弟よ!幸あれ!㊱長浜決戦(16)
◇◇
慶長11年(1606年)12月21日 午刻――
正午から四半刻(約三十分)ほど経ったその頃、三好伊三に連れられた結城秀康とそのお供の一行は、長浜のとある神社の境内の前に到着した。
真紅に塗られた大きな境内は、まるで出来たてかのように綺麗に磨かれているが、その様子からしても、いかにこの神社が長浜の民たちから愛されていることがうかがえるというものだ。
そして、その境内を見上げた秀康は、これまでにない程に上機嫌となって破顔したのだった。
「ここは、豊国神社ではないか!ははは!嬉しいのう!ここで踊りを観賞できるというのか!?」
秀康を上機嫌にした理由は単純で、その場所が「豊国神社」…つまり、彼の『父』である亡き太閤秀吉を祀った神社だったからである。
なお太閤秀吉亡き後、彼を祀った「豊国神社」は京の都だけではなく、秀吉ゆかりのこの長浜の地にも建てられている。まさにその神社に三好伊三は結城秀康を連れてきたのであった。
「ははは!!踊りや祭りの好きな父上であったからのう!
ここで俺とともに天から踊りをご覧になられるに違いない!
さすがは我が弟!よく分かっておるではないか!ははは!」
秀康にしてみれば、今回のことは、ここにはいない豊臣秀頼が全て手配したことと思っているのだろう。実際は霧隠才蔵の機転によるものであったのだが、伊三はそんなことなどおくびにも出さずに、にこにこしながら秀康に調子を合わせていたのだった。
当たり前だが、真冬の最中であるこの日も空気は刺さるように冷たい。
しかし今の秀康は「父」と「弟」を近くに感じている。その為か、寒さのことなど微塵も気にせずに、むしろ暖かな気持ちのまま境内をくぐったのだった。
そして、しばらく参道を歩いていく一行。
そんな彼らの前に、今度は一人の麗らかな女性が出迎えに彼らを待っていた。
それは、あかねであった。
彼女は霧隠才蔵に命じられて、彼が静養している宿から離れて、ここまで渋々やって来たのだが、ここに戻ってきたばかりの頃は、ずっと不機嫌そうにしかめ面をしていた。
だが彼女も言わば「役者」である。
今はその表情を一変させて、妖艶さを感じさせるような微笑みを携えているのだから、傍目から見ればその変わりように肝を抜かれるほどに違いない。そんな彼女は柔らかな口調で挨拶をした。
「結城秀康公でございますね。お待ち申し上げておりました。お席までご案内いたします」
「うむ。よろしく頼む」
そう変わらぬ表情で短く返事をした秀康。
するとあかねは、一行の先頭にいた伊三と入れ替わるようにして、秀康たちに背を向けた。
その一瞬のことだった。
彼女は伊三の手に小さな紙切れを渡したのだ。
もちろんその事を勘付かれることのないように、自然な振る舞いで一行を率いて歩き出すあかね。一方の伊三は最後方に回ると、誰にも見えぬようにこっそりとあかねに手渡された紙に書かれた文字に目を通した。
そこには…
ーー霧隠様 重体 宿で寝てる 心配
と、彼女の心情を表すような荒々しい殴り書き。だが、伊三はその字面を目にした時には、彼女が自分に何を求めているかを察したのだった。
「まったく…人使いが粗いのう…」
そうため息混じりに漏らした彼だが、その瞳にはとある事を決めたように光っている。
それは、才蔵の様子をあかねに代わって見に行くことであった。
彼がこの場を離れる判断をしたのは、ここから先には仲間の中でも、寡黙だが勇猛な筧十蔵の存在が大きい。すなわち、彼が怪しい者がないか目を光らせているならば、ここは一旦離れても問題ないだろう、そう考えたのだ。
そして、そう決めたその次の瞬間には、伊三はもう消えるようにその場を後にしたのだった。
しかし…
彼は…いや、それはあかねも十蔵も、全く知らなかった事がある。
席に着いた結城秀康の目の前にずらりと並んだ踊り手たち…
そんな彼女たちに混じって、一人の女性が死んだ魚のような瞳の奥に、どす黒い何かを渦巻かせていることに…
そしてその「百合」のような白い顔を、少しだけで紅潮させて、その時を虎視眈眈とうかがっていたことに…
◇◇
結城秀康が豊国神社に造られた仮舞台の前に設けられた席に着いたその頃ーー
高坂甚内の苛立ちは頂点に達そうとしていた。
それもそのはずだ。
ここに来るべきものが「二つ」も来ないのだから…
それは…言わずもがな、「結城秀康」と「踊り手たち」であった。
「一体どうなっているのだ…」
もちろん彼はこの淡海のほとりにあって、その両者の動向がつかめるように、一人ずつ彼の手下を監視に送っている。その彼らからの報せすらないのだ。
しかしその手下たちは十蔵と伊三の手によって、今頃は猿ぐつわの姿で物陰に隠されている。そんなことなど露知らず、高坂甚内は右足を小刻みに揺らして、舞台の袖にある控えで腕を組んで目をつむっていた。
そして、さらに四半刻(およそ三十分)経ったその時のことだった。
「高坂様。お耳に入れておきたいことがございます」
と、彼の手下の一人が、見覚えのない男を連れて高坂甚内の元までやってきたのだ。
高坂甚内はあからさまに不機嫌そうなものを顔に浮かべたままに、その男に口を開かせたのだが、その言葉に高坂甚内は飛び上がらんばかりに驚愕したのである。
その言葉とは…
「あれえ?今日はここにも人がおるのか?
豊国神社の方で越前卿が踊りをご鑑賞されていると聞いたが、てっきりここの者たちが演じている者だと思っておったのだがなあ」
というものだったのだ。実はこの男は長浜の町人で、たまたま豊国神社に向かう結城秀康の一行を見かけて、その向かい先を知っていたのだ。
高坂甚内は極力平静を保ってその男を幕の外まで送らせると、その姿が見えなくなった瞬間に表情を一変させて怒りをあらわにした。
「ぐぬっ!謀られたか!!しかし、一体誰が…!」
そう唇を噛んで顔を真っ赤にする高坂甚内。その彼の頭の中には、まんまと出し抜いて、結城秀康の身を確保したその人物に頭を巡らせていたが、すぐに二人の顔が浮かび上がってくる。
それは…
あかねと霧隠才蔵の二人…
「あやつらか!!ぐぬっ!人をこけにしおって…!!」
しかし彼も一代でどん底から這い上がってきたほどの人物だ。感情に任されっ放しで、歯ぎしりしているだけにとどまることはなかったのは、必然と言えるかも知れない。
「かくなる上は…あやつに働いてもらうより他あるまい」
と、沸騰した頭の中に、ばしゃりと冷水を浴びせるように、考えを切り替えたのだ。
しかし…
そんな彼に追い討ちをかけるような報せが飛び込んできたのだった。
「た、大変でございます!!高坂様!!
そう血相を変えて手下の一人が彼の元に転がるようにして飛び込んできたのを見て、悪い予感にさっと顔を青ざめさせた高坂甚内は、自身を落ち着かせるように低い声で返した。
「いかがした…?」
「風魔が… 風魔の連中が…」
「風魔がいかがしたのだ?」
そこで言葉を切った手下の額には、大粒の汗が珠となって浮かんでいる。それだけを見ても、大ごとが起っていることは確かであった。
そして高坂甚内は、どんな言葉を耳にしても動じることないように、心構えをしてその手下の言葉に耳を傾けたのだが、その手下から発せられた言葉は、そんな彼の構えをも突き破るほどの衝撃をもって彼に襲いかかったのだ。
それは…
「逃げ出し始めております!!」
というあまりにも短く端的な言葉…
しかし、その言葉に含まれた意味は、高坂甚内にとっては冷静に受け止めるには大きすぎるものだった。
「なんだと!?」
と、絶叫したその瞬間には、控えを飛び出して舞台の方へと突進していった。
その控えからは、舞台の中の様子をうかがうことは出来ないが、その音だけは聞こえてくる。しかし騒がしいのはいつものことなので、気にも留めていなかったのだが、それがあだとなった。
いつもよりは少し騒々しいとは思っていたのだが、それよりも「結城秀康と踊り手たちが姿を見せない」ということに気をとらわれ過ぎていた為に、気を配ることすらしなかったのである。
そして、舞台の端へと姿を現した彼の目に飛び込んできたその光景は…
衝撃的なものだった――
「ば…ばかな…」
なんと縄に繋がれているはずの真田十勇士の面々と風魔の者たちが、自由自在に動きまわっていたのである。
しかもそれだけではない。
真田十勇士の者たちに至っては、各々得物を手にして、高坂甚内の手下たちをきりきり舞いにしているではないか!
「はははっ!!いいねえ!この大博打!!負ける気がしねえ!!」
穴山小助が得意の槍をもって一度に三人を一変に相手しても圧倒しているかと思えば、その彼の背後を襲いかからんとした者たちが、ばたばたと倒れていく。
「はんっ!!小助!!油断は禁物だぜ!!」
それは根津甚八の吹き矢による援護であった。
高坂甚内は目の前で起こっている事が信じられずに、とにかく周囲を見回すと、舞台の右はじの床が、鋭い何かでえぐられている事に気付いた。
そう…それは昨日に霧隠才蔵の指示によって三好伊三が、大量の武器を埋めた場所だったのだ。根城への侵入に備えた高坂甚内は、この舞台にはわずかな見張りしか置いておらず、その隙をついた三好伊三が、舞台に忍び込んで細工をしたのであった。
一方の才蔵は、その場所を掘り易いように「くない」の先を鉤型にして、それを囚われていた真田十勇士に託した。
その「くない」を見事に由利鎌之介が手にして、彼の手によって武器が他の面々に手渡ったのであった。
そして、その細工は武器をしまうだけにとどまらなかった。
一か所しかない出入り口とは別の場所に、穴を開けやすく切れ込みを入れており、それを海野六郎が見事に暴いたのだ。
そこで彼は、猿飛佐助の機転のもと、武器をもたない風魔の者たちを巧みに誘導しながら、その切れ込みまで接近していったのである。
「六郎兵衛!!今だ!!」
「はっ!!」
海野六郎が大声で望月六郎に指示すると、彼は得意とする火薬玉を三つ同時に投げた。
――ドドォォォン!!
大きな爆発音とともに、大量の煙が幕の中を覆うと、海野六郎と風魔の者たちを囲っていた忍者たちは「ぐわぁっ!」という絶叫とともに、皆目を抑えた。
その火薬玉の中には、目つぶしとなるものが大量に入っており、投げつけた者たちに向けて飛散するように作られていたのだ。
こうして出来た一瞬の隙をついて、海野六郎は手にした「くない」で幕を裂くと、そこには人が一人通れるくらいの大きさの穴が、簡単に作られたのであった。
「今だ!先に逃げてくれ!!」
そう海野六郎が、風魔の代表者とも言える鳶沢甚内と庄司甚内の二人に声をかける。
するとあまり言葉を発することのなかった庄司甚内が、真剣な表情で返した。
「お主たちを置いて逃げよというのか!?それは出来ん!!」
冷酷と悪評高かい風魔の忍びとは思えないその言葉に、海野六郎は一瞬だけ面食らったように目を丸くしたが、ここで戸惑っている暇はない。
彼は庄司甚内の背中を押しながら言った。
「安心せよ!俺たちもすぐに退散する!」
「しかし…!」
そう言ってなおも食い下がる庄司甚内に対して、海野六郎は声を低くした。
「それに…俺たちには返さねばならぬ借りがあってな…」
「借り…?なんだそれは…?」
「庄司殿!もうよいではないか!ここは先に行くのが最善!武器ももたぬ俺たちは足手まといになるだけだ!!」
なおも渋る庄司甚内の腕を引っ張るようにしたのは、鳶沢甚内であった。
こうして彼らを含む十名ほどの風魔の者たちは、幕の外へと無事に全員が消えていったのだった。
そして、それを見届けた海野六郎は、再び舞台の方へと目を向ける。
その視線の先には、一人の男…
その男を刺すような目つきで睨みつけた彼は、引き続き低い声に憤怒の炎をたぎらせながら言い放ったのだった。
「俺たちの仲間を傷つけた男に、たっぷりと返さねばならんからな!」
その男とは…
高坂甚内――
真田十勇士と高坂甚内の、長浜決戦は淡海のほとりの舞台で幕を上げたのであった。
 




