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弟よ!幸あれ!㉟長浜決戦(15)

◇◇

 慶長11年(1606年)12月21日 亥刻(およそ午後十時)――


 霧隠才蔵が体を引きずりながら元いた宿の一室へと戻ってくると、そこに一人の人の気配があることに、彼は部屋の手前で気付いた。

 遠目に宿の姿をとらえた時から、無事にたどり着いた安堵感に浸っていたのだが、そんなぬるま湯から、一気に氷水を浴びたかのように心身を引き締める。そして、かろうじて動かすことの出来る右手に、「くない」を忍ばせておき、彼は一歩また一歩と部屋への襖へと近づいていった。


――先回りされたか…


 彼はじりじりとした緊張感を身にまといながら、這うようにして襖の前まで寄ってくると、そおっと襖を拳の広さほど開いた。そして中の様子をゆっくりとうかがった。


 すると才蔵の目に飛び込んできたのは…


 穏やかな微笑みを携えたあかねの姿であった――


 正座をして背筋を伸ばした彼女は、三日月から差し込む仄かな灯りに照らされて、まるで浮き上がるように凛とただずんでいる。


 彼女は才蔵の姿を見て、深々と頭を下げると、「おかえりなさい」と琴の音を思わせる清らかな声で彼を迎え入れる。


 才蔵は他に人がいないことを気配で確認した後、ゆっくりと部屋の中に入る。

 その直後の事だった…


 あかねは、才蔵を優しく抱きしめた。


 才蔵は、ふわりとした柔らかな感触と、金木犀のような甘美な香りに包みこまれる。

 それでも彼は冷静に彼女に問いかけた。



「なぜここにいる? 十蔵のことを手伝えと…」



 あかねは才蔵の言葉の途中で、彼に向き直ると、そのまま彼の口元に細い人指し指を添えた。



「理由など… お一つに決まっております」



 才蔵は口元にあかねの指の柔らかな感触を感じたまま、黙って彼女の瞳を見つめた。

 あかねの瞳には、「慈愛」のただ一つが浮かんでいる。


 彼女は続けた。



「才蔵様が心配で戻ってきたに決まっておりましょう」



 そしてあかねは、そっと才蔵を寝かせる。あかねの口にした理由なぞ、理由にもならない。それでも才蔵は自分でも分からない何かの働きによってその理屈を通したようだ。その事を示すように、彼は彼女に対して素直に身を預けて、全身の力を抜いたのだった。


 緊張が解けると耐え難い痛みが戻ってくる。それは才蔵の意識を刈り取るには十分なものだが、彼はすんでの所で踏みとどまっていた。別に気を抜いてしまって、このまま意識を彼方に飛ばしてしまっても構わない、そう思ってはいるのだが、もう少しこのままで居たいという「欲」が、彼の意識を細い糸でつなぎとめていたのだった。

 一方のあかねは、冷たい水を桶に張り、清潔な手ぬぐいを濡らして、才蔵の体を丁寧に拭いている。そして砕かれた左腕には添え木で固定し、腹から胸にかけては痛みを和らげる薬を優しく塗ると、強い衝撃を受けぬように柔らかなものを当てて、白い布でぐるりと巻いたのだった。


 手ぬぐいから伝わる水の冷たさが、温もりに変わる…


 その事に才蔵は、今まで生きてきた中で感じたことのないくすぐったさを覚えた。

 そんな感情に戸惑っているうちに、簡単ではあるがあかねによる治療は手際よく終わったのだった。



「随分と慣れた手つきだな…」


「ふふ…幼き頃より医者である父から手ほどきを受けておりましたので…」


「さようか」



 短い言葉のやり取りの後、再び二人の間は沈黙が流れた。


 その沈黙を破ったのは、再び才蔵の方だった。



「お主… これからどうするつもりだ?」


「才蔵様のお加減が良くなるまで側にいるつもりですが…」


「それでは明日もここにいる、というつもりか? 報酬はいらん、と申すのか?」


「ふふ…才蔵様。人には銀よりも大切なものがおありなのをご存じでしょう」


「はて…? 少なくともお主にとっては、銀よりも大切なものなど…」



 そう才蔵が言いかけた瞬間…


 再び才蔵の口が、柔らかいもので塞がれた。


 しかしそれは、人指し指ではなかった。



 それは…



 あかねの唇――



 三日月の明かりは、二人の影を部屋の床に映す。


 今その影は…



 一つになったーー



 しばらくした後、そっと才蔵から離れるあかね。



「今日、才蔵様のお命じの通り、踊り手たちを救いだしました。

その報酬として、もう少しこうしてお側にいさせてくださいませ」


「しかし…」


「ふふ…それこそが、銀よりも大切なもの…でございます」



 真冬の空気は厳しく冷たい。

 それは例え宿の部屋の中であっても同じことだ。

 しかし今、長浜にある宿の一室は、仄かな温もりに包まれている。


 その温もりこそ…


 あかねにとっての、何にも替え難い報酬だったのであった――



◇◇

 そして夜が明けた――


 慶長11年(1606年)12月21日 未刻(およそ午前十時)のこと。


 いよいよ…結城秀康が長浜の地に降り立った。



 越前からずらりとお供を引き連れており、その数、百はくだらない。その隊列の中央を、馬にまたがった秀康は堂々と道の真ん中を進んできたのだ。

 その様子は、長浜の民たちが道の端に寄って思わず平伏してしまうほどに、圧倒的な大物感を漂わせていた。



「おお!懐かしいのう!皆の者!!ここが亡き太閤殿下が初めて城持ちとなった地であり、この街の礎を築いたのだ!!未だに残る太閤殿下のご威光を、とくと感じるがよい!!」


――はっ!!



 秀康は上機嫌で号令をかける。そして、一瞬だけ冬の晴れ空を眩しそうに見上げると、精悍な顔つきに笑顔を浮かべながら、今宵の宿となる長浜城へと馬の首を向けたのだった。



………

……

 ちょうど同じ頃、高坂甚内もまた馬にまたがり、道を進んでいた。

 その傍らには、同じく馬にまたがり、高坂甚内よりも偉そうに胸を張る根岸兎角。そして彼らの前後には、総勢二十名ほどのかぶき踊りの奏者の格好をした高坂甚内の手下の忍びたちが固めている。

 その後ろには、さながら見世物のように、縄で繋がれたこれも二十名ほどの人が列をなしていたのである。

 その中に、猿飛佐助ら真田十勇士の面々はいた。

 さらに、鳶沢甚内や庄司甚内ら、風魔の者たちも同じく含まれていたのだった。


 多少の手違いはあったものの、概ね思惑通りに事が進んでいることに、高坂甚内は興奮を抑えきれないのか、その瞳を輝かせ、口元は緩ませている。


 もちろん彼らの向かう先は、淡海のほとりにある舞台。


 この時、高坂甚内は「全ての事が上手くいく」と信じて疑うことはなかったのは、当たり前と言えよう。


 しかし、真田十勇士の面々もまた、同じように「全ての事が上手くいく」と、半ば確信めいたものを感じていたのだ。


 言うまでもないことだが、頭の中で描くその結末は、両者の中では真逆のものであった。



………

……

 今年に長浜城の城主になったばかりの内藤信成から、歓待を受けた結城秀康が、その城からわずかなお供を引き連れて出てきたのは、正午過ぎのことであった。


 もちろんこの後の秀康の行く先は、ただ一つ。


 かぶき踊りが催される舞台だ。


 …と、秀康が悠々と長浜城の大手門を出た直後のことだった。

 


「越前卿!お迎えにあがりました!ささっ!どうぞそれがしの後についてきて下され!」



 と、いかにも旅芸人の一味のような風貌の小男が、ニタニタとした粘り気のある笑顔で、秀康の前に現れたのだ。


 それは、三好伊三であった。


 その伊三を見て、目を細めた秀康は、彼に問いかけた。



「お主が例の旅芸人の一座の者か?」


「へいっ!さようにございます」



 そう即答する伊三をじっと見つめていた秀康は、ちらりと横を見た。

 すると秀康の横にいた側近の一人が、伊三の前に進んで出てきた。



「では、それを示すものを出してもらおうか」


「はて?あっしは何も持ち合わせてなどおりませんが…」


「そんなことはないはずだ。出迎えの者には、こたびの越前卿のご鑑賞の手はずを整えた岡本大八殿の紹介状があると聞いておる」


「岡本大八様…でございますか…」



 その名前を聞いて、刹那的に目を光らせた伊三であったが、すぐさま元のとぼけた表情に戻して、「何のことやら」と頭をひねらせる振りをした。


 するとその様子を怪しいと感じたのか、秀康の側近が大きな声で「曲者め!ひっ捕らえよ!!」と、他のお供たちに命じたのだった。


 たちまち数人の屈強な武士たちに取り押さえられてしまった伊三は、地面に顔を押し付けられると必死に弁明した。



「お待ちくだされ!!あっしは旦那様よりここに越前卿のお迎えにあがることと、その際にとあるお方からの書状をお届けするように言いつけられておるだけでございます!

そのお方が岡本大八様とは聞いておりません!!」


「黙れ!!」



 するとその抑えつけていた武士の一人が、伊三の懐から、一通の書状を取りだしたのだった。

 それを目にした伊三の顔色が、さっと青ざめた。



「ややっ!それはなりませぬ!旦那様から預かった大切な書状で、越前卿に直接お渡しせよとのことなのです!」


「なにっ!?お主のような下賤の者が、殿に直接手渡しするなどありえるはずもなかろう!!この無礼者め!!」


「しかし…!!」


「ええい!!言い訳など無用!!どうせ、この書状も殿を騙す、偽の書状に違いない!!このようなもの!こうしてくれる!!」



 と、その武士が書状を引き裂こうとした瞬間に、秀康がその手を抑えた。



「まあ、よいではないか。どれどれ、偽の書状かどうか、この秀康が直接確かめてみようではないか」



 そう言って武士の手元から書状を受け取ると、秀康はさっとそれを広げた。


 その瞬間であった…


 今度は秀康が顔色をさっと青ざめさせると、次の瞬間には額に青筋を立てて、その目を激怒に燃やしたのだ。そして、取り押さえられた伊三の元まで、大股で近寄ると、取り押さえた武士たちも含めて、真っ赤にした目を向けた。その目のあまりの威圧感に、伊三を取り抑えていた武士たちは、その手を離して平伏する。伊三もそれにならって、同じく頭を低くしたのだった。


 秀康は「ふぅ」と大きく息を吐き、自分の昂った感情を落ち着かせているようだ。


 しかし…


 おさまりがつかないように顔を真っ赤にさせると、その足を大きく上げた。


――ドカリッ!!!


 そう鈍い音が空にこだましたかと思うと、一人の男が派手に吹き飛ばされたのだ。


 その男とは、伊三ではなく、なんと書状を引き裂こうとした武士だったのだ。つまり、結城秀康は彼を力任せに蹴り飛ばしたのである。


 そこまで秀康を激怒させたのには、列記とした理由があったのだが、それは、その書状の送り主にあったのである。

 そう… その送り主こそ…




 豊臣秀頼――




 しかし、なぜ自分が折檻を受けたのか訳も分からず、ぽかんと口を開いている彼に対して、秀康は唾を飛ばしながら怒声を浴びせた。



「おのれ!!無礼者はどちらの方か!!

ものを正しく見極めようともせず、己の先入観だけで、かようにも大事な書状を破ろうとする始末!!

ここが戦場なら、お主のその首と胴はとうに離れておるわ!!」


「も…申し訳ございませぬ!!」



 未だに意味が分からないままに、その場を取り繕うようにひたすら謝るより他のないその武士だが、未だに怒りのおさまらない秀康は、その場の全員に向けて言った。



「よいか!!この書状は、豊臣右府様(豊臣秀頼のこと)からのものである!!

俺に渡すように下賜されたこの者ならまだしも、お主らがこの書状をその手に触れることだけでも恐れ多いことだ!!

しかし、それを邪険に扱っただけにとどまらず、挙句の果てには送り主を確認しようともせず、偽の書状と決めつけて引き裂こうとする始末…無礼にも程がある!!

さらのその使者とも言えるこの男の言い分も聞かずに、その頭を力ずくで抑え込むなど、断じて許されんことだ!!

もしこの場に豊臣家の者がいたなら、お主らは全員この場で腹を切らねばならぬほどの、所業である!!」



 その秀康の言葉の瞬間、秀康のお供たちは一斉に頭を地面にこすりつけて小さくなった。ところがその様子などには目もくれず、秀康は伊三の前でかがむと、彼の手を取って、ゆっくりと立ち上がらせた。



「この者たちの無礼な振舞い、どうか許しておくれ」



 そう言って、伊三に向けてなんと頭を下げたのだった。

 あまりのことにどうしてよいか分からずに戸惑っている伊三に対して、秀康は嬉しそうに笑いながら続けた。



「この書状によると、お主らが何やら準備してくれておるようだな。

折角の『弟』からの誘いなのだ。謹んでお受けいたそう」



 そう…実はこの書状は、真田十勇士の面々が大坂城を発つ前に、豊臣秀頼が自ら持たせた書状であり、言わば彼らの『切り札』であった。

 

 それは…


――もし長浜にて敵の罠に越前卿がかかりそうな時は、この書状をもって、越前卿の身を預かるとよい


 という秀頼の考えによるものだったのだ。


 まさに今、その『切り札』が功を奏した。


 すなわち、本来ならば結城秀康は、高坂甚内の待ち受ける淡海のほとりの舞台に向かうはずであったが、この書状によってその行き先が変えられようとしていたのだ。


 ところがそれを諌めるように、秀康の側近が驚きの声をあげた。



「しかし、それでは折角の岡本大八様の骨折りが…」



 しかし、何よりも「家族」を大事にする秀康がそのような言葉に耳を傾けるはずもない。彼は側近に対してぎろりと鋭い視線を浴びせた。



「たかだか本多正純の家臣に過ぎぬ岡本何某の誘いと、我が弟であり、いまや右大臣の地位にある豊臣秀頼公の誘い… お主はどちらが大事と心得るか?」



 今にも斬りかからんとするばかりの殺気を漂わせた秀康の気迫に、側近の男は、あらためて頭を地面にこすりつけた。



「はっ!!申し訳ございませぬ!!」



 そんな彼に一瞥もくれず、秀康は伊三に向き直ると、「では、案内をよろしく頼む」と、穏やかな口調で声をかけたのだった。



 ここに高坂甚内の企みは全て破れた――



 しかし淡海のほとりで胸を躍らせながら待ち受ける彼は、この事実を知る由もなかったのであった。





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