弟よ!幸あれ!㊲長浜決戦(17)
◇◇
慶長11年(1606年)12月21日 午刻――
正午から半刻(およそ一時間)経ったその頃、三好伊三は乾いた冬の空気の中を駆けていた。
彼が目指す場所はただ一つ。
霧隠才蔵が体を休めているはずの、長浜の街で最も大きな宿の一室である。
しかし、麗らかな若い女の願いを叶えるべく使命感に燃えていた豊国神社を出たばかりの時と比べると、彼の心の中はこの日の青い空とは全く異なる、もやもやした曇り空の様相を呈していた。
無論それは、とある不安によってもたらされたものだったのだが、今彼が目にしている光景は、その不安が的中した事を意味していたのであった。
「あやつめ…無茶をするなど…柄ではなかろう…」
そのように伊三が口元に苦笑いを浮かべてつぶやいたのも無理はない。
なぜなら彼がその宿の一室に到着するやいなや、その目に飛び込んできたのは…
文字通りに「何もない」部屋…
つまり、そこには痛めた体を休めているはずの霧隠才蔵の姿がなかったのだから――
◇◇
霧隠才蔵が宿の一室から姿を消したその頃、淡海のほとりの幕の中では、真田十勇士の面々と高坂甚内の手下たちによる乱戦が繰り広げられていた。
しかし「乱戦」と表現するには、少々一方的とも言える戦況と言えるかもしれない。なぜなら幕の内を縦横無尽に飛び跳ねる真田十勇士たちに対して、高坂甚内の手下の忍びたちはその動きにかく乱されっ放しだったのだから。
しかし、それも無理はない。なぜなら高坂甚内の手下たちが皆、「単独での戦いを得意としない甲賀忍者たち」だからだ
彼ら甲賀忍者は、組織を束ねる指揮者の元で、集団で戦う術には長けているが、一対一の勝負は苦手としている。
その事を目ざとく見抜いていた同じく甲賀忍者の猿飛佐助は、「個」の戦闘能力に長けた穴山小助、由利鎌之介そして三好青海らを用いて、「各個撃破」するように采配を振るっていたのである。
そして、根津甚八と望月六郎の二人は、彼らの援護を担い、猿飛佐助本人と海野六郎の二人は、高坂甚内の手下たちに統制を取らせないようにその場をかく乱していたのだ。
一方の高坂甚内は、振るうべき采配を振るえずにいたのだが、それはこの状況に彼自身が混乱の最中にあったからという訳ではない。単純に、声を上げようにも、火薬玉の爆音によってかき消され、彼が手や目で指示しようにも、幕の中で充満した煙によって阻害される…つまり采配を振るおうにも、振れるような状況ではなかったのだ。
なすすべもない中、二十人以上いた彼の手下たちは、わずか八人の真田十勇士たちによって、一人また一人と戦闘不能に陥らされていく。
しかしそんな様子にも、意外なほどに高坂甚内は冷静であった。
「ぐぬっ…このままでは…しかし、俺にはまだやるべきことがある」
そう唇を噛みながらも、自分がこれから取るべき行動に心を傾けていたが、それは今目の前で倒れていく自分の手下の態勢を整えることではないようだ。
なぜなら彼は、なんと手下たちの事を「囮」として、「この幕の中から、自分一人で脱する」事に考えを巡らせていたのだから。
それも全て…
――結城秀康の暗殺を俺は諦める訳にはいかんのだ!
という強すぎる野望によるものであったことは言うまでもないだろう。
ところが彼のそんな考えは、猿飛佐助と海野六郎の二つの目は見抜いているようで、乱戦の中にありながらも、刺すような視線で高坂甚内の動きをけん制している。その為、すぐにその場から立ち去る事が出来ない事に、彼は頭を悩ませていたのだった。
…と、その時。そんな彼の表情を少しだけ明るくさせる者が姿を見せたである。
その者とは…
「騒がしいのう。どれ、一つこの俺が働いてやってもよいが…」
と、ニヤニヤしながら大きな体を揺らしている根岸兎角であった。
彼は愛用の棍棒を手にして、何かをねだるように高坂甚内を見下ろしている。
もちろんその意図が分からぬ甚内ではない。彼はその望みをすぐに叶えるべく、懐から銀を二枚手にした。
それを素早く掠め取った兎角は、いやらしい声を甚内に向ける。
「では、片付いたら…」
「三枚…」
「よし。仕方ないから、この騒ぎを収めてやろう」
「まずはあの場所に立つ忍び。あやつの息の根を止めてくだされ」
「ふん!俺に戦いを指示するとは偉くなったものだのう。まあ、よい。今回はその願いをかなえてやる!」
その条件に納得したのか、兎角は甚内が指示したその相手目掛けて、真っ白な煙の内側へと姿を消していったのであった。
その相手とは、敵方の指揮者である猿飛佐助。
乱戦において指揮者をつぶすことが上策であり、なおかつ自分へと向けられている注意をそらすことになることを、彼は冷静に見極めていた。
そして彼は、兎角の突撃に対して佐助が身構えた様子をしっかりと確認した後、「こうしてはおられん」と呟いて、再び幕の袖へと下がっていったのだった。
………
……
「佐助。甚内が袖に下がっていくぞ」
「ああ、分かっておる。袖の背中は淡海。こちらに来ずして幕の外へと出ることはかなわんはず…」
「では、やることは一つだな」
「ああ!」
背中と背中を合わせてそう言葉を交わした猿飛佐助と海野六郎は、そこまでで会話を切ると、勢い良く二手に分かれていった。
このうち佐助の方へと根岸兎角は向きを定めて追ってくる。
佐助は海野六郎をちらりと見ると、彼はコクリとうなずいた。
ーーこの場の指揮はお主に頼む!
その言葉は、佐助が口に出さずとも海野六郎に正しく伝わる。そして、六郎はなおも乱戦となっている舞台の中央へと駆けていった。
一方の佐助は客席の方へと降り立つと忍び刀を構えた。無論、根岸兎角を迎え撃つ為だが、いかに忍術に天賦の才を持つ彼とは言え、剣豪で知られた兎角とまともにやり合っても歯が立たないことは明白だ。
それでも彼は一歩も引くつもりはなかった。
なぜならそれは…
ーー俺の仲間を傷つけた報いを受けさせてやる!
という、佐助らしくもない、強い憤りに支配されていたからだった。
しかし…
その想いを佐助よりも強く抱いていた人物がいた。
そして、その人物は舞台の袖から兎角を目にした瞬間から、乱戦の中にあって、わずかに繋ぎ止めてきた理性を完全に失った。そして、力任せに、兎角に向けて、手にした武器を飛ばしたのである。
――ブンッ!!
まさに空気を切り裂くような不気味な音が兎角の首筋に吸い込まれていく。しかし、彼はそのわずかな風圧が肌に触れた瞬間に首をすぼめた。
すると頭上を殺気をまとった刃が通り過ぎていき、バサリという音とともに彼の髪が風と共に舞った。
「ちぃっ!横からとはこしゃくな!」
舌打ちをした兎角は、足先を佐助の方から刃の飛んできた方向へと向けると、そこに小柄な少女のようなその人物が目に入ってきたのだ。
それは、由利鎌之介であった。
鎌之介は得物である鎖鎌を振り回して、次の一撃に早くもその心を傾けている。
その様子に兎角は思わずくすりと笑いを漏らした。
「ははっ!なんだぁ!?てめえは!?てめえみたいな可愛らしいやつが、そんな危ねえもの振り回して大丈夫か?」
「何を言うか!無礼者!!俺は、才蔵の事を傷つけたお主を絶対に許さない!」
「才蔵?知らん名前だが…」
今にも爆発寸前といった様子の鎌之介に対して、とぼけた表情を浮かべる兎角。
そんな対照的な二人の様子をうかがっている佐助であったが、兎角は会話の中でもつけいる隙は一切見せない為、佐助は不用意に飛び込むことを躊躇っていた。
すると鎌之介が吠えた。
「なんだとぉ!昨日相手した者を忘れるとは!」
「ああ…あの自爆した頭のいかれた野郎か…」
「ぐぬぅ!才蔵を馬鹿にするな!!」
そんな鎌之介に対して何か思いついたのか、兎角は卑しい笑みを浮かべたのであった。
「おいおい!てめえ、もしかしてその才蔵の事を好いておるのか?」
「な、な、な、なにを言いだすかと思えば…!馬鹿ではないか!馬鹿!馬鹿!」
別の意味で顔を真っ赤にして動揺し始めた鎌之介を見たその瞬間を兎角は見逃さなかった。
「鎌之介!!来るぞ!!」
「ドン」と力強く地面を蹴る音がこだましたかと思うと、兎角の巨体はまるで音速のように鎌之介の目の前まで飛んできたのだ。
あまりの突然の事に鎌之介は赤い顔を、すぐさま青くさせている。そんな彼に向けて兎角は棍棒を振りかぶった。
「むんっ!!」
太い棍棒を力任せに振り回す兎角。一方の鎌之介は鎖鎌の柄の部分でその攻撃を受けとめようと待ちかまえて足を踏ん張っている。
…と、その時。
――シュッ!
と鋭く短い、空気を裂く音に、兎角はすぐさま反応した。
――カン!
振りあげた棍棒を音のする方向へ急転回させると、一枚の手裏剣がその速度をなくして、地面に落ちた。
それを飛ばしたのは佐助であった。彼は間髪入れずに兎角の死角へと回り込んでいく。
しかし兎角はその巨体の重みを感じさせないほどに軽やかに回転しつつ、佐助を見逃すまいと視線を向け続けていた。ところが佐助は兎角のことを死角から仕留めようとしている訳ではなく、彼の注意を鎌之介から逸らすことだったのである。そしてわずかに生じたその隙を鎌之介は逃さなかった。
鎌之介は手にした鎖鎌を狙いを定めて飛ばす。をヒュン」という音とともに、兎角の首へ一直線に吸い込まれていく。だが、兎角はそれを動物的とも言える本能で察知すると、寸でのところでかわした。しかし、鎌之介もまたたいしたもので、攻撃をかわされることを見越して、ニの手を作っていたのである。虚しく空を切ったその鎖鎌は鎌之介の巧みな操りによって、息を吹き返すと、見事にグルンと兎角の棍棒に巻き付いたのだった。
「とらえた!!」
思わず喜色を浮かべる鎌之介であったが、兎角の余裕の顔は全く変わらない。それどころか不敵な笑みを浮かべると、
「甘いっ!!」
と、獅子の如き咆哮を上げた。
しかし鎌之介も負けてはいなかった。
「強がるのもここまでだ!!」
そう声を上げると、棍棒に巻きつかせた鎖を右に左に振り、兎角の重心をずらそうと試み始める。
ところがまるで千年の大木のごとく太い兎角の足は、完全に地面に根付いているようで、びくりともしない。
しかし流石に素早い佐助の動きにまで気を回す余裕はないようで、いつの間にか佐助は兎角の死角へと入り込むと、その瞬間にその気配も完全に消した。
「こざかしい!!」
ついに怒りに身を任せた兎角は、なんと自身の手にした棍棒をそのまま鎌之介に投げつけたのである。
「えっ!?」
この予想外の事に、とっさの反応が遅れる鎌之介。しかし棍棒の勢いは止まることなかった。
――ドンッ!!
と鈍い音とともに、鎌之介の腹に直撃すると、鎌之介は思わず「うっ」とうめいて、その場にうずくまろうとした。
「まずは一匹!!」
まるで遊びながら鼠でも狩る猫のように、殺意と狂気を宿した瞳のまま、口元は裂けるかのように大きく広げる兎角は、腹の衝撃で動けなくなった鎌之介目がけて一歩踏み出したのである。
しかしその一歩を踏み出したその瞬間!
兎角の足に何かを踏んだ感触がした。
そして、
――ドカンッ!!
爆音が響いたかと思うと、
「ぎゃあああああああああああっ!!」
と、兎角の口から絶叫が天までこだましたのである。
それは埋火と呼ばれる、いわゆる地雷であった。兎角はそれが地面に置かれているとは気付かずに踏んでしまい、その瞬間に爆発したのだ。
そして、彼の踏み込んだその右足に、火薬玉の中に仕込んであった鉄片などが深々と突き刺さったのである。
あまりの激痛に耐えかねた兎角が今度はうずくまると気配を消して地面に伏せていた佐助が、ぬっと姿を現した。
「皮膚が裂けるその痛み…存分に味わうがよい。才蔵の痛みを知りながらな」
「てめえか!!余計な真似をしおって!!」
淡々と言葉を発した佐助に対して、恨めしそうな顔で言葉を荒げる兎角。しかし威勢がいいのは、もはやその口だけとなっていたのは、彼の血だらけになった右足を見れば明らかだ。
それでも懸命に上体を起こすと、まだ無事な左足で踏み込んで佐助にその拳を振り上げる。
しかしそんな彼の背後には、既に顔色を元に戻した鎌之介がいることに、逆上した兎角が気付くことがなかったのだ。
――ヒュン…
再び空気を裂く音が兎角に近づいてくる。
その刃の気配に兎角が気付いたその頃には、彼は背を向けたままであり、彼は剣豪としての「勘」をもってそれをかわすより他なかった。
「何度やっても同じ!!」
彼は叫びながら、二度とも狙われた頭を三度下げる。
その次の瞬間にはその頭上を刃が通り過ぎていくだろう…
そう思った瞬間だった…
――スパッ…
と軽い調子の乾いた音がしたかと思うと、兎角の大木のような左足の力が、まるで穴が空いた桶の中の水のように抜けていったのである。
「な、なに…」
思わずがくりと両膝を曲げて地面に落ちる兎角は、その体を支える為に両手もついた。
するとそんな彼の目に飛び込んできたのは、自分の左足のかかとの上の、鋭い刃がかすめたことによりつけられた一筋の傷であった。
すなわち鎌之介は、最初から兎角の頭ではなく、足元に狙いを定めて、見事に足首の腱を切り離したのだ。
これによってもはや彼の両足は朽ちた大木のごとく、巨体を支えるだけの力は残されていない。
さながら土下座をするような格好になると、佐助と鎌之介は並んで彼の目の前までやってきて、そんな彼を見下ろした。
その冷たい視線に対して、悔しそうに睨み返す兎角だが、その勝負は完全についているのは誰が見ても明らかだ。
「殺せ…」
絞り出すように兎角は無念の声を上げたが、佐助は首を横に振った。
そして残酷とも言えることを、相変わらず淡々とした口調で告げたのであった。
「その足が完全に元に戻ることはあるまい。お主も剣の道を極める身であれば、ここで死ぬよりも、満足に動かぬ足で生きる方が地獄の苦しみであろう。
しかしこれは報いである。人の命をもてあそび、平気な顔して相手を痛みつけたことへの報いだ。
人の命の儚さと尊さをその身で味わいながら、この後も生きるといい」
その言葉に兎角は噛みしめた唇を血で染めながら涙を流している。
そして、身も心も完全に砕かれた彼はそのまま、地面にうつ伏せとなって泣きじゃくり続けたのであった。
強敵との決着をついた事に、安堵したのか「ふぅ」と大きく息を吐いた鎌之介。しかし、ちらりと佐助の方を見ると、彼は既にその場にはおらず、もう次の事へと行動を移したようだ。
鎌之介はその切り替えの早さと、どこまでも厳しく勝利に気を抜く事のない佐助に感心して目を丸くした。
その時、そんな彼の背中に大きな笑い声が聞こえてきた。
「おう!どうやら終わったようだな!」
「ははっ!この勝負、俺の勝ちだな!甚八!」
「ちっ!まさか、本当に鎌之介が勝っちまうとは思わなかったぜ」
それは根津甚八と穴山小助の二人であった。
鎌之介は、ふと彼らの背後の舞台に目を向けると、二十人以上の高坂甚内の手下全員が、戦闘不能に陥ってうずくまっているのが見える。
そして、幕の中を完全に掌握した事を示すように、その入り口は三好青海と望月六郎が固め、舞台の中央には海野六郎が、未だに緊張を保ったまま周囲に目を配っている。
その様子を見ると、鎌之介でなくとも「終わった」と思い、全身の力がすぅっと抜ける心地よさに身を委ねることだろう。
そして、そんな気の抜けた鎌之介の口からは思わず文句が飛び出したのだった。
「やいっ!甚八!お主は俺が『負ける』という方に賭けたのか!」
「ははっ!そりゃそうだろう!あんな化け物にお主が勝てるわけもなかろう!」
「むむぅ!俺がもし『負けた』なら、俺の命はなかったかもしれないんだぞ!それに賭けるとはどういうことだ!」
「ははっ!安心せい!もし本当にやられそうな時は、俺の吹き矢でどうにかしてみせたというものだ!」
冬の青空の真下に、いつも通りの和やかなやり取りが戻る。
それが示す事はただ一つ…
――真田十勇士の完全勝利
ということ…
ところが、次の瞬間…
緩んだ彼らの表情が凍りつくことになる。
それは…
「いない!!高坂甚内が逃げたぞ!!!」
という舞台の袖へ様子を見に行った佐助の叫び声が、幕の中にこだましたからだった――




