弟よ!幸あれ!㊷行く先への想い
………
……
いつの間にか、雪はしんしんと降り出した。
直江兼続が去ると、心身共に凍えている自分に気付く。
幸村は、せめて体だけでも温めようと、手にした酒をぐいっと飲み干した。
そして、彼もまた床へとその体を移そうと、そう考えた瞬間であった。
「真田左衛門殿。一つよろしいでしょうか」
ふと聞き覚えのない声で、彼は呼び止められた。
幸村はその声の持ち主の方に視線を落とす。そこには、キリッと表情を引き締めた精悍な顔つきの若武者が小さく頭を下げて座っている。そして幸村が何か問いかけようとする前に、若武者が口を開いた。
「申し遅れました。それがしは片倉小十郎重綱と申します」
「ほう…片倉小十郎殿と…」
「はい、片倉備中守景綱はそれがしの父にございます。今日は、病床の父に代わってそれがしが参った次第にございます」
片倉景綱と言えば、言わずと知れた伊達政宗の側近中の側近だ。上杉景勝の側に直江兼続ありとすれば、伊達政宗の側には片倉景綱ありと言っても過言ではない。「みちのくの名軍師」と呼ばれてもよいその片倉景綱の息子が、この目の前の精悍な若武者。一目見ただけでその聡明さと勇猛さが際立っているであろうことは、あまり人をじっくりと見る機会のない真田幸村でも十分に理解出来るものであった。
真田幸村は、先ほどまでの感傷に浸っていた心に鞭を打って、いわゆる「外面」で片倉重綱に向き合った。
「もしや伊達少将様が、それがしに何かご用でもおありとおっしゃるのでしょうか」
「さようにございます。それがしが、殿の部屋まで案内せよと命じられております」
この時既に伊達政宗は婚儀の執り行われた大広間から退出し別室に移っている。どうやらその部屋へと真田幸村は招かれたようなのだ。何を彼に求めているのか、それはこの時点で分かるはずもないが、無碍に断ってもそれはそれで角が立つ。
幸村は考えることもなく、大きく首を縦に振ると「では、よろしくお願いいたします」と返事をして、片倉重綱の背中についていったのだった。
………
……
「おう、来たか。まずは一杯飲むがいい」
真田幸村が部屋に入るなり、腹に直接響くような重くて低い声をかけてきた人物こそ、伊達政宗その人であった。
後世「独眼竜」と呼ばれるに相応しく、彼から放たれる見る者を圧倒する雰囲気は、まさに「竜」そのものであり、片方の眼帯した目からは、まるで目に見えぬ部分を見透かしているような不気味な視線のようなものを感じる。
一目見ただけで只者ではないことは明白。それでも真田幸村という男も、若くして豊臣秀吉や徳川家康といった稀有の英傑たちの間を渡り合った経験のある人物だ。
政宗の放つ空気に飲まれることもなく、微笑を浮かべたまま着席すると、差し出された盃の酒をぐいっと飲み干した。
「うむ。いい飲みっぷりじゃねえか。男ってのはこうじゃなきゃなんねえな」
政宗は上機嫌に彼の背後にいる片倉重綱に言うと、重綱は「まことその通りにございます!」と静かな冬の夜の中にこだますような大声で返事をした。
そして幸村が盃を目の前に置いて「伊達少将様。このたびは誠におめでとう…」と頭を下げかけたその時。
「ああ、今日は固苦しい挨拶ばかりで肩が凝ったわ!のう、真田左衛門佐。ちと肩をもんでくれないかのう?」
と、伊達政宗は幸村の言葉を遮る。そしてそのあまりの内容と物言いに、思わず幸村は目を大きく見開いてしまったのである。
何かの聞き間違いではなかろうかと、思わず耳を疑ってしまうほどに、何の躊躇いもなく言い放った政宗。陪臣とは言え、豊臣秀頼の名代としてこの婚儀に参加している真田幸村に対して、さながら「俺に媚びを売れ」と脅してきているような、無礼極まりないその言葉に、幸村は面食らったのだ。
しかし政宗はその言葉を撤回するつもりなど毛頭ないようだ。ニヤリと口角を上げたまま、幸村を見つめている。
――試されている…
そう幸村が勘ぐったのも無理はないだろう。事実、伊達政宗のその視線は、さながら真田幸村という男の値踏みをしているようであった。
だが幸村の体は動かない。いや、「動けない」とした方が適切であろう。彼はまるで蛇に睨まれた蛙のように、完全にその体の動きを止めてしまっていた。
その様子を見て、政宗は変わらぬ表情のまま続けたのだった。
「物事ってのは、あまり難しく考えねえ方が良い時もあるってもんだ。
今、お主の頭の中では『豊臣秀頼公の名代である以上、格下の伊達少将の肩など揉むわけにはいかん』という一方で、『ここで断れば、伊達家と豊臣家の間に亀裂が入るのではないか』という考えもあるのであろう」
それはまさに幸村の頭の中を綺麗に言い当てているものであるが、何か「かま」をかけられているように思えて、簡単にうなずく事が出来ない。
その様子を見て、政宗は答えを促すように続けた。
「しかし、真田左衛門佐。もし、そういった鬱陶しいしがらみを抜きにしたならばいかがであろう。
今ここに、愛娘を嫁に送り、心にもない祝いの言葉の数々に付き合わされたことで、疲れ果てて肩が凝って仕方のない人がいれば、お主ならいかがするであろう?
それは、大御所に命じられればもはや豊臣家にとって刃を向けることをいとわない上杉家の陪臣を躊躇もせずに助けたお主であれば、そう難しい答えではないのではないのか?」
「すなわち、一人の人間…『真田左衛門佐幸村』として、目の前の疲労困憊の伊達少将様をいたわる気持ちがあるか、と問いかけておられると…」
「まあ、そう考えてもよいのではないか、と一つの考えを披露したまでだ。そこから先、何を選ぶかはお主の勝手にすればよい」
そう政宗が突き放すように言葉を投げかける。
そして、再び重い空気のまま沈黙が流れた。
しかし今度の沈黙を、政宗は破ろうとはしない。彼はじっと幸村の全てを見つめ続けていた。
しばらくその状態が続くのだろう…そしてその果てには、真田幸村は「申し訳ございません」と頭を下げて、そのまま部屋を後にするに違いない…
そう部屋の隅に控えている片倉重綱は考えていた。それは彼でなくとも、この二人の様子を見た十人中十人が同様に考えることは明らかなことだ。
なにせ今、伊達政宗の目の前に座る真田幸村は、豊臣右大臣秀頼の名代、すなわち身代わりなのだから。
ところが…
次の瞬間、片倉重綱は思わず「えっ…」と短く声を上げてしまった。
なんと…
幸村が、流れるような滑らかな動きで政宗の背後に回ったかと思うと、彼の肩を優しく揉みだしたのだった…
「ずいぶんと固く凝っております。たいそうお疲れでしょう」
その穏やかな口調は、決して彼が屈辱にまみれながらその事を行っているようには思えない。むしろ、疲れきった相手を思う慈愛すら感じるものであった。
一方の政宗は、目をつむり何か感情を必死に抑えようとしているようにも思える。
そして…
「もうよい。おかげでだいぶ凝りもほぐれたわ」
と、政宗が漏らすように言うと、幸村は再び政宗に向き合うようにして座りなおした。
それを見計らうように政宗は幸村に口を開いた。
「それがお主の答えということか」
しかし、幸村は穏やかな表情のまま、首を横に振った。そして、その場にいる伊達政宗と片倉重綱の二人して目を見開くような、驚くべき言葉を発したのだった。
「いえ… 豊臣右府様の答えにございます」
「な…なに…?お主はあくまで豊臣右府殿の名代として振舞い、その上でこの伊達少将の肩をもんだということか!?」
「ええ、おっしゃる通りにございます」
「馬鹿な…なぜだ…なぜそのような事が出来る?」
「ふふ、これはおかしな事をおっしゃいます。お忘れですか?伊達少将様が自ら『時として物事を難しく考えない方が良い事もある』と、それがしにお教えくださったではありませんか」
「それがどう巡り巡って、豊臣右府殿の名代として、俺の肩をもむ事につながるのだ?」
「簡単な事にございます。なぜなら…」
そこで一旦話しを切った幸村は、目を細めながらはっきりとした口調で答えたのだった。
「豊臣右府様の目指すところが、『全ての人を笑顔にしたい』というものだからです」
「なに…?全ての人を笑顔に…だと?」
「はい。困っている人がいれば手を差し伸べ、疲れている者がいればいたわる。それは身分など関係なく、秀頼様が自ら実践されておられること。
もし秀頼様本人であれば、例え目の前におられる方が、伊達少将様ではなく田畑を耕す農民であっても、その肩を嬉々としてもんだに違いありません。
そして、こうおっしゃるのです。『われの肩揉みは天下一であろう!はははっ!』と。
見る方が見れば、それは無様で不格好なものかもしれませぬ。
しかし、秀頼様はその事をいとわない。むしろ、自ら『肩など凝っていないか?』とお問いかけになるかもしれません。
その相手が笑顔になることに、いつでも全力を傾けられるお方であるということを…そして、今それがしは、そのお方の代わりであるということを、伊達少将様のお言葉で気付かされたのでございます」
幸村がそう言い切ると、政宗は呆気にとられてしばらく口を半開きにしたまま、穴があくほどに幸村を見つめていた。
そして、
「ははははは!!こいつはおもしれえ!!これぞ真のかぶき者ってやつじゃねえか!!なあ!小十郎!!」
と、腹を抑えて大笑いし始めたのである。彼の背後の片倉重綱は、突然話しを振られた為に「おっしゃる通りにございます!」と、ありきたりな言葉しか返せない。
しかしそんなことなど意に介することもなく、政宗は涙を浮かべながら笑い転げていた。
その様子を微笑みを携えたままに静かに見つめ続ける真田幸村のその視線には、どこか暖かいものが含まれている。
それがまた政宗にとっては心地よいもであったのだろう。彼はたいそう愉快そうに酒をあおりながら笑い続けていたのだった。
どれほど時が経っただろうか…
ようやく笑いを止めて、目じりを抑える政宗。
幸村は自分の取った行動が伊達政宗の心をとらえてことにどこかほっと安堵し、そのまま部屋を後にしようと頭を下げた。
しかし政宗はそれだけで終わらせない。急に表情を固いものにかえると、
「…ますます面白くねえことになるぞ。覚悟は出来てるんだろうな?」
思わず聞く者の背筋が凍りつくほどに、冷酷さを伴った口調が、幸村の頭に浴びせられた。
ぴくりっと幸村はそのままの姿勢で止まると、顔を上げずに問いかけた。
「どういう意味でございましょう?」
「難しく考えるんじゃねえよ。そのままの意味さ」
「はて…? では一体何が面白くない事になるのでしょうか…」
ようやく顔を上げて政宗の顔を見ると、そこには先ほどまでの上機嫌さはなく、雪の中に埋めた鉄のように温度のない表情が目に飛び込んでくる。
そして政宗はますます声を落として言い捨てたのだった。
「…豊臣の行く末以外に何があるというのだ?」
幸村の顔から笑みは消え、細めた目からは政宗のそれとは正反対の燃えるような熱いものを携える。
「さようでございますか…しかし当家の行く末が面白くないものになるというその根拠をお教えいただけませんでしょうか」
「だから難しく考えんな、と何度言えば分かるのだ!?」
「単純に考えても、当家の行く末に関して思い当たるところはございません」
「てめえ、本気でそれを言っているなら… 俺の見込み違いということになるが…」
「それは申し訳のないことでございます。どうやらそれがしは伊達少将様のご期待に添えるような男ではなかったようで」
まるで見えぬ槍と槍をぶつけるような、言葉の応酬。その言葉だけを聞いてしまえば、何のこともない。政宗の腹の内を幸村が正しく見透かす事が出来ていないことに、政宗が失望しているととらえられるものだ。
しかし、政宗はそうは感じていなかった。
むしろ逆の事を感じていたのである。
それは…
――この男…全てを分かっておるな…
ということ。
そしてその政宗の考えが正しいとするなら、幸村は全てを承知している上で、しらを切り続けていることになる。
すなわち、それは「目をそむけている」に過ぎない。
政宗にはその事が不思議でならなかった。
そしてその疑問を素直にぶつけることにしたのだった。
「てめえ…なぜそこまで豊臣右府殿に肩入れをするのだ?」
話しの流れからして、明らかに異質な問いかけであったが、幸村はこの問いの意味することを瞬時に悟っていた。それは、「自分の腹の内は見透かされているということか…」というもの。
それでも幸村はその姿勢を崩さなかった。なぜならそれこそが真田幸村という武士の「一分」だからだ。
「それがしが今、殿と仰ぐのは、秀頼様ただ一人にございます。それ以上でもそれ以下でもございません。武士として主君に忠誠を尽くすことに理などありましょうか」
その答えに政宗は「ははは」と乾いた笑いを漏らす。
「なるほどな。言われてみればその通りだ。なんも難しいことじゃねえな、それは」
「ご理解いただいて光栄にございます。では、それがしはそろそろ…」
「まあ、さように急くな。まだ、豊臣の行く末が面白くないとしたその理由を話してないではないか」
それは言葉に出さなくとも幸村が理解していることは明白なこと。それでも政宗は、はっきりと告げた。それは「目をそらすな!」という強烈な助言とも言えるものだったのである。
「目ざわりなんだよ。大御所にとってな」
幸村の表情がにわかに固くなる。しかし政宗は畳みかけるように続けた。
「全国の大名全てを敵に回してでも戦う覚悟はあるのか? よってたかって袋叩きにされても、立っていられると断言出来るか?
てめえが守ってやれると胸を張って言えるのか!?」
立て続けに浴びせられる政宗の問いかけに、幸村は口を真一文字に結んで何も答えない。しかしその燃えるような瞳から、幸村の激情は一目瞭然。
背後に控えている片倉重綱にもその緊張感がひしひしと伝わると、彼は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
政宗はそんな幸村の瞳をじっと見つめ続ける…
そして…
政宗の口元に…
笑みがこぼれた。
「そうかい… ははは!こいつはやはり見込み通り!かぶいてやがる」
先ほどまでの凍えるような冷たい口調から、真夏のような情熱的な口調に変える政宗。一方の幸村は、全く変わらぬ表情のまま、じっと政宗を見つめていた。
「俺はな。時代の流れを正しく読み、己の立場と実力をわきまえた行動を取れるものにこそ、『勝利』がもたらされると思っている。
しかし、豊臣はそれに逆らうというのだな。
己の揺るがぬ信念を貫き通す為なら、時代の流れに逆行し、そして己の実力を鑑みずに強大な相手にさえもその膝を屈さない…その先には『敗北』しかなくとも…」
幸村は首を縦にも横にも振らず、ようやく口を開いた。
その口調はどこまでも穏やかなもの…
「信念なき『勝利』を秀頼様は欲してはおられません。ただそれだけのことでございます」
その一言が部屋の中に、鈴の音のように響きわたった時、政宗はどこか観念したように目をつむった。
そして大きく息を吐いて告げたのだった。
「どうやら伊達と豊臣では目指すものが違うようだ。非常に残念なことだがな」
「そのお言葉が秀頼様のお耳に入ったら、大層悲しまれることでしょう」
「ははは。しかし、お主もとっくに気付いているだろう。なぜここにお主を招いたのか」
幸村はコクリとうなずくと、短く答えた。
「大御所様のご意向…でございますね」
政宗はコクリとうなずくと、「どんな意向か分かるか?」とたずねる。幸村は再び短く答えたのだった。
「国替え… でございますね」
その答えを聞いた政宗は、「やはり分かっておったか…」と、言わんばかりに肩の力を落とすと、ぼそりと言った。
「ああ、俺と江戸の目が届く場所」
「ふむ…では、上総、下総、上野…この辺りでしょうか」
そう… 伊達政宗はこの婚儀に臨む直前に、徳川家康からとある密命を帯びていた。
それは…
「豊臣家の大坂城退去」そして「関東への国替え」の二つ…
その事を家康から直接言い渡すその前に、自ら望んで欲しい…
そして政宗に課せられた密命はそれを直接豊臣家の名代に促すことであった。さらに、その相手として織田老犬斎ではなく、真田幸村を選ぶようにとまで言いつけられていた。
しかし今までのやり取りで、それは成り立たぬという事を政宗は直感したのだ。
「大御所は来年の文月(七月のこと)に伏見を出て、駿府に移る。その意味、分かるな」
「ええ」
それは口に出すまでもないことで、すなわち徳川家康が、あえて大坂と距離をとる事で、いよいよ私情を抜きにして本格的な「天下取りの大仕上げ」の準備に取り掛かる事を意味している。
「つまり文月までが期限ということだ。もっともかような事を話しても、何も事を起こすつもりもないだろうが…」
「いえ、お心づかい大変嬉しゅうございます」
再び政宗は「ふぅ」と大きなため息をつくと、幸村はそれが頃合いと見たのか、「では、伊達少将様もお疲れのことでしょうから、それがしはこれにて失礼いたします」と、その場を立ち、政宗に背を向けた。
その背中に政宗は低い声をかけた。
「先ほどの肩揉みの礼は必ずさせてもらおう」
その言葉に、幸村は背を向けたまま少しだけ頭を下げると、音も立てずに静かに去っていったのだった。
こうして松平忠輝と五郎八姫の盛大な婚儀は終わりを迎えた。
そして豊臣家にとって「始動の年」となった慶長十一年は終わりを迎える。
その「始動」の向かう先には、どんな未来が待っているのだろうか。
真田幸村はその事を想わない日など、一日もない。
しかしその未来が「地獄」であったとしても、彼は一つの事を心に誓っていた。
それは…
――必ずや、守ってみせる
ということ。
その誓いで心を奮い立たせるたびに浮かぶのは…
大坂城、豊臣秀頼…
そして…
一人の悲しき宿命を背負った薄幸の人。
淀殿――
その穏やかな微笑みを携えた姿であった。
こうして長かった慶長11年は終わりを迎え、新たな年を迎えたのであった。
次回から長きに渡って続けた「弟よ!幸あれ!」シリーズは終幕に向かいます。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。




