【幕間】秋月のまじない⑥ 諦めない心
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永禄10年(1567年)9月10日ーー
まだ夜が明けるその前のこと。
全身傷だらけで秋月館に運ばれてきた恵利暢尭は昏睡の中、夢を見ていた。
それはあの岩山から筑前の景色を見つめている、そんなありふれた日常。
見慣れた街並みに、あくせく働く人々。花が咲き、小鳥がさえずっている。
そこには悠久の時の流れを感じさせるものだ。
そんな景色を暢尭は、目を細めながら見つめる。
まるで、街の踊り子を愛でるように。
それは美しい。
だが、儚い。
なぜなら踊り子は街から街へとうつろっていくものだから。
暢尭の夢の中のその景色もまた、そのことわりに違いなく、徐々にぼやけていく。
暢尭の心に焦りの色が浮かんだ。
――頼むから行かないでおくれ
そう声にはならない言葉を胸の内で発したその時…
ふと彼の横から風が吹き抜けた――
それはとても懐かしい風。常に彼の側にあり、彼を包んでいた風。
その風は溢れんばかりの情熱と、突き抜けるような野心を含んで、焼けるように熱い。
暢尭は、その風が通り過ぎた瞬間に目を丸くする。そして慌てて手を伸ばした。
しかし風は行く。
去りゆく踊り子を追いかけるようにしながら。
決して届くはずもないその踊り子の背中を追いかけて、風はどこまでも空高く吹きぬけていった。
その夢は、まるで何かとの訣別を意味したもの――
そこで、暢尭の目が覚めた。ふと周囲を見回せば、まだ暗い。それをもたらしているのは、未だ夜が明けていないことを示しているのか、降りしきる雨によるものなのかは、とっさに判断のつきにくいものであった。
その為、まだ人々は寝静まっている頃かもしれない。しかし、彼はとある使命感にかられて大声を上げた。
「殿は!? 殿はいかがしたのだ!!」
すると部屋の外から小姓と思われる少年の声が聞こえてきた。
「はっ! 殿はつい先ほど、兵を率いて大友軍の追撃に向かわれました!」
その言葉に暢尭は、ぐわりと眩暈を起こす。だが無意識のうちに次なる行動へと移そうと、きしむ体は彼を寝床から移した。
這いつくばるようにして部屋の外へと出てきた暢尭。
そんな彼を見て、先ほど返事をした小姓が目を丸くした。
「なりませぬ!惠利様! 無理をされては、折角塞がった傷がまた開いてしまいます!」
「ええい!黙れ!! わが身より殿の身を案じずしていかがすると言うのか!」
「しかし! しかし、殿は『こたびの追撃は必ずや成功し、戸次鑑連の首を持ちかえってこよう!』と、胸を張って城を出られました! であれば、何も心配をされる必要はございませぬ!」
「それは殿の慢心である! 満身創痍のわが軍がここで無理をすれば、後に必ずや大きな禍を生もう! 今の大事は戸次鑑連の首ではない!いかに秋月と筑前を守るか、その一点であることがどうして分からんのか!?」
一介の小姓にそう怒鳴りつけても何も変わらないし、仮に彼がその意見に同意したところで、秋月種実の復讐に燃える固い意志を曲げられるものではないことは、百も承知だ。
しかし、彼はその事を口に出してぶつけるより他に、彼の爆発した感情の行き先を見いだせないでいたのである。
彼は、なお城の外へ出ようと体を引きずる。
慌てふためく小姓であったが、あまりの暢尭の気迫に、ただ「お部屋にお戻りくだされ!」と声をかけるだけで、近づくことすらかなわない。
一歩、また一歩とゆっくりと城の玄関まで進んでいく暢尭。気付けば着物の内側からじんわりと赤いものが浮かんできた。恐らく逆上したことで、傷のいくつかが開いてしまったのだろう。それでも痛みに耐え、彼は一点目がけて足を前へと動かし続けたのである。
――殿… 行かないでくだされ… それがしを置いていかないでくだされ…
心で悲痛の叫び声をあげるが、その表情はさながら夜叉のよう。
そう…この時、秋月種実が大友軍と戦っていたように、彼もまた戦っていたのである。
主君であり親友の種実が、この秋月の地で笑っている未来を守る為に…
それが彼の『夢』なのだから…
いつの間にか、城の外に出ていた。
降りしきる雨にうたれ、跳ね返る泥をかぶりながら、彼は一歩ずつ秋月の地を進んでいく。
しかし彼の気持ちとは裏腹に、脆い人の体は、すでに限界を迎えていた。多くの傷が開いたせいか、それとも極度の疲れによるせいか、暢尭の意識は朦朧となる。
それでも彼はつぶやく。
――負けるな! 這い上がれ!
と。
それはあの岩山の側までやってきたその時だった。ついに彼の力は尽き、岩にもたれかかるようにして座りこんでしまったのである。
――もはやここまでか…
そう心の中でつぶやき、天を仰いだ。
分厚い雲が朝日をふさぎ、もう明るくなってもおかしくない頃合いだというのに、辺りはさながら真夜中のように暗闇に覆われている。
それはまるで秋月の未来を表しているようにしか思えない自分が悔しい。
ところがもう既に悔恨の叫び声をあげることも、悲哀の涙を流すことも、彼の体は許さないほどに衰弱しきっていた。
そしてついに彼はその意識を飛ばしてしまった。
次に彼が目を覚ましたその頃には、すっかり雨はあがっていた。どうやら気を失っていた彼は、大友軍への夜襲から凱旋してきた秋月種実によって発見され、城まで運ばれてきたらしい。
そして城の中は、すっかり晴れ上がった外の景色に呼応するように、自軍の大勝によって盆と正月が同時にやってきた程に沸きかえっていた。
その勝利によってもたらされたのは、大友軍の名だたる将の首。その中には戸次鑑連の弟や叔父、さらに側近たちも含まれていた。
肝心の鑑連の首は含まれてはいなかったが、流石の鑑連としても、秋月軍の猛攻をしのぐのが精一杯であったと言う。
しかし、そんな城内にあって暢尭だけは一人、暗い表情のままであった。
――これで秋月は再び茨の道を歩まねばならぬ…
そのように彼は予感していたのである。
そして…
そんな彼の懸念は、数年後には現実のものとなってしまった…
ーー雷神、雪辱に現る…
先の一戦で完全に消耗しきった秋月軍に、もはや大友軍の再戦に挑む余力は残っていなかった。
そして…
秋月種実は大友宗麟に再び屈したのだった。
………
……
再び訪れた、泥をすする臥薪嘗胆の日々。
反乱を恐れた大友宗麟は、秋月の地こそ種実から取り上げることはしなかったが、その軍備が増強されぬように、その知行は最低限しか与えることはなかった。
さらに、種実にとっては悪いことに、筑前の反乱を抑える名目のもと、戸次鑑連に筑前の名門立花家の家督を継がせ(すなわちこれ以降は立花道雪)、筑前の守護に彼があたることになったのである。
家族と仲間を奪い去った相手に頭を下げるその時がついに訪れてしまった。
あまりの屈辱に、目を真っ赤に腫らしたのは、一度や二度ではない。
人は肉体を傷つけられるよりも、精神を踏みにじられた方が、大きな苦痛を伴うもの。
それは盟友である毛利家に匿われていた頃よりも、憎き立花道雪の膝もとで過ごさねばならぬこの頃の方が、さながら茨の道を素足で歩くほどに苦痛を伴ったものであったことは言うまでもないだろう。
それでも秋月種実と惠利暢尭、それに秋月の人々は耐え忍んだ。
壊滅的になった軍を立てなおす為に、少ない碌を寄せ集め、こつこつと城と軍備を整え続けた。
――負けるな! 這い上がれ!!
その言葉を幾度唱えたことだろう。
見果てぬ『夢』をどれだけ見てきたことだろう。
そうして、実に九年が過ぎたその日…
すなわち天正6年(1578年) 11月――
ついにその日はやってきた。
――大友軍、日向国高城川にて島津義久に完敗! 多くの将が戦死!
という一報が九州全土に走ったのだ。
後世に言う「耳川の合戦」により、島津軍に叩きのめされた大友軍は、これ以降、九州での影響力を一気に低下させていく。
そして…
再び、秋月種実は立ち上がった――
彼は古処山城にて反抗の狼煙を高々と上げると、龍造寺隆信らもそれに呼応し、反大友の気勢が一気に上がる。
「秋月はどんなに屈辱にまみれようとも、決して諦めぬ!! 何度でも這い上がって見せる!! これが筑前の魂だ!!」
――オオオオオオッ!!
最初に秋月を奪還してから、実に十年以上も経つ。何度も踏みにじられながら、秋月は…筑前は強くなった。
この強さに対して大友宗麟は、かつてのように圧倒的な力でそれを封じることは出来ない。
ここに完全にその立場は逆転した。
『雷神』立花道雪は、同胞の高橋紹運とともにこれを何とか抑えようと必死になった。しかし、九年の歳月をもって温め続けた末に羽ばたいた大鷹の如き秋月の勢いを止められず、じわじわとその戦線を後退させざるを得なかった。
こうして秋月軍は、秋月にその確固たる地盤を固めると、一気にその勢力を筑前全体へと伸ばしていく。
それはまさに破竹の勢いであった。
そんな中にあって、いつでも先頭にたつ秋月種実はまさに戦神の如き無類の強さを誇り、その一方で惠利暢尭は、そんな彼を財政から外交に至るまで、細部に渡って影から支え続けた。
この頃の種実の唯一の心残りと言えば、長年の宿敵である『雷神』立花道雪が病に倒れ、その命を落としたこと。しかしそれは裏を返せば、立ちはだかる壁が一枚崩れ落ちたことを意味していたのは言うまでもない。こうなると秋月の勢いはもはや大友の手に負えるものでは到底なくなった。
そしてついに…
秋月が大友を完全に凌駕する一戦が起こる。
その舞台は博多を守る要、岩屋城。その城を秋月軍は島津軍とともに攻めたのである。
この戦いに勝利したのは、言わずもがな秋月と島津の連合軍。この勝利の意味は、博多の実質的な制圧という事以上に大きな意味を持っていた。
すなわち、敗れた大友軍は、立花道雪とともに『大友の双璧』とも言える、名将高橋紹運を失ったのだ。こうして両翼を失った大友軍にもはや滅亡の一途より他に残された道はなくなってしまったのである。
こうして秋月軍はこの瞬間から最盛期を迎えることになる。なんと彼らの所領は、筑前はもとより筑後、豊前におよび、その石高はなんと三十六万石にまで広がったのであった――
◇◇
ここまで話し終えて、一旦話しを切った惣右衛門。彼はちらりと真正面に座る毛利マセンシアの顔を覗いた。
その視線に気づいた彼女は、ニコリと彼に微笑みかけると、彼の思っていることをずばりと言い当てる。
「ふふ、惣右衛門殿は、わらわの父上、大友宗麟公がまるで悪者のようにお話しになられていることを気にされているのでしょう?」
「い、いえ… それは…」
そう言いよどむ惣右衛門に対して、マセンシアは笑顔のままで断言した。
「よいのですよ。わらわは父上の事は良くは思っておりませんでしたので」
あまりにあっさりと衝撃的な事をさらりと告げられて、目を丸くした惣右衛門。そんな彼に対してマセンシアは変わらぬ口調で続けた。
「今はわらわの気持ちなど、どうでもよいことです。それより先を続けてくださいな。惣右衛門殿がこの地を何としても後世に残したいとお考えになられているのは、このお話しにまだ続きがあるからなのでしょう?」
そう促された惣右衛門は、ゴホンと咳払いをして姿勢をただすと、話しの続きを口にし出したのだった。
「もはや誰の手にも止めることはかなわない秋月軍。そんな彼らの前に、一人のお方が姿を現すことになるのです。そしてそのお方の出現により、秋月種実殿と惠利暢尭殿の運命は大きく変わります。そのお方こそ…」
その言葉の後を継ぐように、マセンシアが口を開いた。
「太閤殿下… すなわち関白、豊臣秀吉公でございますね」
と…




