弟よ!幸あれ!㉝長浜決戦(13)
◇◇
慶長11年(1606年)12月20日 申刻(およそ午後四時)ーー
既に陽は大きく傾き、空の色は橙色に変わったその頃。
長浜のとある場所で、筧十蔵とあかねの二人は翌日の為の準備をしていた。それは霧隠才蔵の考えによるもので、結城秀康の暗殺を阻止する為の準備と言えた。
そこには彼ら二人の他にも、数名の女性が作業を行っていた。
それは…
高坂甚内の元で働かされていた踊り手たちであった。
彼女らは翌日の結城秀康の暗殺の舞台で、全員が口封じの為にその場で害されることとなっているはずであった。才蔵らはそれを見越して、高坂甚内の根城からは離れた場所で集められていた彼女たちを救い出し、翌日のとある企みの為に十蔵とあかねの指示のもと、せっせと働かされていたのだ。
しかし彼女らの目は一様に命を救われたことへの安堵と、事が終われば故郷に帰ることが出来ることへの希望に満ち溢れていたのである。
さて、そんな中であった…
ーーカァ!カァ!
と、突然あかねの目の前の大木から、漆黒の鴉が飛び出したことに、彼女は顔を青くした。もちろんそのような事で動じるような清純な乙女ではない彼女であったが、顔を青ざめさせたのは、何か嫌な予感がしたからだった。
「筧様… ここをお任せしてもよろしくて?」
「…いかがした…?」
「いえ…なんでもございません… しかし何かよからぬ事が胸をよぎりましたので、一度宿に戻りたいのです」
「…さようか…」
それだけを呟いた十蔵はあかねに背を向けると、持ち場へと戻っていった。
あかねはその背中を見つめる。そして、ぺこりと頭を下げた後、元いた宿の方へと足を向けたのだった。
一度芽吹いた不安の蔓は、みるみるうちに彼女の心の中をがんじがらめにしていく。
「杞憂で終わってくれればよいのですが…」
そう彼女は願うようにつぶやくと、その足を早めたのだった。
………
……
あかねが宿の方へと足早に戻っていったその頃、薄紫色の空の下で、霧隠才蔵はとある一点目がけて疾風のように幕の中を駆け抜けていた。
しかしその様子は、はたから見れば、その中に無造作に生えている、ひざほどまでの高さの草花を揺らす風が吹いているようにしか思えないであろう。それほどまでに彼は足音と気配を消していたのである。それは「深草兎歩の術」と呼ばれるもので、両手を地面に置き、なんとその手の甲に両足を乗せて四つん這いのような形となって進む方法だ。足音を一切立てない進み方とされているが、驚くべきことに才蔵はその体勢でも人並み以上の速さで駆けることが出来たのだった。
さて、そんな彼がたどりついたその場所は、入口からは対角にある幕の角であった。近くには小屋の一つも見えるが、今は全ての忍びが小屋の中に入って才蔵を待ちかまえているようで、彼をとらえようとする影は一切見当たらない。
才蔵はその幕に背中をつけると、「トン、トン」とそれを右手の拳で軽く叩いた。
それは言わば「幕の外」に向けたものであったが、なんとその「幕の外」から「トン、トン」と叩き返す音がしたのだ。
――やはりこの部分の幕は二重であったか…
それは才蔵の思った通りのことだった。彼はこの辺りから猿飛佐助の足音を感じ、幕のこの部分が二重になっていることに気付いたのである。
つまり佐助たちは、小屋の中ではなく、この幕と幕の間に挟まれた場所に囚われていたのであった。
「みな無事か…?」
才蔵は用心深く中に向けて声をかける。
すると中から小さな声が聞こえてきた。
「無事だ。しかし、『来るな』と言ったのに、お主というやつは…
もうよい、ここにとどまっていてはお主まで危うい。
早く立ち去れ」
それは佐助の声であった。この後におよんでまで、彼は才蔵に文句を言い、そして才蔵の身を案じていたのだ。その事に才蔵は、ニヤッと笑みを浮かべた。
「そうさせていただきたいものだが… どうやらそういう訳にはいかぬようだ」
「おい…まさか…それはまずい!今すぐ逃げよ!才蔵!」
幕の中の声はいつの間にか、外にはっきりと聞こえるほどの大きさであったが、そこに忍びたちが集まってくる様子はない。
ただし、二人の男たちが、一歩また一歩と才蔵の姿をはっきりととらえながら近づいてきたのであった。
それは…
高坂甚内と根岸兎角の二人…
才蔵は少し幕から離れると、両足をぐっと踏み込んで彼らの視線を真正面から受け止める。そのあまりに豪胆な態度に、高坂甚内と根岸兎角の二人は、揃って口元を緩めた。
そして才蔵の目の前まで足を進めると、柔らかな声で高坂甚内が声をかけた。
「ようこそいらっしゃいました。
おや…? お客様は、昨日舞台をご覧になられていたお方ではございませんか。
かような場所まで、何用でこられたのでしょう?」
才蔵もまた肩の力を抜いて、穏やかな口調で答える。
「ああ…その舞台が思ったよりも良くてな。
友を連れて見に行こうと思っていたのだが、その友らがここらに迷いこんでしまったようなのだ」
「はて…? ここらにそれらしい方々はお見受けしませんでしたが…」
「そうか…それは残念だ。では、他をあたるとしよう。迷惑をかけたな」
そう言って才蔵は立ち去ろうという構えをみせた。しかし、彼にしてもすんなりとその場を去る事が出来ようとも思っていないし、そうするつもりもない。
それでも彼が入口にその足を一歩踏み出したその時であった。
「おっと。折角お越しいただいたなら、少し稽古の相手でもしてくれねえか?
見た所少しは腕に覚えがあるのではないか?」
と、高坂甚内と共にいた大男…すなわち根岸兎角が、才蔵の行く手を阻んだのである。
「才蔵!その男はだめ!微塵流の根岸兎角だぞ!」
幕の外から由利鎌之介の叫ぶような甲高い声が聞こえてくる。
すると才蔵はその声に反応するように、高坂甚内へ問いかけた。
「おや…? 俺の友の声がその幕の外から聞こえた気がするが、確かめてもよいか?」
「それがしは構いませんが、そこにおられる根岸様が、お客様と是非お手合わせしたいとおっしゃっておりますゆえ…それが『無事に』終わったあかつきには…というのはいかがでしょうか」
高坂甚内の言葉に才蔵は言葉で答えることもなく、兎角のことを見上げる。およそ頭一つ分は異なるその背丈だけ見てしまえば、その体格による有利不利は歴然だ。
それでも才蔵は不敵な笑みを崩すことなく、兎角へ冷たい視線を向け続けている。そして、つぶやくような低い声で言い放った。
「ほう…どなたかと思えば…『天下無双』と吹きながら、弟弟子に敗れ、無様にも尻尾を巻いて逃げ出した、あの根岸兎角殿ではないか。
かような所で稽古とは…よほど居場所がないとお見受けいたす。
まさに剣術家としての誇りなど『微塵もない』から微塵流と称されておられるのかな…」
その才蔵の嫌味を込めた言葉が終わらぬその瞬間であった。
――ブゥゥゥン!!!
と、才蔵の頭上をおぞましい音を立てながら、なにかがよぎったのだ。
思わず首をすくめた才蔵は、兎角から一歩飛び離れて、距離を取った。
すると額に青筋を立てた兎角が、口元を引きつらせながら口を開いた。
「口には気をつけろ。忍者風情が…」
「これは申し訳なかった…確かに気をつけねばならぬのう。
なにせお主は『負け犬』風情。人の言葉は通じぬかもしれんからな」
「てめえ!!!」
才蔵の言葉に完全に理性を失った兎角は、手にした金砕棒を大きく振りかざして才蔵に襲いかかる。その様子に高坂甚内は舌打ちをし、才蔵はニヤリと口角を上げた。
それはまさに忍法の一つ、「怒車の術」であった。すなわち相手をわざと憤慨させて理性を失わせて、自分の有利に事を進める、言わば話術のことだ。
兎角はその術にまんまとかかり、なりふり構わずに才蔵に殴りかかってきたのだった。
――ドンッ!!
兎角の振り下ろした棍棒をひらりとかわした才蔵。その棍棒が鈍い音を立てて地面に突き刺さると、地面がぐらりと揺れた。
才蔵は再び距離を取ると、その背後に高坂甚内が回り込んだのは、恐らく才蔵がこのまま逃げ去ろうとしていると彼が踏んだからであろう。そんな彼に対して、才蔵は甚内の事を見向きもせず、その視線は兎角に向けたままで語りかける。
「安心せよ。そう易々と逃げ失せることが出来るとは思っておらん」
「まだ稽古は始まったばかりでしょうからね」
「ああ、今度はこちらから打ち込ませてもらおう!」
そう言い残して兎角の懐へと飛び込んでいった才蔵の姿に、高坂甚内は目を丸くした。
なぜなら才蔵は「刀」で立ち向かっていったからである。
――馬鹿な…剣をもって剣豪に立ち向かおうなど、忍びとしては愚策だ…
しかし唖然とする甚内をよそに、才蔵は手にした忍び刀を全力で兎角に叩きつけた。
――キンッ!!
高い金属音が辺りにこだましたかと思うと、才蔵の刀はいとも簡単に弾かれる。
しかし才蔵は気にすることもなく、連続で叩きこんだ。
――キン!キン!…キンッ!
小気味よい音が辺りに響く。その音だけ聞いてしまえば、相当な腕前の剣客同士が激しく刀をぶつけ合っているように思えるが、実態は二人の表情を見れば明らかであった。すなわち必死な形相の才蔵とは対照的に、兎角の顔は涼しいままだったのである。それほどまでに二人の剣の実力は天と地ほどに開いていた。
それでも何合も刀をぶつける才蔵。そんな彼に飽きてきたのか、兎角は細い目をギラリと光らせると、才蔵の振りに合わせるようにして彼も棍棒をぶつけてきたのである。
――ガキン!!
先ほどとは明らかに質の異なる音が耳に障る。そしてその音と同時に、才蔵の軽い体は勢いよく吹き飛ばされたのだ。
「ガハッ!」
勢いよく背中から叩きつけられると、懐や腰に潜ませておいたいくつかの忍び道具が地面に散らばる。そして才蔵は思わず目を回したのだが、のんびりと倒れ込んでいる暇を兎角は与えなかった。
――ブンッ!!
と縦に振られた棍棒が、仰向けに倒れている才蔵の肩口に襲いかかってくる。
「むんっ!!」
と才蔵は体をひねると、「ドンッ!」とその棍棒が地面にひびをつけた。
それを見届けた後、素早く起き上った彼は、腕をぐるんと回し、自分の体が動くかを確認する。そしてまだ動くことを確信した直後には、再び刀を兎角に振り下ろしていったのである。
――キン!キン!…キン!!
同じように金属音が刻まれるが、兎角にとっては稽古にもならないほどに、ひどく単調でつまらないもののようだ。
再び才蔵の一太刀に合わせるように力を込めて棍棒を振るうと、「ガキン」と鈍い音とともに、ぐらりと才蔵の態勢が崩れた。
「せいっ!!」
そのかけ声とともに、兎角は、重い棍棒をあたかも木の小枝を扱うようにしなやかに才蔵の体へと吸い込ませていったのだ。
才蔵の顔色が、さっと青ざめる。
そして彼は心の内で素早く九字護身法を唱えた。
――臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前… 喝っ!!
それは伊賀忍者特有の自己暗示であり、己の肉体の限界を超越する為の呪術でもあったのだ。今の才蔵にとってはまさに必要なことであったのは言うまでもないだろう。
なぜなら…
――ドゴォォォォン!!!
「ぐはぁぁぁ!!!」
何かが爆発したかのような強烈な音が才蔵の腹から響いたかと思うと、彼は背後の幕まで吹き飛ばされたからだ。
布地とはいえ、決して柔らかくはない白い幕にめりこむようにして才蔵は叩きつけられると、「才蔵!!」という鎌之介の悲鳴がこだました。
再び彼の体から様々な道具が散らばる。中には生きた鼠もおり、逃げるように地面を走り去っていった。
――三本いかれたか…
激痛で目がくらむ中、彼は自分の体の中にその神経を巡らせる。どうやら三本の骨にひびが入ったようだが、幸いなことに内臓には深刻な打撃は加わっていないようだ。
しかし足の踏ん張りがきかない。
才蔵は幕にもたれかかるようにしながら、ずるずるとその腰を落としていった。
ところがそんな彼に兎角は容赦しなかった。
「はははっ!!まだまだぁ!!」
今度は丸太のような太い足を才蔵に向けて飛ばしてくると、彼にそれをよけるだけの回復はされていなかった。
――ドシャッ!!
と、まるで蛙が潰されたかのような不快な音が響くと、白い幕に才蔵の鼻と口から出た鮮血が飛び散る。
その瞬間に意識を飛ばした才蔵に、再び兎角の棍棒が襲いかかった。
「ぐおぉぉぉ!!」
本能からの叫び声をあげた才蔵は、側頭に吸い込まれそうだったその棍棒を左手で受け止めた。
「があああ!!」
もちろんその腕の骨が無惨に砕かれたのは言うまでもないことだ。そして腕を盾にしながらも、兎角の渾身の一撃は才蔵の脳を揺らした。
そして真っ白な幕を赤く染めたまま、才蔵は意識を失って倒れ込んでしまったのだった。
「もうやめて!!お願いだから!!」
幕の中から鎌之介の悲痛な泣き声が聞こえてくるが、それとは関係なしに兎角は完全に興ざめしてしまったようだ。
倒れたままぴくりとも動かない才蔵を見て、唾を吐きながら言い捨てた。
「大口たたいた割には大したことねえじゃねえか。まあ、よい。
おい!甚内!こいつの命はここで終わらせてもよいな!?
俺に向けてあれだけの事を言ったのだ。ここで命を助けたとあっては、俺の気が収まらねえ」
高坂甚内は、才蔵の見るも無残な姿を見て、どこか残念に思っている自分を不思議に感じていた。そして「はぁ」と大きくため息をつくと、兎角の言葉にコクリとうなずいたのであった。
その様子に、ニタリと口角を上げた兎角。一歩、また一歩と才蔵に近づくと、大きく棍棒を振りかぶった。
「俺を侮辱したことを後悔しながら、あの世へ旅立つとよい」
そう宣告してその両腕を振りおろそうとしたまさにその時だった。
「佐助… お主の師匠である出浦昌相殿の真似をさせていただこう」
と、ぼそりとつぶやいた才蔵は、仰向けになったと同時に、かっと目を見開いた。
そして、着ている忍び装束の上着をがばっとはぎ取ったのである。
そこにあるものを見て、兎角の顔が青ざめた。
「な…なに…!?」
「兎角殿!!逃げよ!!早く!!」
高坂甚内は頭で考えるより先に言葉が先走る。
なんとそこには大量の火薬玉が才蔵の体に巻きつけられていたのである。
「もう遅い!!」
ニヤリと笑みを浮かべた才蔵は目にも止まらぬ早さでそれに火をつけると、兎角に向かって飛びあがった。
「やめろ!やめろぉぉぉ!!」
兎角の恐怖におののいた叫び声がこだましたその瞬間…
――ドカァァァァァン!!!
という爆音とともに大爆発すると、辺りは白い煙に包まれたのであった…




