弟よ!幸あれ!㊸えくぼ
◇◇
突然だが、俺、豊臣秀頼には二つ年上の「姉」がいるという話しから始めねば、元旦の翌日に俺が京にいることの説明がつかないだろう。
そんな姉には大きな特徴がある。
それは「えくぼ」だ。
いつもニコニコと笑顔を絶やさなかったその丸い顔には、いつも愛きょうのある大きなえくぼが浮かんでいた。
そして「えくぼ」について、俺は淀殿から遠い明国から伝わる話しを聞かされたことがあった。
――えくぼのある人は、とても強くて、愛に溢れた人というお話しを知っておりますか?
人は死んで、新たな命を得る時に、前世の記憶を全て消し去ることになっているのだそうです。
しかし、一部の人はそれを断ります。
それは、来世でも必ず愛する人と再会すると固く誓った人々。彼らは前世で出会った愛する人の記憶を残しておくために、記憶を消しさることを拒むのだそうです。
そこでそういった人々には、一つの刻印を体に残すことになった。
それが『えくぼ』。
そしてその『えくぼ』を持った人々は、来世に新たな命を得るその前に、千年に渡る苦行を科せられるそうです。
そうしてようやく来世に生まれてきた『えくぼ』を持った人々は、前世の記憶を頼りに、愛する相手との再会を果たす為に、強く生きるそうなのですよ
母、淀殿の言うことはその通りであるように思える。
なぜなら俺の「姉」は、とても忍耐強くて、愛に溢れた人なのだから。
そんな彼女は、誰を求めてこの世に生まれてきたのだろうか…
そして俺は願うのだ。
彼女が出会うべき人に出会い、末長く幸せに暮らすことを――
………
……
俺の姉の名は、豊臣完子という。
豊臣姓ではあるが、彼女の「実の母」は淀殿ではないし、太閤秀吉の隠し子という、淀殿が知ったら発狂するような物騒な事でもない。つまり、彼女はいわゆる「養子」であり、淀殿は言わば「育ての母」となる。
実はつい二年前までは、大坂城という一つ屋根の下で、俺たちは家族としてごく自然に暮らしてきた。
自己主張することがない彼女は、自由奔放な俺の姉とは思えぬほどに、我儘の一つも漏らさない、とても物静かな姉であった。
しかし彼女の生い立ちは、その穏やかな性格からは想像もつかないほどに悲劇的なものであったと言えよう。
彼女の実の父は、太閤秀吉の姉の子、すなわち俺の従兄にあたる豊臣秀勝であった。
ところが彼女は実の父の顔を知らないままに育った。
なぜなら彼女が産声を上げたその時には、彼女の父は遠い朝鮮の地で病に倒れて、無念の内にそのまま還らぬ人となってしまったからである。
だがこれだけであれば、乱世でなくともあり得ない話しではないだろう。
それは彼女がまだ3歳の頃のことだ。
彼女の母親…すなわち淀殿の妹、江姫の再婚が決まったその瞬間から、彼女にとって本当の悲劇は始まることとなる。
江姫の再婚にあたり、なんと彼女は「存在しないもの」という烙印を押されたのである。
もっと具体的に言えば、彼女の実の母である江姫は時の権力者、徳川家康の嫡子、徳川秀忠の正室として、遠い江戸の街へと旅立っていったのだった。
幼い豊臣完子をただ一人、大坂城に残してーー
その時に彼女はどのような表情をしていたのだろうか…
それを想像するだけでも身が引き裂かれる思いに陥る。
もちろん徳川家と豊臣家との間柄をさらに強める為に、自分の新しい妻である淀殿の妹を、次期徳川家当主に嫁がせたい、という晩年の太閤秀吉の思惑があったのも分かっているし、徳川家の嫡子の正室が、子連れであることを嫌った大御所の気持ちも分かるつもりだ。
そして俺を生んだばかりの淀殿が、我が子として彼女を何の迷いもなく迎え入れたことも、もちろん分かっている。
それでも…
――こんな理不尽な仕打ちがあってよいものだろうか…
と唇をかみしめてしまうのは、彼女はそんな悲劇的な生い立ちを微塵も感じさせないくらいに、いつも心穏やかな人だったからであった。
そして、その幼い年齢を感じさせないほどにおっとりしていて、いつもえくぼを作って俺たちに微笑みかけてくれていた。
どんなに俺や千姫が自由奔放でわがままの限りを尽くしても、俺たちにそのえくぼを見せてくれた。それを目にすると、どんなにしかめ面していても俺と千姫はつられて笑顔になったもので、俺たちはひどい喧嘩をしていたその日でも、姉の仲裁とともにすぐに仲直りした。
それはまさに魔法のようなえくぼ。
俺が重責にくじけそうになる時も、頼れる者を亡くし悲嘆にくれる時も、どんな時でも彼女のえくぼに俺の心は救われていたのだった。
そのえくぼを俺は生涯忘れることはない。
優しくて、気が利いて、そして淀殿の言う事もよく聞いた姉は、俺にとっては自慢の姉だ。
それでもふとした時に見せる、何かを求める瞳の色…
その時だけは彼女の頬からえくぼが消えた。
そんな彼女の横顔を見かけるたびに、俺は言葉を失う。
なんと切ない色なのだろう…
なんと悲しい色なのだろう…
しかし姉は心配そうに見つめる俺に気付くと、すぐにその瞳の色を変えていつものえくぼを作ったのだった。
彼女の瞳がその色に染まるのは、決まって夏の終わりを感じさせる、涼しい風の吹く日。
それは母親が彼女の元から立ち去っていった季節…
………
……
慶長12年(1607年)1月2日ーー
この日、俺は京に入った。
その目的は「新年の挨拶」だが、その相手は京にいる大物たちではない。というのも、大御所、徳川家康と時の天皇、後陽成天皇に対しては織田有楽斎を前日から俺の名代として送っているからである。
そう、その挨拶の相手こそ…
俺の「姉」であった。
公家たちが住まう豪邸が並ぶ区域の中でも、ひと際目の引く新邸。そこが俺の京への目的地、つまり姉の新しい家族の家だ。
実は二年前に、淀殿の手はずによって公家の中でも名門中の名門である、九条家に姉の豊臣完子は嫁いでいる。そしてこの豪勢な新邸は、俺が建てさせたものなのだ。
俺は真田幸村ら、わずかな共を引き連れてその邸宅の中へと案内されると広い客間に通された。
するとそこには…
慣れ親しんだあのえくぼが…
それを見た瞬間に、俺は弾かれるように明るい声をあげた。
「姉上!!あけましておめでとうございます!お久しぶりにございます!!」
「まあ!秀頼!あけましておめでろう。よく来ましたね!まあまあ、お元気そうで」
「ははは!姉上におかれましても、お変わりがないようで、安心いたしました!!」
「ふふ、突然来ると言うのだから。まったくそういう所はお父上に似てしまったのですね」
「ははは!よいではございませんか!むしろ姉上に会うのに、事前に申し出ておかねばならなくなってしまい、われは悲しゅうございます!」
「まあまあ、これは嬉しいことを言ってくれるではありませんか。ささ、あまりたいしたものを用意出来ませんでしたが、どうぞ茶菓子でも召しあがってくださいな」
「おお!これはまた旨そうな!むむっ!旨い!ははは!さすがは姉上!われの好みを良く分かっておられる!」
自然に会話が弾むのも無理はない。姉が嫁いでから二年間、一度も顔を合わせていないからだ。
どうやら徳川家康が作りだした「大坂離れ」は武家だけではなく、公家にも強い影響をおよぼしているようで、名門の九条家も例外ではなく、姉夫婦から俺は距離を取られていたのである。
しかし今日だけは、どうしても姉に会いたかった。
そこで織田有楽斎を通じて徳川家康に、大蔵卿を通じて阿茶の局に取り計らってもらい、ようやくこの日の訪問が実現したのだ。しかしそれでも姉の夫であり、後の関白、九条忠栄はこの場にはいない。
だが俺には姉が目の前にいる、それだけで満足であった。
俺は眩しく輝いている姉の懐かしい笑顔をじっと見つめた。
「どうしたの? 秀頼? わらわの顔をそのように見つめて…」
ふと俺の視線を不思議に思ったのか、彼女は眉をひそめて俺にたずねてきた。
その怪訝な言葉すら、柔らかさを感じるほどに心地良いものだ。
そして俺は心の底から思っている事を、素直に告げたのであった。
「姉上が幸せそうで、われは嬉しくてたまらないのです」
と…
その俺の言葉が部屋に響いた瞬間、彼女の目が大きく見開かれる。
その驚きに満ちた表情までもが、俺にとっては眩しいものだったのだ。
人知れず、時折悲しい目をしていたこと。俺はその切なくて、胸を締め付けさせるようなあの色が忘れられない。
しかし今の姉はどうだろうか。
誰から見ても幸せそのものではないか。
俺はその事が嬉しくてたまらなかった。
俺の言葉にえくぼを浮かべる姉は「ふふ、随分と大人びたことを口にするようになったものです」と照れたようにうつむいている。
そして俺はこの日の目的を果たす為に、彼女の幸せを象徴するところを指差して、一つのお願いをしたのだった。
「姉上!そのお腹、一つ撫でさせてはいただけないでしょうか」
そう…
この時、豊臣完子のお腹の中には、新しい命が宿っていたのだ。
そしてその俺の願いに、小さくうなずくと、優しい声で彼女は答える。
「ええ、もちろんです。秀頼に撫でてもらったとなれば、この子も喜びましょう」
その命を祝福する為に、俺はどうしても今日この場に訪れたかったのである。
俺はそっとその命を宿した大きなお腹に触れる。
それはとても熱かった。
そして「ドクドク」と力強い何かが脈打っている。
確かにそこには新しい命が芽吹いている!
それを感じただけで、俺は目の奥から何か込みあげてくるものを感じた。
「元気に…元気に出てくるんだぞ」
漏れるように声を絞り出した俺に、「ふふ」と笑みをこぼした彼女は、小春日和のこの日の陽射しのように暖かな視線を俺の手の置かれた場所に向けている。
その視線は、まさに「母」そのものであった。
そう…
俺の「姉」はもうすぐ「母」へと変わるのだ――
それは彼女が嫁いでいく以上に、俺にとっては彼女が遠い存在になってしまうような気がしてならなかった。
だから…
もうすぐ新たな命が誕生するその前に…豊臣完子が「姉」であるうちに、最後に一度そのえくぼを目に焼き付けておきたかったのである。
………
……
どれくらいたっただろうか…
もしかしたらそれは、本当にわずかな時間だったかもしれない。
それとも相当長い時がたっていたのかもしれない。
しかし今は「時」のことなど、俺にとってはどうでもよいことであった。
乱世に翻弄され、それでも文句の一つも言わずに、愛と幸せを血の繋がらない俺に与え続けた姉と、そのお腹に宿る子に、俺は自分の出来る限りの祝福をその手に込め続けた。そんな俺を見て、優しく微笑む彼女。
この時だけは、大坂城で共に過ごしたあの頃の姉と弟。
俺は知っている。
この時を逃しては、もう後戻り出来ない未来を。
ところが時の経過とは至極残酷なものである。
部屋の外に控えていた真田幸村の、軽く頭を下げる様子が、影となって俺の目に入ってくる。
それは「そろそろお時間になります」という、言葉には出さない合図であることは、事前の示し合わせの通りだ。
名残惜しい…
もう少しこの場にいたい…
そんな甘えにも似た感情の芽に、俺は強い決意をもって蓋をする。
そして、俺はすくりと立ちあがると、一つぺこりと頭を下げた。そして最後に告げたのだった。
「今日はありがとうございました。われはどこにいようとも、姉上の幸せを願っております。
まだ寒い日が続いておりますので、どうぞお体には気をつけてお過ごしくださいませ」
「ふふ、なんだか秀頼らしくないお言葉だこと。ええ、分かりました。また必ず顔を見せにくるのですよ」
「はい!」
そう元気に返事をして俺は部屋を退出した。
ーーどこにいようとも、姉上の幸せを願っている…
その意味を姉は「大坂城と京と離れていても」とくらいにしか今は思っていないだろう。
だが、俺は知っているのだ。
この後、わずか十年もしないうちに、姉にとって再び家族との悲しい別れが待っていることを。
しかし俺は誓っていた。
ーーたとえこの身がどこにあろうと、姉のえくぼを忘れまい
それがたとえ、現世とあの世に分かれようとも…
彼女とその家族が幸せになることを祈り続けるのだと…
そして俺は彼女に一つ嘘を言った。
あの時の無邪気な「はい!」という返事。
この再会を約束した返事は、もはや果たされる事は叶わないこと。それほどまでに大坂城はもはや孤立し始めているということだ。
そう…
九条家はこの後、徳川家に取り込まれていくことになる。
それは「豊臣完子が将軍の正室の娘だから」という事を、徳川将軍家によって巧みに利用され、幕府と朝廷の橋渡しをするお家となるからだ。
一度「邪魔者」として捨てられた姉は、今度はその立場を利用される…
そんな理不尽な運命が彼女を待っている。
そしてその事によって、豊臣家が九条家から遠ざけられることは目に見えて明らか。それは既に彼女が九条家に嫁いだその時から始まっていたのであった。
つまり、今が最後の時。
俺が九条家に、彼女と「家族」として会うことがかなう最後の時…
俺はそれを知っているのだ。
俺は心の中で最後に呟いた。
ーー姉上…どうかお幸せに
そして…
ーーさようなら…
と…
九条家の屋敷を出て空を見上げる。
この日は冬とは思えないほどに、穏やかな一日だ。
そしてそのどこまでも高い青空を見上げて心に一つの事を思ったのだった。
もし…
もし俺がこの世から別れを告げたなら、来世は『えくぼ』のある人となって生まれてこよう。
そして、もう一度出会うのだ。
俺が愛してやまない人々に――
………
……
慶長12年(1607年)1月24日――
豊臣完子は元気な男の子を生んだ。名は鶴松。
彼は後の二条家当主、二条康道だ。
泣きじゃくる鶴松に優しい瞳を向ける豊臣完子の横顔には、悲劇の生い立ちを背負った頃の面影はない。
もうあの悲しい瞳を見せることもないだろう。
なぜなら、彼女は「母」となったのだから。
そして、『えくぼ』に秘められた最愛の家族に出会えたのだから――
豊臣完子の夫は九条忠栄。
その名を後に「幸家」と変えます。それは時の将軍、家光公から一字を拝領したのかもしれません。
しかし、私にはこう思えるのです。
――幸せな家を築いていこう
という、彼の決意が込められていると。
九条幸家と豊臣完子には四男三女が生まれます。
そしてその血筋は、現在の皇族や今上天皇へと受け継がれていくのです。
私は豊臣完子のその生涯に、大きな幸せがあったことを願わざるを得ないのです。




