秀頼の盾② 次なる一手
◇◇
――パチリ
高野山の麓の寒村に、乾いた碁石を置く音が今日も響いている。
その村の外れにある大きいが見た目からして貧しさの分かる屋敷の中は、いつも通りの光景が朝から繰り広げられていた。
…と言っても、それは何のこともない。
二人の老人…真田昌幸と高梨内記が碁盤を挟んで相対し、そこから少し離れたところに一人の少女、吉岡杏が静かにその対局を見守っている、そんなのどかな光景なのだから。
――パチリ
また一つ音が響いたその時、二人の老人のうちの高梨内記が口を開いた。
「とうとう越前卿が逝かれてしまいましたなぁ」
――パチリ
独り言には大きすぎるその声に、片割れの老人、真田昌幸が眉をひそめて、相手を睨む。
「はん! どいつもこいつも生き急ぎおって… つまらんのう!」
――パチリ
「しかし、佐助の話しによれば、越前藩が『徳川派』と『豊臣派』で割れるのは時間の問題と…これは豊臣家にとっては大きな痛手ですなぁ」
――パチリ
「はん!のんきを装うのが下手だのう!お主は! 内心びくびくしているのであろう!? せっかく孫が生まれたというのに、その腕に抱くこともかなわなかったら、おちおちあの世に行くこともかなわんからのう!」
――パチリ!!
「これは、したり!!殿には何でもお見通しなようじゃ!はははっ…
…んで、わしが可愛い孫をこの腕に抱くには、いかがしたらよろしいのでしょう?」
――パチリ!!
「はん! その顔を見てもいないのに、『可愛い』などとよくぞ言えたものだ! しかしまぁ、その点は安心せい!源二郎が父親ということであれば、わしに似ておるはずだからのう!」
――…パチリ
「…そ、そうですな… して、殿。いかにすればその『可愛い孫』をわしはこの腕に抱くことが出来るのでしょうか…?」
――パチリ
「カカカ! それは諦めよ!このままでは、お主が孫を抱くことはないであろう!カカカ!」
そう真田昌幸が豪快に笑い飛ばすと、高梨内記と、部屋の隅に座っている吉岡杏の目が丸くなる。
その様子に真田昌幸は眉をひそめた。
「おい!どうした!?手が止まっておるぞ!早く次の一手を打て」
「いやいや!殿!それどころではございませぬ!一体なぜわしが可愛い孫をこの腕に抱くことがかなわぬのか、その理由をお聞かせくだされ!」
その手を止めてなおも食い下がる高梨内記に対して、真田昌幸はいぶかしい顔のままに「はぁ」とため息をつくと、めんどくさそうに言った。
「次の一手がなければ『詰み』…すなわち負けじゃ」
「いやいや!殿!今は碁よりも大事な話しをしておるのです!次の一手はそれからですぞ!」
「はん!!勘違いするでない!!わしが言っておるのは、お主との碁のことなどではないわ!
豊臣が次なる一手をうたねば、これにて投了…すなわち大坂城は徳川の手に落ちると言っておるのじゃ!」
その昌幸の言葉に、内記と杏の顔が青ざめる。
二人はそこまで事態がひっ迫しているとは、露にも思っていなかったからだ。
しかし昌幸は、さも当たり前のように続けたのだった。
「はん!ただでさえ東山道も東海道も固められているのだ。
その上、北陸道を抑えられたら、もう江戸に攻め入ることは出来ぬではないか!」
「な…なんと… 殿は未だに豊臣が江戸を攻め落とすことをお考えでしたか…」
「おいっ!とぼけるのはその顔だけで十分じゃ!」
昌幸の痛烈な一言に、普段は温厚な内記もむっとしたものを顔に浮かべる。
「これは手厳しいですな。しかしどうしてそれがしがとぼけているとお考えなのですか?」
そう問いかける内記に対して、ギロリと昌幸は睨みつける。そしてどこか諦めたかのように肩の力を抜いて答えた。
「お主はまだ『夢』を見ているのであろう…徳川と豊臣が仲良く手を取り合う世を…」
「はて…? それは世間の皆が願っていることではございませんか…?」
「はん!だからとぼけるなと言っておるのだ!仮にもこの真田安房守の家中の人を称するならば、世間なぞに惑わされずに正しく世の動きを見定めよ!このたわけが!
おいっ!杏!お主の口から言ってやれ!
この後、徳川と豊臣に待ち受ける未来のことを!」
急に話しを振られた杏は、一瞬だけきょとんとしたが、すぐに表情を引き締め直した。
昌幸の口からここまで多くが出ていれば、例え杏でなくとも、おのずと答えは出るというものだろう。
彼女は慎重に言葉を選びながら答えた。
「…すなわち、両雄並び立たず。いずれかが倒れるまでその対峙は続く…と」
その答えに昌幸はニヤリと口角を上げる。そして引き続き杏に対して問いかけた。
「しかし既に情勢は決まりつつある。否!既に決したと言っても、誰もが頷くであろう。
この状況…豊臣は持って何年と見る?」
「…三年…」
「はん!もしわしが徳川家康なら三年で型をつけてくれよう!しかしあれほど亀のようにその歩みを進めてきた狸が、ここにきてそう急くとは思えん!
自身の命のともしびが切れるまでと、跡継ぎの背丈が伸び切るぎりぎりまでは動かんよ」
「…では…十年…」
「否! 五年と十年の間!わしはそう見た」
「おお!それだけあれば、それがしは可愛い孫の顔を…」
そう言いかけた内記の事など見向きもせずに昌幸は続けた。
「その間…徳川は豊臣の翼の羽を一本一本抜いていくだろうな… いかに秀頼公がその痛みにもがき苦しみ、泣け叫ぼうとも…」
その口調と内容があまりに冷酷で、まだ見ぬ孫の事を思って顔を綻ばせていた内記は、まるで氷水でも浴びせられたように顔を青白くさせる。それは杏も同じであった。
「それをさせぬには、いかがしたらよろしいのでしょう…」
思わず内記は漏らすように昌幸に問いかけると、彼はいら立った声で返した。
「だから何度も言っておるであろう! とにかく次なる一手を打ち続けることじゃ!
羽を抜こうとするなら、捕まらぬように、その翼をはばたかせ続けるより他あるまい!
おいっ!杏!!
この耄碌した老いぼれに聞かせてやれ!!次打つべき豊臣の一手とはなんじゃ!?」
肝心なところを自分で話そうとしないのは、昌幸なりに吉岡杏という一人の『弟子』への指導のつもりなのかもしれない。そのように杏は受け止めて、口をきゅっと結ぶと少し考え込んだ。
そして…
彼女は伏せていた顔を上げると、色白の頬をわずかに紅潮させて、はっきりとした口調で答えたのだった。
「大坂より江戸への攻め口の確保にございます」
「それではこの呆け老人には分からん!もっと分かりやすく説明せよ!」
傍から聞けば散々な言われようの高梨内記であったが、その事よりも今は杏が懸命に答えようとしている事を、はらはらしながら見守っている。それはさながら自分の孫娘を見守るような心境であった。
「はい… では、申し上げます。元より東においては、東山道に東海道の二つとも徳川の強く防備を固めており、言わば盤石でございます。
その上こたびの越前卿のご逝去。これにより徳川は北…すなわち北陸道も抑えることでしょう」
「…となれば…」
ごくりと内記が唾を飲み込む音が響く。昌幸は口元を緩め、杏は眼光を鋭くした。
そして杏はゆっくりと言い放ったのである。
「残るは南…」
――ククク… カカカカカッ!!!
杏の一言を聞いた瞬間に昌幸は腹を抱えて大笑いしだした。その様子に内記は目を丸くしたが、杏の鋭い眼光は変わらない。
そしてしばらくその様子が続くと、昌幸は愉快そうな顔のままに口を開いた。
「よいっ!よいぞ!杏! では、仮に南を攻め口に選んだならば… 豊臣は何をする? まさか兵を動かすとは言わんだろうな?」
その問いかけに杏は即答した。
「いつでも紀州から海路を用いて江戸に進軍可能である事を示します。 …そうですね…わらわなら大量の船を紀州の港に停泊させましょう」
とても可憐なうら若き女性とは思えないほどの大胆な策に、内記はもはや言葉を失い、穴が開くほど彼女の顔を見つめている。
一方の昌幸はますます愉快そうに笑った。
「カカカ!よい!よいが、それでは足りんぞ! もう一手打ってみせよ!以前に言ったであろう。策というのは二の手が肝要!杏の二の手を示してみせよ!」
すると杏は何かに気付いたのだろうか。思わずクスッと笑うと、再びもとの真剣な表情に戻して答えた。
「とあるお方がなおも健在であること、そしてそのお方と豊臣が蜜月な関係である事を、隠れもせずに堂々と示すでしょう」
その言葉に満足そうに昌幸は顔をニヤつかせる。
しかし内記は不思議そうに「とあるお方とはどなたのことでしょう?」と杏に訊いた。
その質問に彼女が答えようとするが、昌幸は「それくらい考えさせよ!まったく…」とそれを制する。
そして昌幸は外の方に視線をやってつぶやくように言ったのだった。
「さて、源二郎! もはや後に引く事も、足踏みすることも許されんぞ! お主の肝っ玉を、このわしに見せよ!」
もうすぐ長雨の季節というのに、この日はからりと乾いた晴れの日。
その陽射しに負けないくらいに情熱的な視線を、真田昌幸は高い空に向けていたのであった。
そして…
その父の熱い期待に、真田幸村は見事に応えることになる。
………
……
それは、慶長12年(1607年)5月2日――
紀州和歌山城の謁見の間にて、紀州藩藩主浅野幸長は彼の側近とともにこの日の客人を待っていた。
いつもは豪放な性格そのままに着物などは着崩している彼であったが、この日はどこか緊張の面持ちで、なんと半刻(約1時間)も前から端然と座してその相手を待っている。
そしていよいよその客人が城に到着した。
その客人とは…
豊臣秀頼――
「豊臣右府様がお見えになりました!!」
部屋の外から案内役の小姓の大きな声とともに、浅野幸長とその側近たちが一斉に頭を下げる。
そして、大きく開かれた襖から豊臣秀頼が胸を張って部屋に入ってきた。
その背後には、側近の真田幸村だけではなく、『豊臣七星』のうち堀内氏善、大谷吉治、桂広繁の姿もあった。
秀頼の顔には従来の無邪気な笑みはなく、厳しさすら感じるほどの緊張感をまとっている。
そしてその服装も年頃の少年を感じさせるようなものではなく、れっきとした「豊臣家当主」を感じさせる折り目正しいものであった。
それは、純白な袴に、上掛けは鮮やかな青。いずれもところどころにかつての太閤秀吉が好んだ金色の刺繍がほどこされれており、きらきらと眩しく輝いている。
神々しさすら感じるようなその姿は、わずか一年前の傀儡であった少年とは思えぬほどの威厳であり、浅野幸長だけではなく周囲の人々も内心で感嘆の声を上げていたのであった。
そして秀頼は上座に腰を下ろすと、空気を震わせるような声で言った。
「浅野紀伊守よ! 丁寧な迎え入れ、実に大儀であった!」
「ははーっ!!」
仰々しいとも思えるほどの大声で浅野幸長は答えた。それは秀頼から放たれた威厳がそうさせたと言っても過言ではないだろう。
その返事が終わるや否や、秀頼は穏やかに声をかけた。
「頭を上げよ、紀伊守。では、早速始めようではないか」
「はっ!」
短く返事をした浅野幸長が顔を上げた様子を見て、彼の重臣たちも一斉に顔を上げる。
そして秀頼が再び口を開いた。
「こたびの豊臣、浅野の両家の会談について、真田左衛門佐よりその趣旨を述べさせる。幸村よ、説明いたせ」
「はっ!」
名前を呼ばれて、つつっと膝を進める真田幸村。その表情はいつにも増して固く、どこか彼の決意のほどをうかがわせるものだった。
そして彼は意外なことを口にしたのであった。
「申し上げる前に秀頼様、一つよろしいでしょうか?」
「なんだ? 申してみよ」
「はっ! ありがたき幸せにございます!こたびの会談にあたり、浅野紀伊守殿の了承のもと、この場にご意見番を招くことをお許しくだされ」
「ご意見番だと?」
秀頼はそう眉をひそめた。しかし幸村の真剣な面持ちからは、その事が重要な意味を持っていることをうかがわせる。
「うむ、よかろう。ではそのご意見番とやらをこの場に通せ」
「はっ!」
声の調子を上げて返事をした幸村は、ちらりと浅野幸長の方に目を向けると、二人してコクリとうなずく。
そして、今度は幸長の方が大きな声を部屋の外に向けて発した。
「お通ししろ!!」
「ははっ!!」
部屋の外に待機している小姓の返事が襖の外から響くと同時に、その襖がスッと開けられた。
そしてそこにいる人物を見て、秀頼は目を丸くしたのであった。
その人物とは…
「真田安房守昌幸!! お呼びに応じ、馳せ参じました!!」
「同じく吉岡杏にございます!!」
そう…
『表裏比興の者』と呼ばれ、徳川に二度勝った智将、真田昌幸。
そして、島津を手玉にとった女丈夫、妙林尼の孫にして今や真田昌幸の一番弟子、吉岡杏。
真田幸村と浅野幸長がこの場に招へいしたのは、この二人であった――
これこそ『秀頼の盾』、真田幸村が打った「次なる一手」。
すなわち豊臣、浅野の会談が始まったのだった。




