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弟よ!幸あれ!㊳長浜決戦(18)

◇◇

 身寄りも有力者へのつてもない高坂甚内が、甲賀忍者の没落からわずか数年足らずで、二十人もの手下を率いるまでにのし上がったのには、列記とした理由がある。

 そのことについて、彼のことを良く知る者に問えば、彼が人の上に立って指揮することに長けていることや、どんな状況であっても我を忘れずに行動出来ること、それにいつでも身の危険を考えながら、その策を張ることが出来ることを挙げるに違いない。

 現に彼の手下たちが真田十勇士たちに蹂躙されているその間にも、彼は誰にも漏らさずに準備を進めてきた「とある事」によって、こうして幕の外を悠々と駆け抜けているのだから、彼のしたたかさと有能さは、はっきりとしれよう。

 ちなみに、その「とある事」とは、舞台の控えの場であった幕の袖の内側から、人が一人だけ通ることが出来る穴を掘り進め、「万が一」に備えた抜け道を作っていたことだ。


 しかしもし彼に「なぜここまでのし上がる事が出来たのか」と問えば、彼は即答するに違いない。



ーー全ては妹の笑顔を取り戻す『夢』を持ち続けた為…



 と。


 そんな彼が疾風のように進む先は、自ずと一つだ。


 それは…


 豊国神社ーー


 その場所には、彼が成し遂げる事をすべき相手がいる。しかし、この時から既に彼には心の変化が生じ始めていた。

 それは…



ーーもし事が上手くいかねば、ゆりを連れて逃げよう…



 という、あれほどまでに燃やしていた野心とは、逆のことだったのだ。

 


 そして、まさに今、豊国神社で妖艶な踊りを披露している踊り手たちの一人に、高坂甚内の妹、ゆりが含まれていることは、高坂甚内をおいて誰一人気付いていないだろう。

 彼が常にその横に妹を置いていることすら、手下の誰に漏らすこともなかったのだから。

 

 ところがそんな妹想いの彼をもってしてもこの時に気付けなかったことがある。

 それはその妹のゆりが、兄の『夢』を叶えるために、兄に下された命令を一人で成し遂げようとしていること…



◇◇

 慶長11年(1606年)12月21日午刻ーー

 あと四半刻(およそ三十分)もすれば未刻(およそ午後二時)となるその頃。


 豊国神社で催されているかぶき踊りはいよいよ佳境を迎えようとしていた。

 そして最後にして最大の見せ場とも言える時が近づいていたのだ。それは、踊り手たちが各々の持ち場から離れて、弧を描くように動きながら踊りを披露するというものであった。

 後方の目立たぬ場所が持ち場であったゆりにとっては、その見せ場こそ舞台の目の前に着座している結城秀康に最も接近できる唯一の機会であり、それを逃しては事が成らないと考えていた。

 幸いなことにこの場に警戒の網を張らせている筧十蔵やあかねには、彼女の腹の内を見破られていないようで、時折向けられるその視線は、他の踊り手たちに向けられているそれと同じように、柔らかなものであった。


 鼓を叩くのはあかね。その音調が少しだけ早まるその時こそ、踊り手たちが一斉に動き出す時だ。

 彼女はそれを「今か、今から」と、高鳴る動悸を必死に抑えながら待っていたのであった。



ーーポポンッ!



 鼓の音が切れる。


 刹那的な静寂に舞台は包まれるが、それこそ「嵐の前の静けさ」。



ーーポン!ポン、ポン!



 そしていよいよ始まった…


 ゆりの隣の踊り手がその足を一歩ずらすのを見て、ゆりもまた一歩ずらす。

 

 ともすれば凍えてしまいそうなほどに寒い冬空の下、長い時間踊ってきた踊り手たちの額から汗がさながら宝石のような輝きを放って飛んでいく。

 

 その笑顔の裏にある踊り手たちの想いなど、純粋に時を楽しんでいる結城秀康に考えるように促すことなど、無粋なことだ。

 

 しかしそれはまさしく「油断」と言えなくもないもの。

 

 そして「その時」は刻一刻と迫っていたのであった。

 

 

◇◇

 焦らずに急ぐ――

 

 道を行く長浜の町民たちにしてみれば、何食わぬ顔をして道を早歩きで進む高坂甚内の様子を見て、彼の内心を見てとることなど出来ぬだろう。

 それほどに彼は平静を装い、町の中に溶け込んでいる。

 しかし今の彼は、全身の神経を研ぎ澄まし、追手がどの位置にあるのか、身の危険は迫っていないかということに、血眼になって察知しようとしていた。

 さらに言えば、とにかく「前へ、前へ」と、彼が求めてやまないものの為に、その足を懸命に動かし続けていたのであった。

 

 

 …と、その時。

 

 

――リンッ…



 軽やかな鈴の音が甚内の耳の奥に響いたかと思うと、彼の足元を小さな少女が駆け抜けていった。

 

 その様子に甚内の目は丸くなる。

 それもそのはずだ。

 その少女の姿は…

 


「ゆり…」



 彼の遺された唯一の家族である妹のゆりそのものだったのだから…

 

 しかもその鈴は、まだ彼らが故郷の甲賀の里で過ごしていた時に、「見失ってはならぬ」と、彼が持たせていたものと同じ音だ。

 


――そんなはずはない…



 そう彼が否定するのも無理はない。

 なぜなら既にゆりは「少女」というには、歳が過ぎており、誰がどう見ても年頃のうら若き女性なのだから。

 しかし、甚内は今背を向けて前を駆けていくその少女のことが、妹であるようにしか思えなかった。

 

 

「ゆり…!」



 足を止めず、少しだけ声を大きくして声をかける。

 ところが耳にはまるで入っていないかのように、少女は風のように目の前に見えてきた大きくて真っ赤な鳥居に目がけて駆けていく。

 

 甚内はその背中を見逃すまいと、自然のうちに早歩きから駆け足に変えて、同じく鳥居を目がけて風となった。

 

 すると「きゃっ!きゃっ!」と聞き覚えのある、楽しげな笑い声が耳に入ってきた。

 

 その笑い声で彼は確信した。

 目の前の少女は、自分の妹である…と。

 

 そしてこの時、既に彼は一つの事に「諦め」をつけていた。

 

 それは、彼の『夢』だ。

 

 すなわちこの時から「甲賀の里を自分たちの手に戻す」という、一見すると途方もない『夢』を手放したのだ。

 

 そして彼の『夢』は原点へと戻っていく。

 それは「妹と穏やかに暮らす」というもの。目の前で両親を殺され、目の輝きと笑顔を失った妹を、守り抜くと決めたあの頃の気持ちに戻っていったのだ。

 

 するとどうだろう…

 

 彼自身も虚勢を張った「甲賀忍者をまとめる頭目、高坂甚内」から、「ゆりの心優しき兄、高坂甚内」に戻っていくではないか。

 

 甲賀の里や山を、まるで獣のように兄妹で駆け抜けたあの頃の彼に…

 

 

 いつの間にか鳥居をくぐり、広い参道へと入っていく。

 

 すると目の前の少女は参道からそれて、神社の森の中へと軽やかに消えていった。

 その背中を逃すまいと、甚内少年は口元に笑みを浮かべて、まるで追いかけっこの「鬼」を演じている気分で追って行く。

 

 それは、その森を抜ける一歩手前のこと。

 

 

 少女がぴたりと足を止めた。

 

 

 そこから二歩だけ後ろで、甚内も同じく足を止める。

 

 葉は全て木々から落ちて枯れ葉が積もる森の中は、大木の影に身を潜めながら二人だけの空間だ。

 甚内は声を上げず、じっと少女の背中を見つめていた。

 

 そして…

 

 少女はゆっくりと振返った…

 

 そこには…

 

 

 彼の『夢』があった。

 

 

 すなわち、春を思わせる満面の笑顔――

 

 

 その笑顔のまま、少女は唇を動かした。

 

 声は聞こえない。

 

 聞こえないが、言葉は届く。

 

 それは…

 

 

 

――おにいちゃん ありがとう




 その瞬間に一陣の風が吹くと、枯れ葉が宙を舞う。舞った茶色の葉は少女の姿を隠したが、彼にはその笑顔がはっきりと見えていた。

 しかしその姿が徐々に薄くなっていく。

 

――嫌だ… いくな… ゆり!


 そしていよいよ少女の姿が消えかかったその時。

 

 彼は一歩前に足を踏み出し、その手を長く伸ばそうとした。

 

 

 しかし…

 

 

――ガッ!!!



 急に呼吸が出来なくなったかと思うと、一本の腕が彼の首に巻きついてきたのだ。

 

 

「があっ…」



 短いうめき声が思わず口から漏れたが、それは口元に覆われた手のひらによって、外に響かなかったようだ。

 

 現実に戻され、冬の寒さを体が感じ始めたその時、彼の首に腕をからめてきた人が、彼の背後から耳元でささやいた。

 

 

「観念せよ。お主の負けだ」



 それは、霧隠才蔵。手負いのまま宿からこっそり抜けだした彼は、豊国神社の周囲を警戒にあたっていたのだ。

 その警戒の網に気付くこともなく、堂々と結城秀康が観賞している舞台の真後ろに位置する森の中へと侵入していった高坂甚内の後をつけ、まさに森から外へ出ようとしたところを、才蔵は止めたのである。

 

 その才蔵の言葉に、ようやく甚内は、自分がどこにいるのかを理解し始めたようである。

 ふと前を見れば、そこからは舞台と客席の様子が手に取るように分かった。

 

 もちろんそこには踊りを見入っている結城秀康がいる。

 そして既に甚内の侵入に気付いていると思われる男…すなわち筧十蔵が、鋭い視線を向けていた。

 

 しかし今の彼に十蔵はおろか秀康の姿さえも目の中央には入っていない。

 

 そう…

 

 彼の視線の中心にあるのは…

 

 いつも通りの光景。

 

 

 妹のゆりの姿だ。

 

 

 作り笑いすら見せずに、一人だけ真顔で踊る妹の姿を、甚内は食い入るようにして見つめた。

 

 その手の動き。足の運び。

 

 全てが愛おしく、彼が生涯かけて守りたいと願ってやまないもの。

 

 

――ああ… 美しい…



 舞台全体が見渡せても、その姿だけは浮かび上がって見える。

 

 彼の頬には一筋の涙が流れていた。

 

 その生温かなものを、彼の口元を抑えていた手の甲に感じた才蔵は、この時既に甚内の心情を理解していた。

 そして「この男もまた乱世に狂わされた哀れな人なのだ」と、同情の念すらわいていたのである。しかし彼の首に巻きつけた腕と口元を抑える手の力を抜くことはしなかった。

 なぜなら彼には聞きださなくてはならない事が山ほどあるからだ。

 しかし今はこの男の求める事を叶えてあげたい。

 手の甲に感じる温いものは、才蔵をそんな気持ちにさせていたのだった。

 

 

 ところが、『歴史の歯車』がそうであるように、『人生の歯車』は、残酷な運命をたどろうとも、その動きを止めることはない。

 

 

 それは本当に刹那的なことだった…

 

 

 踊り手たちが弧を描き、ゆりが秀康の目の前までいよいよ進んでくるその手前のこと。

 

 その時…

 

 高坂甚内の目が大きく見開かれた。

 

 なんと、ゆりが…

 

 甚内の方へと目を向けたのだ。

 そして、ニコリと笑顔を見せたのである。

 

 

 それは甚内が心から求めていた妹の姿。

 

 そして、ゆりの口が動いたのを、確かにその目にとらえていた。

 

 

――おにいちゃん ありがとう



 その言葉の意味すること。それが甚内に分からないはずはなかった。

 

 

「やめろぉぉぉぉ!!!」



 才蔵に口元を塞がれ、その声が誰にも届くことがないのを承知の上で、甚内は腹の底から叫んだ。

 一筋の涙はその瞬間に滂沱となり、全身から汗が噴き出す。

 

 頭と手足をちぎれんばかりに振り回し、どうにかして才蔵の手から離れようとする。

 しかし彼がもがこうとすればするほど、才蔵の太い腕は彼の首筋に食い込み、彼の意識を朦朧とさせていった。

 

 

 そして…

 

 

 一輪の花が舞い散るように、冬の風に乗って、ゆりは舞台の上から飛んだ。

 

 踊り手の真っ赤な着物が宙に鮮やかに映え、その細い手には一撃のもと、相手の息の根を止める鋭い刃物が、陽の光に反射して輝いている。

 

 あまりに突然の事に、結城秀康だけではなくその場の全ての人の反応が遅れ、秀康とゆりの間には遮るものが何もなかった。

 

 時はゆっくりと流れ、しなやかに地面に降り立ったゆりは刃を突き立てながら、二歩だけ先にいる秀康目がけて突進していく。

 あと一呼吸もすれば、秀康の腹には深々と鉄が突き刺さり、その傷は彼をこの世からあの世へと送るに十分なものとなるだろう…

 そう周囲の人は覚悟したに違いない。

 

 しかし…

 

 「いるはずもない者」が、ゆりと秀康の間に現れた――

 

 いや、既にそれはずっとそこにいたのかもしれない。

 はたまた、本当に降ってわいたように、突然その場に現れたのかもしれない。

 

 それを今考える必要はないだろう。

 

 事実として、秀康を守るようにして、その者はゆりの前に立ちはだかっているのだから。

 

 その人とは…

 

 透き通るような白い肌を持った少年――

 

 

 



かなり長くなってしまいましたが、次回が「長浜決戦」の最終回となります。


どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

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