【幕間】秋月のまじない② 決意と復讐心
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弘治3年(1557年)――
秋月の街はこのところ緊迫した空気に包まれていた。
それはこの地を治める秋月文種が、大きな決断を下したことから端を発したのである。
――わが秋月は、大友を見限り、毛利につく!
という決断であった。
なおこの秋月という地は、遥か鎌倉の頃より、九州北部における要衝として非常に重要な位置にあった。
なぜならその地は言わずと知れた経済の中心、博多からほど近い地であるからだ。
仮に博多をその手に収めたとしても、秋月から睨まれればひとたまりもない。逆に博多と秋月の二つを抑えておけば、九州の東西南北の全方位に睨みをきかせることがかなうのだ。
その要衝の地にあって秋月家はこれまで巧みに乱世を渡り歩いてきたといっても良いだろう。
もとより秋月という家名は九州の名門の豪族であり、古くは蒙古襲来の頃に活躍した一族だ。霊峰、古処山を開きそこに古処山城を築くと、彼らはその難攻不落の城に頼って有力大名たちと対等に競い合ってきた。
しかしそんな中にあって彼らを襲った青天の霹靂とも言える出来ごとが、この頃の中国地方と北九州地方に絶大なる勢力を誇っていた大内義隆の死。つまり下剋上の世の象徴とも言える、陶隆房の謀反であった。
これにより大内氏の北九州地方における影響力が低下すると、代わって大友氏がその手を九州東部から伸ばしてきた。その為、元より大内氏の庇護のもとにあった秋月氏は流れるようにして大友氏の傘下に加わることを余儀なくされてしまった。
ところがその降参は、信義にもとづくものではなかったのは言うまでもないだろう。
彼らは博多の奪還を目指して九州地方へと進出を図っていた毛利元就に呼応する形で、大友からの離反、そして念願の独立を図ったのであった。
しかし…
その変心をそうそう見過ごすほどに、当時の大友氏の当主、大友義鎮は甘くはなかった。
彼はとある男を秋月討伐に派遣することに決めたのである。
その男とは…
『雷神』戸次鑑連、後の立花道雪――
彼は、まさに『雷神』の名に相応しい程に戦場では無双の働きを示していた。
そしてこの時、大友氏と激しい戦を繰り広げていた毛利氏ですら、そのあまりに強さに畏怖し、遠く離れた甲斐国からは武田信玄がその強さに惚れこんでいたという逸話すら残されている。
そんな無敵の戸次鑑連が、なんと二万の大軍をもって秋月文種の籠る古処山城を攻めてくるとの一報が秋月の地に舞い込んできたのは、その年の夏を目前に控えた頃のことであった。
――今からでも遅くありません!大友に降参いたしましょう!
――何を言うか!いちど振り上げた拳を、早々に降ろすなど、武士のすることではない!
――毛利は!? 毛利元就に救援を頼みましょう!
――毛利は周防で手いっぱい… もう救援は見込めまい…
そんな風に城内の意見は割れ、さらに見込めぬ救援に悲壮感すら漂う状況に陥っていく。
しかしその中にあって秋月文種は、皆を大きな声で励まし続けた。
「負けるな! 這い上がれ! その意気をもってぶつかれば必ずや天は味方するであろう!!」
と…
この時わずか十三歳の秋月種実、そして八歳の惠利暢尭も固唾を飲んで城に籠っていた。しかし彼らはまだ幼く時勢など分かるはずもない。その為、文種の「負けるな! 這い上がれ!」の言葉を信じて、幼心にも大友軍に一矢報いらんと、その目を光らせていたのであった。
ところが…
気合いだけで戦況が変わるものなど到底ないのは、古来から続く歴史の示す通り。
秋月家はその支城を次々と落とされていくと、ついには城下町はおろか秋月館すら大友軍の進撃に占拠されてしまったのである。
こうなると残りは難攻不落とうたわれた古処山城のみ…
既に脱走兵は後を絶たず、城に残ったのはわずかな者たちだけだ。
ここまで来れば流石の幼い種実にも、秋月の命運が風前の灯であることは、頭よりも心から沸き上がる不安や恐怖といった感情によって理解できた。
城から見下ろすその眼下には、いつもなら秋月ののどかな風景が広がっているはずだが、この時ばかりは大友軍であることを表す旗印ばかり。
夜になっても馬のいななく声や、時折上がる鬨の声に、普段からわんぱくであった彼も眠れぬ日々を過ごしていたのである。
それでも彼はまじないを唱え続けていた。
「負けない! 這い上がれ!」
しかし、そのまじないはついに天に届くことはなかった…
突如として雷を落としたようなかけ声が山の麓から、なんと城内までこだましてきたのである。
「全軍!!! 突撃せよ!!! えいとう!!」
――えいとうっ!!
それは戸次鑑連の総攻撃の大号令であった。
すでに三の丸を破られ、残るは二の丸と本丸へ続く大手門のみ。
虎口では種実の兄で、秋月家の嫡男、秋月晴種が必死に防衛していたが、それが破られるのは時間の問題であった。
まるで濁流のような大軍が押し寄せてくる様子が、城の窓からもはっきりと分かる。
あれに飲み込まれたら最後、ありとあらゆる生き物を『死』へと追い込む、言わば死神の進軍。
この頃になると、種実の心にはもはや恐怖だとか不安だとかいう感情はなかった。そこにあるのはただ「憎い」という感情。その向け先はおのずから戸次鑑連その人にのみ。
「黒法師様! 危のうございます! 城の奥へとお入りくだされ!」
誰からともなくそう促された種実であったが、彼はなかなか窓際からどこうとはしなかったのだった。
そしてついにその時はやってきた。
――二の丸陥落!! 晴種殿は無念の自刃!!
という悲劇的な一報が本丸に届くと、まさに万事休す。いよいよ降伏か討死かの二者より他残されていないところまで、秋月軍は追い込まれてしまったのだった。
しかしここまで来れば、たとえ降参したところで、当主の秋月文種はおろか、その一族郎党は女子供関係なく誅殺されることは火を見るより明らかであった。
秋月家の滅亡ーー
それは既に決定的と誰もが思っていた。
ただ一人を除いて…
その一人とは…
秋月家当主、秋月文種であった。
「負けるな! 這い上がれ!! この言葉を胸に秘め生き抜け、よいな」
秋月文種はそう息子の種実に優しくも強く語りかけた。そして彼の側にいる惠利暢尭にも、そっと肩に手を乗せて言った。
「黒法師を… 息子を頼んだぞ」
その言葉は二人に向けた今生の別れを表すもの。しかしその想いをくみ取るには、種実も暢尭も若すぎた。
二人の少年は、主君である文種から激励の言葉をかけられたことで、何らかの命令が下されるものと、小さいながら勇気を振り絞ってその時を待っていたのだった。
そして絶望的な状況は全く変わらないまま、陽が落ちた。
戸次軍の猛攻は一旦中止されると、秋月軍にとっては「最後の夜」を迎えたのである。
こんな状況であっても少年の体というのは素直なもので、種実らはぐっすりと寝ている。
そんな真夜中のことであった…
「んぐっ!?」
突然、種実は何者かによって口を塞がれたかと思うと、その者の肩の上にひょいと持ち上げられたのだ。
寝ぼけた種実の反応が遅れる。すると彼を担いだ男の足は一気に加速していった。
どうやら手ぬぐいのような布で口を塞がれているようで声は全く出せない。そしていつの間にか城の外へと運び出されていった。そして寝静まる戸次軍の間を縫うようにして進んでいくと、いよいよ城外へと続く「黒門」と呼ばれている大きな門が近づいてくるではないか。
この時には当然のように種実は自分のことを城から脱出させようとしている意志に気付いていた。
しかし未だ城の中には多くの兵がいる。自分の世話をしてくれた小姓もいる。そして何よりも父がいる…
種実は必死になってその腕をほどこうと暴れた。しかし、まだまだ子供の彼に屈強な秋月兵の太い腕がほどかれるものではない。
悔しくて、悔しくて、自然と涙が溢れて来る。
優しかった父と、死んでいった兄の笑顔が浮かぶと、その涙が滝のように流れ落ちる。
見慣れた秋月の街並みが、涙にかすれた視界におぼろげに浮かんでは過ぎ去っていく。
そして…
あの大きな石… 自分なら何でも出来ると『夢』を見たその石の前を通り過ぎるその時…
――ふわり…
と、口を塞いでいた布が取れた。
しかし彼を担ぐその手はゆるまず、足はむしろどんどんと早くなっていく。
まさに石の横を通り過ぎようとしたその瞬間…
秋月種実は叫んだ。
「負けるな! 這い上がれ!! 俺は必ずや秋月の地に戻ってみせる!!」
と――
弘治3年(1557年)7月12日。
古処山城は大友の手に落ちた。
そして、同日。秋月家当主、秋月文種は無念の死を遂げた。
秋月種実、惠利暢尭をはじめとしたわずか数名の秋月家の者だけは、その難を逃れ、遠い周防の地…すなわち毛利元就のもとへと逃げ伸びていったのであった。
この時わずか十三歳の秋月種実は、二つのことを強く心に刻んだ。
それは、
「必ずや秋月に戻ってみせる!!」
という強い決意と、
「戸次鑑連… あやつだけは絶対に許さん!!」
という強烈な復讐心…
………
……
時は流れてそれは永禄4年(1561年)――
秋月の街に一つの声が帰ってきた。
しかし、その声の持ち主は、かつてのわんぱくを絵に描いたような少年などではない。
それは誰がどこから見ても立派な若武者。
その若武者が、天をも震わすような大声で三千の兵に大号令をかけたのであった。
「負けるな! 這い上がれ!! なんとしても秋月を我が手に戻すのだ!! みなのもの!!!突撃!!」
――ウォォォォォ!!!
地響きのような雄たけびとともに、一斉に兵たちが古処山城へとなだれ込んでいった。
そう…
その大号令をかけた若武者こそ…
秋月種実。
全てを取り戻す為、そして憎き立花道雪を討ち果たす為…
彼は地獄の底から這い上がってきたのであった――




