弟よ!幸あれ!㊹天空舞う鷹は気高く笑う(1)
◇◇
慶長12年(1607年)1月5日――
ようやく新年の目の回るような忙しい日々も一息つこうかというこの頃、豊臣家にとって、いや天下の行方を占う意味においても、非常に大きな「うねり」が巻き起ろうとしていた。
それは…
徳川、豊臣、結城の三家会談――
後世の史実には全く残っていない、まさに歴史を揺るがす会談が来月に催される事が決まったのだ。
もちろんそのきっかけとなったのは、結城秀康による豊国神社参拝の噂がおおやけにされた事であろうことは明らかだ。
それは昨年末に、結城秀康が正三位の内定の際に、彼自ら京に上り、正式に五摂家に饗応を申し入れたことで、京の人々に一気に広まっていった。
この時はまだ「越前卿は豊国神社への参拝を強行するのではないか」という憶測だけが飛び交う、言わば噂の域を出なかったわけだが、それが単なる噂ではなく確固たる真実に変わるのは、もはや時間の問題だったのである。
この状況にいよいよ動き出したのは、大御所徳川家康。事態を重くみた家康は、まずは結城秀康側に使者を送り、豊国神社参拝を取りやめるように促したのだが、当然のように彼がそれを聞き入れることはなかった。
しかしこのままいたずらに状況を静観する訳にもいかない家康は、ついに「三家会談」へと踏み切ることを決断したのであった。
開催の日付は、今からちょうど1カ月先の2月5日。場所は伏見にある越前屋敷で実施される事が決まった。
徳川家と結城家からは誰が出席する予定なのかまでは、俺、豊臣秀頼には知らされていない。しかし、その開催を知らせる書状には、徳川家康と結城秀康の二人の出席は確定している事と、豊臣家当主である俺の出席を強く希望する事が書かれていた。
「ついにこの時が来たか…!」
俺はその書状を手にしながら、ゴクリと唾を飲み込むと、それを隣に座っている真田幸村に手渡した。
それにさらりと目を通した幸村だったが、相変わらず表情は穏やかそのもので、その胸の内は全く分からない。
それでも普段よりわずかに声の調子が強いことから、彼も少なからず興奮しているように思えた。
「して…秀頼様はいかがされるのでしょうか」
「ふん!決まっておろう!もちろん出る!その時は、お主も連れてまいるぞ!」
そう鼻息を荒くしながら立ちあがっている俺に対して、幸村は変わらぬ柔らかな視線を俺に向けている。
もっと興奮してくれても良いものを…と、俺はことのほか冷めている幸村に対して眉をしかめると、彼は表情をきりっと引き締めた。
そして、至って冷静に、ゆったりとした口調で俺に問いかけてきたのであった。
「この会談…確かに後世に残る会談なのでしょうか?」
と…
この問いかけに俺の燃え上がった心は途端に鎮火し、それどころか体の隅々に冷たいものが走りだしたのである。
もちろんその答えは「後世に会談の事は残っていない」となる。それは同時に「この会談は行われなかった」という事と同意義と言っても過言ではないだろう。
なぜなら、徳川家康と豊臣秀頼の直接会談が存在したならば、後世にその様子が残らない訳がないからで、しかもそこに家康の息子である結城秀康が絡んでいるとなればなおさらの話しだ。
もちろんその事を俺は口にする事が出来ない。
しかし、あれほど鼻息を荒くしていた俺が、凍りついたように固まってしまったのだから、その答えは口にしなくても幸村には十分に伝わったようだ。
「つまり… この会談は後世では『実現しなかった』ことになっている…ということでございますね」
俺はなおも何も口に出すことがかなわない。しかしそれは決して口には出せない事を口に出してしまう恐れがあるから、という理由だけではない。幸村の話しの流れの行きつくところが、想像の通りであれば、恐ろしくて思わず口が閉じてしまったのだ。
そんな俺の様子を覚ってか、幸村は俺の言葉を待たずに話しを続けた。
「もし、『実現しなかった』とするならば、その理由は何でしょうか… 最も分かりやすい事としては…」
そこで一旦話しを切る幸村。俺は相変わらず彼の事を凝視して、顔を青くしている。
しかし彼は淡々とした口調のまま、その先を告げたのだった…
「会談を催した者が、何らかの理由で参加不能となってしまった…とか」
「会談を催した者…」
「ええ… 言うまでもなく、越前卿…」
――ゾクリッ!!
この幸村の平坦な言葉を耳にした瞬間に、電撃のような悪寒が俺の背中を一直線に駆けていった。その瞬間に全身の力が抜けると、へたれ込むようにしてその場に着座する。
その様子は他人から見ればあまりにも不自然なものであろう。
しかし、「未来を知る人」という俺の正体を知る幸村にとっては、その反応で多くの事を察したようであった。
そして俺の耳元で、一層声の調子を落としてつぶやくようにして言ったのであった。
「…越前卿の身に近々何かある…そういうことでございますね…」
俺はうなずくことも首を横に振る事もかなわない。胸の鼓動は「ドンドン」と叩きつけるように早くなり、それに合わせて汗が噴き出す。
俺はただ、したたり落ちる汗をぬぐうことしか出来なかった。そんな俺の様子に、心配そうな視線を向けた幸村は、
「しかし秀頼様、ご安心くださいませ。年末より越前卿は伏見に入られておりますが、その周辺は佐助や才蔵に見張らせております。彼らの目があれば、そう易々と何者かに害される事はございますまい」
と声の調子を元の穏やかなものに戻して言ったのだった。
その言葉でようやく少しずつ動悸がおさまってくると、言葉が喉からこぼれるようにして出てきた。
「とにかく、兄上の無事を… どうか…」
急に押し寄せた大波の後の引潮のように冷静になっていくと、そこに残ったのは大きな不安ばかり。
その不安は振りほどくことの出来ない鎖となって、俺の心を締めつけ始める。
息が苦しい…
どうにもならない『歴史の歯車』の回転は、まさに結城秀康の命を飲み込もうとしているに違いない。
未来を知っている事が利点ではなく、むしろ俺を苦しめる事につながっているというのは、何という皮肉なことであろうか。
しかしこの先、結城秀康がいかにしてその生涯を閉じようとしているのか、皆目見当がつかないのだから、何も手出しのしようがないのだ。
苦しむ俺の様子を見て、俺の背中にそっと手を添える幸村は、強い決意を感じさせる口調で言った。
「越前卿は万全の状態でお守りいたします。秀頼様におかれましては、来月の会談の事に集中いただくよう、どうかお願い申し上げます」
「ああ…分かっておる。分かってはおるのだが、心配でならないのだ」
頭と心は時としてその袂を分かつ。
今がまさにその時であった。
そして…
俺の言い得ぬ不安は…
現実のものとなった…
それは会談についての書状が届いたわずか三日後のことだった。
………
……
慶長12年(1607年)1月8日ーー
ーー越前卿が病に倒れる!!
その一報が京中を駆け巡ると、人々は皆一様に顔を青くした。そして街中の話題は右を向いても左を向いてもそのことで持ち切りとなったのである。
――ひどい高熱にうなされているようだ…
――どんな名医が診ても、もう治らないとさじを投げているようだぞ
――あれほどお元気だったのに、こればかりは分からないものだねぇ
――毒でも盛られたのではないか…
嘘とも誠ともつかないような噂話の波紋は、京の治安をつかさどる京都所司代、板倉勝重をもってしても止めることは出来ないほどに、広まっていく。そして、人々はまるで自分の事のように胸を痛めながら結城秀康の状態を気にしていたのであった。
言わば「赤の他人」である京の街の人々がこれほどまでに大騒ぎしているのだから、結城秀康の親族たちの狼狽ぶりは見るまでもなく明らかだろう。
もちろんそのうちの一人が、俺、豊臣秀頼であった。
俺の場合、前もって嫌な予感は持っていたはず。それでもいざその事が目の前で起こると、途端に頭が真っ白になるのはどうにも抑えることが出来なかった。
結城秀康が高熱によって倒れてから早2日経過した1月10日、俺は謁見の間に一部の評定衆を集めて、今後の事を協議することにしたのだが、俺は皆が集まったとみるや、開口一番に唾を飛ばして片桐且元に対して怒鳴るような声を上げた。
「とにかく!学府の医療スタッフを全員集めて、治療にあたらせるのじゃ!!なんとしても兄上をお救いせよ!これは命令である!!」
「秀頼様!とにかく落ち着いてくだされ!そもそも『すたっふ』とはなんですか!?」
「スタッフはスタッフじゃ!!とにかく『全員』集めよ!!」
ひどく狼狽した俺に対して唇を紫にしながら対応している片桐且元。伏見の越前屋敷で高熱を出して倒れた結城秀康に関する報せは全て彼のもとに集約するように俺は手配してある。
その彼の報告によれば、既に結城秀康が倒れてから2日の時が経つが、彼の容態は一向に快方に向かう兆しは見せていないらしい。このままではいかに剛毅で知られた彼であっても、衰弱死してしまうのではないか…
そんな最悪な事態しか思い浮かばず、俺は完全に自分を見失っていたのだった。
しかしここに集まっている評定衆は皆世の中のすいもあまいも経験してきた者たちばかり。みな一様に難しい顔をしながらも、冷静を保っているようだ。
その内の一人、織田有楽斎は、のんびりとした口調で言った。
「まあまあ、落ち着いてくだされ、秀頼様。大御所からも京の名医という名医をみな集め、越前屋敷に泊まり込みで治療にあたらせているようです。
それに、江戸の将軍家からも馬を飛ばして薬師や医者を送っておられるとか。
ここはひとつ大御所や将軍様をご信用されてもよろしいかと」
その物言いに俺のいら立ちは頂点に達すると、頭より先に心から言葉が飛んでいった。
「言うな!有楽!!兄上はその将軍家によって毒を盛られたのかもしれんのだぞ!!」
俺は感情に任せて声を荒げると、そのあまりの横暴な言葉の内容に、ピリッと緊張が走った。
わずかな時間、その場が静寂に支配される…
その静寂によって俺はどこか気まずさを感じ始めていた。どうやら言ってはならないことを思わず口にしてしまったらしい…
そこに甲斐姫がぎろりと俺を睨みながら低い声で俺をたしなめた。
「秀頼殿… どんな時でも冷静さを見失うでない。このたわけ者が」
彼女のその鞭打ちのような手痛い一言に、ようやく冷静さを取り戻した俺は、「すまぬ。取り乱した」と素直に謝る。
そう…「大将たる者、どんな時でも頭を冷やしておかねばならぬ」というのは、幼い頃から常に甲斐姫に叩き込まれた教えではないか。
俺は目をつむって、自分の心臓の音に耳を傾けた。
――ドクン… ドクン…
嵐の海のように荒れていた鼓動は、こうすることで少しずつ元の穏やかさを取り戻していく。
そしていつも通りにまで収束したその時…
俺の脳裏にふわりと暖かな光が浮かびあがってきた。
――兄上…
その光には姿や形はない。
それでも俺にはその光が兄、結城秀康であることはすぐに分かった。
その光が放つ「視線」はどこまでも柔らかく、そして優しい。その光に包まれると、俺の心は安らいでいったのだった。
しばらくして、ゆっくりと目を開く。そこには心配そうに俺を見つめている人々の姿があるのが分かる。その一人一人の表情が今はしっかりと見て取れるほどに、俺は平静を取り戻したのであった。
俺は「もう大丈夫だ」と低い声で告げると、状況の把握を行うことにした。
「兄上の病状についてだが… 全登、学府の異国の医術者たちの見立てを教えておくれ」
俺は努めて冷静な声で、部屋の隅の方に控えている明石全登へ声をかける。すると彼はつつと膝を進めて、部屋の中央までやってくると、軽く頭を下げながら淡々とした調子で答えた。
「まだわずかではございますが、白い泡のような粒がお顔に見受けられるとか。それはとある病である恐れが高いと…」
「とある病…」
俺が眉をひそめると、全登は「ふぅ」と大きく息を吐きだした。
そして意を決したように、腹に力を込めて言ったのだった。
それは…
この時代において、世界中で「悪魔の病」と恐れられた病気――
「疱瘡にございます」
その病名を告げられた瞬間に、その場の全員の表情がさらに厳しいものに変わった。
それもそのはずだ。
疱瘡は日本においても度々流行しては、多くの人々の命を、まるで濁流にのむような勢いで奪い去っている。そして、人々から怨霊の一種とまで考えられていたほどに、脅威の的だったからである。
さらに、この頃では疱瘡に対する確固たる治療法が確立されていないのも事実であった。出来ることとすれば、各地に祀られた「疱瘡神」なる神様に、少しでもその症状が軽くなるように祈祷するくらいで、まさに無力としか言いようがなかった。
あまりの衝撃に、固まる周囲をよそに明石全登だけはどこまでも冷静に、淡々と続けたのであった。
「もし明日ないしは明後日に、越前卿のお熱が下がれば、十中八九、疱瘡に違いございません」
そこまで言うと再び頭をぺこりと下げて元いた自分の席に戻っていく全登。
それを見届けた後、未だに言葉を失っている人々に対して、俺は「皆の者、まだ決まったわけではない。もしかしたら明日にはケロリと治っておられるかもしれぬぞ」と、まるで自分に言い聞かせるようにして言ったのだった。
しかし…
当然のように事態は好転に至らなかった…
それは翌日のこと。
結城秀康の熱が一旦下がった。
もちろんそれで病はおさまった訳ではない。
次の日から秀康の全身は、白い粒で覆われた。
それは、疱瘡にかかっている何よりの証…
そしてその日のうちに、俺のもとには、大御所より一通の書状が届いた。
ーー三家会談は当面延期とし、今は越前卿の快復だけを祈ろうではないか
と…




