその為、今回の縁談をどうにかして破談にしなくてはなりません。その為の理由を伊茶には作って欲しいのです
というもの。
そして…
ーー側室になったあかつきには、秀頼公にこれ以降悪い『虫』がつかぬよう見張りなさい。無論、伊茶自身が変な気など起こしてはなりませんよ
「変な気って…私は別にたっちゃんのことなんか…」
そんな風につぶやきながらも、顔の温度が上がっていくことに、彼女自身は不思議でならなかったのだった。
しかし肝心なところはそこではない。
今回の縁談を破談にする…
そんな大それたことを出来る手立てなど微塵もない。
しかし何もせずに手をこまねいていては、淀殿の期待に応えられず、それこそ大坂城から追い出されてしまうかもしれない。
「はぁ…困ったなぁ…」
彼女はそう何度もため息をつくより他なかったのだった。
本丸御殿の奥の部屋を抜けると伊茶たちが普段待機している侍女たちの間だ。
伊茶は呆然としたまま無意識のうちに自室へと戻ろうとした。
その時だった。
「あら!? 伊茶ではありませんか? 淀殿に呼ばれたとうかがいましたが、もう戻ってきたのですね」
と、のんびりとした穏やかな口調で声をかけられたのである。
伊茶はふと顔を上げてその声の方を見ると、そこには千姫の侍女である青柳の姿があったのである。
この二人は母親同士が仲が良いということもあり、幼馴染といっても過言ではないほどの仲。
もっとも伊茶の方は過去の記憶が全くない為、青柳のことを知り尽くしているというわけではないが、それでも彼女の懐の大きさや人の良さは十分に理解していた。
そして今の伊茶にとって彼女の存在は、まさに渡りに船であった。
「青柳さん! ちょっとこっちへ来て!」
「ちょ、ちょっと伊茶? どうしたの?」
急に手を取られて引っ張っられれば誰でも慌てるだろう。それは普段からおっとりとしている青柳でも同じであった。
しかし伊茶は「いいから、こっちへ!」と有無を言わせずに彼女を引っ張って、とある場所へと急いだのだった。
………
……
そこは本丸御殿から少しだけ離れた蔵の中。
奥に出すためのお茶や菓子が保管されている場所で、ここに入ることを許されているのは、侍女の中でも極一部の者だけであった。
そこに青柳とともに転がるようにして入ってきた伊茶は、誰の目もないのを確認した後、物陰に隠れるようにして身を潜めた。
「伊茶? 一体どうしたと言うのです?」
つられて身を潜めるあたり、この青柳の人の良さが分かるというものだ。
そんな彼女に対して伊茶はひそひそ声で言った。
「ねえ、青柳さん。聞いて欲しいことがあるのだけど…」
その一言で青柳は何かを察知したようだ。
慌てて首を横に振って答えた。
「もしかして淀殿に呼ばれたこと!? いけません! 奥でのお話を外に漏らすなど、大蔵卿に見つかったらそれこそ大変なことになりますよ!」
「そんなこと分かってるわ! でも私一人ではどうにもならないの…お願い! 話だけでも聞いてくれないかしら!」
手を合わせながら一生懸命に頼み込む伊茶。
すると青柳は降参したように首を横に振ると「話を聞くだけですよ」と念を押して答えた。
「ありがとう! 恩にきるわ!!」
目を輝かせて青柳の手をとる伊茶を見て、青柳は顔を真っ赤にさせている。
しかしそんな彼女の反応など気に留めることなく、伊茶は淀殿からの密命のことを話したのだった。
………
……
「なるほどね…それは困りましたね…」
まるで自分ごとのように困り果てた顔を見せる青柳。
一方の伊茶も話している最中から何度も「はぁ」と大きなため息をつきっ放しだった。
薄暗い蔵の中がより暗くなる。
しばらく二人の間に沈黙が流れた。
そこで先に重い沈黙を破ったのは青柳の方であった。
「ひとまず光様のことを知らねば何も手立てなど思い浮かばないのではないでしょうか」
無論ここで言う光とは、今回の秀頼の側室候補の女性のことである。
伊茶としても公家の娘ということくらいしか知らず、その顔はもちろんのこと、素性すら把握していないのだ。
「そうね…まずそこよね。でもどうやって知ったらいいのかしら…」
うーんと唸りながら再び考え込む二人。
すると青柳が何かを思いついたように口を開いた。
「そうだ! 頼長様なら何か知っているかもしれません。あの方は近頃京の公家の方々と仲が良いと耳にしましたゆえ」
「頼長様?」
一体誰のことか検討もつかない伊茶に対して、青柳は眉をひそめて答えた。
「伊茶は本当に世間知らずですね…頼長様と言えば、評定衆、織田有楽斎様の嫡子。織田頼長様に決まっているでしょう」
「でもそんな偉いお方に早々お話をうかがうことなんて出来るかしら?」
「ふふ、頼長様は誰にでも気さくなお方とうかがっております。大蔵卿の筆頭侍女である伊茶ならお話をするくらいのこと、全く問題ないと思いますよ」
伊茶はそれを聞いてほんの少しだけ光が射した気がした。
そして目の前で微笑みながらうなずいている青柳の手を再び取って言ったのだった。
「青柳さん! 本当にありがとう! あなたに相談して本当によかった。これからも力になってくれるかしら?」
伊茶のきらきらと輝く目を見ると妙に胸の動悸が早くなる青柳であったが、それでもなんとか平静を装って一つ注意を促した。
「う、うん! 分かったわ! 出来るだけの協力はするつもりよ。でも、一つだけ注意して欲しいことがあるの!」
「なにかしら?」
「このことは絶対に内緒よ! 万が一アノ人の耳にでも入ったりしたら…」
「アノ人? 誰のことかしら?」
「アノ人と言えば一人しかいないでしょう」
さも当然と言わんばかりの青柳に対して、一体全体誰のことだかさっぱり検討もつかない伊茶。
とは言え、いずれにせよこの事は信頼を置いている青柳以外に漏らすつもりなどない。
伊茶は明るい声で答えた。
「うん! 分かったわ! 今回の秀頼様の縁談を破談にする相談なんて、青柳さん以外に出来ないもの!」
さてこれでひとまず一歩踏み出せる。
伊茶も青柳もここに来た時よりは軽い足取りで蔵を後にしようとしたその時であった…
悪魔のような一言が背中から響いてきたのは…
「青柳ちゃん。アノ人って誰のことかしら?」
そのネットリとした口調に青柳が凍りつく。
一方の伊茶はその声にはっと反応して暗闇に向かって強い口調で言った。
「そこにいるのは誰!? ここは立ち入りが厳重に禁じられているところよ! 出てきなさい!」
すると黒い蔵の中から一人の女性がほんやりと浮かんできたのだった。
そしてその女性は何にもなかったかのように答えたのだった。
「あら? ここが立ち入り厳禁なら、あなたたちはどうしているのかしら?」
未だに誰なのか分からない伊茶は、その落ち着き払った口調に苛立ちを隠せずに言い返した。
「私は大蔵卿に許可をもらって、この蔵の中が荒らされていないか確認することが出来るのです! そもそもこの蔵は奥方様たちにお出しする菓子やお茶ばかりが置いてあるのですから!」
「ふふ、では私がその奥の一員であるならば問題ないということですね」
「えっ…!? あなたは一体…」
するとそこに一人の女性がはっきりとその姿を現したのであった。
「私は評定衆の一人、真田左衛門佐の側室。そして真田安房守が家臣、高梨内記の娘、名は蘭」
その堂々とした態度に圧倒された伊茶は口を半開きにしながらただ高梨内記の娘、蘭を見つめるより他なかった。
そして…
青柳がボソリと呟いたのであった。
「伊茶…彼女が『アノ人』です…」
とーー
とうとう高梨内記の娘に名前をつけました。
以後よろしくお願いします。




