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弟よ!幸あれ!㉙長浜決戦(9)

◇◇

 慶長11年(1606年)12月20日 卯刻ーー


 いつも通りの時刻に高坂甚内は目を覚ますと、顔を洗いに行った。この習慣は彼が幼い頃から変わらぬもので、例え外が凍えそうな日であっても欠かすことなく続けていることだ。

 この日も朝から体の芯を冷やすほどに寒い。しかし彼は薄着のままに根城の台所までくると、そこの水瓶から水をひとすくいして、顔に浴びたのだった。

 そしてこの洗顔の後は、決まって部屋に戻って瞑想をする。

 ここで彼は毎日思い起こすのである。



 彼の『夢』を…



 それはまだ野山を駆け巡っていた幼い頃のこと…年で言えば天正十三年(1585年)の三月のこと。

すなわち織田信長が明智光秀の凶刃によって斃れてから二年の月日が経ち、小牧の役が終わった事でようやく天下の行方は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉のこと)に委ねられる、そんな様相を漂わせていた頃のことである。


 羽柴秀吉は新たな秩序作りの一環として、紀州攻めを敢行する。


 それは「不可侵」と暗黙に定められていた寺社仏閣の支配をも、武家である羽柴家が自在であるという事を天下に示す、言わば見せしめのような意味合いが強いものであった。すなわちこの時、寺社の中では最大級とも言える領土と武力を誇った根来と雑賀を制圧する戦いだったのである。


 その集大成とも言える、太田城攻めに関して、大坂から…すなわち羽柴秀吉から、甲賀衆に協力の要請が下っていた。

 もちろんこれよりも以前から甲賀に対しては大坂側からの協力要請は、再三再四に渡ってなされていた。しかし、甲賀五十三家の一つである多羅尾家が、徳川家康の「伊賀越え」の成功に加担した後は、羽柴家よりも徳川家に対しての協力を優先させてきたのだ。

 これより一年前に、小牧の役にて、羽柴家と徳川家の武力衝突があった関係もあり、およそ二年前から始まった大坂の紀州征伐には、甲賀衆としては積極的な加担はしてこなかった。

 このことは羽柴秀吉にとっては全く面白くないことであったのは、言うまでもないであろう。


 その点において甲賀から山一つ越えた地に勢力を持つ伊賀衆は上手く立ちまわっていたと言えよう。

 彼らは服部半蔵正成という伊賀上忍三家のうちの一人を徳川家康の側近に送り、その地位を固めつつも、個々においては羽柴秀吉からの依頼にも対応していたのである。


 あくまで「組織」としての意志決定を優先する甲賀衆に対して、「個人」に意思決定の多くを委ねている伊賀衆との差はこうして生まれていたわけだった。


 しかし甲賀衆が次代の天下人と恃んでいた徳川家康が、羽柴秀吉の傘下に加わる形で和睦をすると、彼らの立場は急速に怪しくなっていったのである。



――もはや選択を誤る訳にはいかぬ…



 この考えは甲賀衆の誰しも胸に秘めており、幼い高坂甚内にも大人たちの、どこか険しいものを抱えた顔色に、言い得ぬ不安を感じていた。


 そんな中にあって大坂方から下された協力要請は、言わば「脅迫」とか「最後通告」といった意味合いの強いものだったのである。その内容とは…



――雑賀の太田城攻めには、どでかい堤防を作る。その際には、甲賀の持てる財を全て投げ打って協力せよ



 というものだった。


 なお、この太田城とは、水を恃みとした要塞であり、雑賀にとっては最後の頼みの綱とも言える城と言えた。羽柴秀吉は、その太田城の周囲に広大な堤防を作り、「水で守られた太田城に対して、水を持って攻める」という、天下の誰もが驚愕し、羽柴家に畏怖を抱かせるような作戦を敢行しようとしていたのである。


 その堤防作りに甲賀衆は協力を余儀なくされようとしていた。しかも彼らの抱えていた財を全て費やすように命じられたのだ。

 この要請に対して、甲賀衆は一枚岩となって協力するという事はかなわなかったのは想像に難くなく、甲賀五十三家と呼ばれるそれぞれの家長の大人たちが夜な夜な集まっては、激しい討議を繰り返していたのだった。

 当然のように「羽柴筑前(後の豊臣秀吉のこと)に持てる全てを捧げるべし」、という意見が大半を占めていたものの、中には「寺社に対して非情なる攻撃を加えるなど、かの織田右府と変わらぬ所業。必ずや天から鉄槌が下るに違いあるまい。かくなる上は、根来や雑賀とともに戦うべし」という過激な意見まで飛び出してくる始末。


 しかし彼らには熟考をする時間など残されていなかった。


 要請が下ってからわずか五日の後には、甲賀衆は太田城を遠くに見える場所まで、大坂方の一員となって集まっていたのであった。


 この時、高坂甚内はまだ幼く、堤防作りには参加していない。


 しかしその顛末だけは今でもはっきりと覚えている。


 それは…


――甲賀が作った場所から崩れて水が漏れたそうだ…


――羽柴家の威信をかけた大事業に泥を塗ったとのことで、甲賀は御咎めを受けることになるらしい


 といった、大人たちの戦々恐々とする不安の声だった。


 その言葉の通り、太田城を囲う堤防の一部が、堤防内に注水する前に決壊したのだが、そこを担当したのが甲賀衆であった。

 その決壊が故意によるものなのかどうかまでは定かではないが、まさに高揚する戦意に水を差された形となったことに、羽柴秀吉は文字通りに顔を真っ赤にさせて嚇怒したというのだ。



 そして大人たちが恐れていたことはついに現実となる…

それはこの年の夏前のこと…



――甲賀衆はその領地を全て羽柴家に差しだすこと。以後は農地を耕す民として暮らすように!



 という非情な宣告が下されたのであった。


 後世に言う「甲賀ゆれ」はこうして起った。


 無論、多羅尾家を通じて徳川家康に対してとりなしを求めたが、その裁定は覆ることもなく、みな一様に涙を流しながら、代々守ってきた土地を手放したのであった。


 高坂甚内とその家族もそのうちの一つであったことは言うまでもない。


 しかし彼の父は、甲賀忍者としての誇りを捨て切れなかった。それは、いわゆる「甲賀古士」と呼ばれる者たちのうちの一人であったのだ。

 彼ら家族は耕す土地を持たず、立身を『夢』見て諸国を放浪した。

 ところが彼らを待ち受けていたのは、より一層過酷な運命であったのだ。つまり、『闇』の社会に身を落とされ、『暗躍』でしかその身を保証されることはなくなっていたわけである。

 そして、そのような仕事を続ければ、いつの間にか敵も多くなる。

 中には甲賀出身の者たち同士での争いも、闇の中では起ることもまれではなく、それを耳にするたびに高坂甚内は心を痛めていた。

 そしてついにそのその時がやってきた…

 それは、高坂甚内の父と母もまた、高坂甚内少年と、その幼い妹を残して、その闇の中で誰に知られることもなく葬り去られたのだ。

 その後、高坂甚内はただ生きる為に、その身を闇の中でもさらに深淵の闇と言える場所…すなわち盗賊の社会へと落としていったのであった。



――光のあたる故郷に戻りたい…



 それこそ彼の『夢』であった。


 彼は甲賀忍者の全てがその地位を取り戻すといった大それた野望など抱いてはいない。


 ただ単純に、甲賀の郷でみなが笑って過ごしていたあの幼い頃のように、故郷で幸せに暮らしたいと願っていただけだったのである。


 しかしそれがかなうということは、もはや彼が自力でこの闇から抜けださなくてはならないことを意味していた。


 それがもうすぐかなう…


 彼はそう確信していた。その為に今一度だけ、自分の血ぬられた刃を、結城秀康の血で濡らすことを決めていたのだった。


 ではなぜ彼はそうまでして、光を求めたのであろうか。


 その答えを示す人が、彼が瞑想を続ける中、その部屋のすぐ側まで、音も立てずにやって来たのだった。



「兄上…朝げの支度が整いました」



 それは細い女性の声だった。その声に、ぱっと目を開けた高坂甚内は優しい声で答えた。



「うむ。今行く」



 高坂甚内はそう短く返事をすると、部屋の外へと出る。すると、そこには先ほど声をかけた若い女性がひざまずいていた。確かに美しいその顔立ちだが、そこには表情は一切なく、色のない瞳で彼を見上げていたのだ。それでも彼は愛おしいように彼女を見つめて、その名前を呼んだ。



「ゆりよ…お主も共に来い」



 その名前の通りに、ササユリのような白い顔のまま、彼女は頷いて、高坂甚内の背中についていったのだった。


 このゆりという女性こそ、彼と共に残された高坂甚内の妹である。


 彼女は故郷にいたその頃はよく笑い、誰からも愛される少女であった。

 しかし、甲賀ゆれが起った後、彼らの父と母が無惨に殺されるのを目の当たりにしたその日から、その顔に色を失ってしまったのである。

 高坂甚内はそんな彼女を必死になって守り、育ててきた。彼なりの愛情を惜しみなく注いできたのだ。ところがそれでも彼女の顔から笑顔が戻ることはなかった。


 そう…


 高坂甚内の『夢』…


 その源は…



――必ずゆりの笑顔を故郷で取り戻してみせる

 


 ただこの一点であったと言っても過言ではなかったのであった。



◇◇

 同日 辰刻(およそ午前八時)――


 長浜の街に活気が出始めてきたその頃。

 霧隠才蔵らがいる宿の一室だけは、まるで真夜中のようにひっそりとしていた。

 なぜならその部屋の中にいる彼らが前夜は夜通し動き回り、次なる行動を起こすまでのわずかな時間を休息の時間にあたるべく、夢の中で過ごしていたからである。


 ところがそんな中にあって、今か今かとその時を待ちかまえている者がいた。


 それは、この部屋の唯一の女性である、あかねだった。


 彼女は、すやすやと寝息を立てながらも、その全神経を背中にいる霧隠才蔵と筧十蔵の二人に集めていた。


 そしていよいよその時がやってきたことに、口角がおのずと上がってしまうことを、彼女は抑えきれなかったのである。

 「その時」とは、すなわち「霧隠才蔵と筧十蔵が完全に寝静まった時」であった。

 それを待って、彼女にはすべき事が残っていたのだが、そのことなど露とも知らず、背中の二人は静かな寝息を立てている。

 この部屋にはもう一人、大けがを負った三好伊三の姿もあるが、もはや昏睡状態の彼にいたってはその呼吸すらあやしいのだから、気にする必要などないだろう。


 今一度彼女は才蔵と十蔵の呼吸に耳を傾ける。

 その耳に入ってくるかすかな音から、彼らの眠りが相当深いことを意味していた。


――これならばそう易々と起きることはないはず

 

 そう確信しながらも、彼女は細心の注意を払って、そっとその身を起こす。

 そして今度はその目で彼らの様子を確かめることにした。


 その目に飛び込んできたのは…


 完全に寝入った彼らの姿だった…


 すくりと立ち上がった彼女は、あらためてニヤリと笑い、冷たい視線を彼らに浴びせる。


――フフ…これが最後に見る夢になるかもしれません。今はぐっすりとおやすみなさい


 そう心の中で声をかけると、襖を開ける音すら全く立てずに部屋を後にしたのだった。



………

……

 当たり前ではあるが、冬の最中にあってこの日も空気も廊下も冷たい。


 しかし前日同様に、彼女はそんなことなど気にすることもなく、むしろ興奮に頬を赤らめて、目的の場所へと足早に進んでいった。


 そしてついにその目的の場所…すなわち彼女の伝達役である、額に大きな傷を負った男を呼び寄せる、(かわや)までたどり着いた。


――リン…


 腰帯に潜ませていた鈴を鳴らし、素早く紙と矢立てを取り出す。

 そして、その紙にすらすらと流れるように細い字を走らせると、「今日、未刻。残りの二人は、仲間を取り戻しに忍び込むとのこと。背中に傷を負った者はこちらで始末する」と素早く書き上げた。


――フフ…これで残り銀五枚は、明日にでも手に入るというわけですね


 こと金銭のこととなると、愛くるしささえも感じる無邪気な笑顔を見せるあかね。思わずほころんだその顔をそのままに、彼女は来るべき相手を待っていたのである。



 しかし…



 いつまで待ってもその相手は姿を現すことはなかったのだ。


――リン…


 怪訝に思った彼女は「聞こえなかったのだろう」と、さしてその事を重く考えることもなく、もう一度鈴を鳴らす。

 ところがその鈴の音を持ってしても、伝達役の男が姿を見せることはなかった。


――リン…


 再度鈴が寒空に鳴り響く。しかしそれは虚しい余韻とともに、晴天の空の中に消えていくばかりであった。


 この時…


 ようやく彼女は、はっと気付いたことがあった。


――まずい!気付かれたか…!


 そう顔色を変えて振返ったその目に飛び込んできたのは…



「いかがしたのだ? 廁で足すべき用を足してはいないように思えるのだが…」



 と、見る者の肝を縮ませるには十分すぎるほどに不気味な笑みを浮かべた霧隠才蔵…


 その人懐っこさを感じさせる口元とは裏腹に、その目はどこまでも冷たく、彼女の心を凍りつかせたのであった…





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