弟よ!幸あれ!㉖長浜決戦(6)
◇◇
既に時刻は戌刻(およそ午後七時)を回っていたその頃――
霧隠才蔵の冷酷な視線に対して、鳶沢甚内は床を見つめてうつむいたままに、彼らが結城秀康の暗殺を企てている一座から逃げ出してきた理由を語り始めた。
その出だしは、才蔵にとってあまりに衝撃的なものだったのである。
「それがしたちにとって、風魔小太郎様は全てでした…風魔小太郎様亡き後の風魔一族にもはや身を置くことが苦しくてならなかったのです…」
この言葉に才蔵は言葉を失う。
――風魔小太郎が、この者たちの全てだった…
この感情は彼には十分に共感出来るものと言えた。なぜなら彼自身も、遠い江戸の地で風魔小太郎が処刑された事実を耳にした時は、思わず立っていられないほどの虚無感を覚えたからであった。
無論、彼の場合は「風魔小太郎は自分にとっては他人である」というくくりを超えるものではなく、その翌日にはいつもの彼に戻って任務にあたった。
しかしそれでもあの時に感じた絶望にも似た喪失感は、もし彼が風魔に身を置くものであったなら、計り知れないものがあったであろうことは容易に想像がついたのだ。
鳶沢甚内はそんな才蔵の様子を見ることなく、視線を下に向けたままに続けた。
「もはや何をするにも手がつかず…さながら死んだ者のように、何も感じることなく日々を送っておりました。それでも時とは無情なものです…
季節が過ぎるとともに、自分の中の『生きたい』という強い感情は、そのまま『何か行動をしたい』という気持ちに代わっていったのです。
そこでそれがしとここにいる庄司甚内は、心に決めたことがございました。
それが『商売をしよう』ということです」
「商売…」
意外な言葉が甚内の口から出たことに、才蔵は驚きの声がもれた。その口調と視線には、既に先ほどまでの冷酷さはなく、むしろ同情すら感じられる。その事に安心したのか、鳶沢甚内は顔を上げて続けた。
「風魔小太郎様は、囚われる直前に、泰平の世を予感され、忍び稼業から足を洗って、江戸での商売に精を出されようとしておりました。
今でもその時の『今まで人を騙してきた分、残りの人生は人に尽くす事をしたいものだ』と笑顔を見せておられたのを忘れません。
その風魔小太郎様が亡き今、それがしらはその遺志を継いで、商売を始めようと江戸に軒を構えたのでございます。
しかし…」
「それを邪魔する者が現れた…と…」
「はい…それが高坂甚内なる者でした…」
「その男が、あの一座の座長…ということか…」
「はい、おっしゃる通りでございます。あやつはその一味を引き連れて、度々店を訪れては、商売の邪魔をしてきました。そしてその度に『もし俺の元で引き続き忍びとして働くならば、ここで店を構えることを許そう』と言い捨ててきたのです」
「町奉行はいかがしたのだ? そこまであからさまならば、取り締まりも厳しく行ってくれるであろう」
「いえ…どうやら高坂は幕府の重臣とつながりがあるようでして、どんな狼藉を働いても、全くの御咎めはございません」
「幕府の重臣…」
「はい…それがどなた様であるかは、それがしには分かりません。しかし、あまりに酷い妨害に、もはや商いを続けることは難しくなっておりました。
そんな時でした。『大きな仕事がある。この仕事が上手くいけば、もう手出しはしないと約束しようではないか。ついては今回だけは力を貸してくれ』と高坂が自ら必死に頭を下げてくるではありませんか。
それがしは、どんな仕事なのかも知らぬままに、『この仕事が終われば、手出しはしないのだな』という事に念を押して、渋々旅芸人に扮したその一座に身を置いたのでございます。そこにはかつての仲間たち…すなわち風魔の者たちばかりがおり、懐かしく感じました」
淡々と鳶沢甚内の独白は続いていく。
この時点で、もはや彼らの事を疑う者は、才蔵も含めて誰一人としていなかった。それほどまでに、悔し涙をこらえ、肩を震わせながら必死に続ける鳶沢甚内の姿は、彼の胸の内の真実を映していたとしか思えないものなのであった。
「そこでその『仕事』が何であるかを知った…ということか?」
「はい。それを知ったのは、長浜の地にたどりついた後でした。
長浜で仮舞台と根城となる小屋の設置を終えた後に催された酒宴の場で、『とあるお方を亡き者にする』と告げられたのです」
「それが…越前卿…」
鳶沢甚内は才蔵の問いに対して、コクリと頷いた。
「どういう経緯でそうなったのかは分かりませんが、越前卿は長浜の地に到着された後、高坂の座の演舞をご見物なされることになっております。
その演舞の途中で、一斉に襲いかかれ…そう手はずを聞かされたのです」
「そこで良心の呵責に耐えかねて、一座から逃げ出した…と」
「はい…実はこの事は踊り手である、あかねらには伏せられていたのです」
「なぜなら、踊り手たちも口封じの為に、皆殺しにされる手はずだから…か?」
次々と的確に言い当ててくる才蔵の言葉に、鳶沢甚内は目を丸くして、再び首を縦に振る。その他の面々も皆驚きの表情で才蔵を見つめていた。しかし才蔵自身はそんな視線ことなど、全く意に介することなく続けたのだった。
「しかし、そこのおなごは、何らかの拍子にその手はずを知ってしまった…と」
「はい…おっしゃる通りにございます。ところがその事が高坂の耳に入り、それがしはあかねを誅するように、あやつから命じられました」
「だが、元よりこれ以上は高坂に手を貸すつもりはなかったお主らは、そのおなごを連れて逃げ出したという訳か」
そこまでで会話を切って、大きく息を吐いた才蔵。
この場にいる全員が鳶沢甚内の姿に胸を打たれ、その言葉に一点の曇りも抱かずに信じているようだ。
もちろん才蔵も今までの話しに偽りを見出すことはなかったのだが…
大小いくつかの違和感が、胸のしこりとなって現れたのだった。
その中でも、最も大きな違和感について彼は問いただすことにしたのである。
それは…
「お主らは…あの少年と訣別出来たというのか…?」
ということだった。
この時の「あの少年」とは、言うまでもない。
その一座の一員であり、心身ともに鍛え抜かれた才蔵がその姿を見ただけで、意識を失いかけた「あの少年」のことだ。
その姿は、風魔の象徴…
すなわち風魔小太郎そのものだったのだから…
しかし、鳶沢甚内と庄司甚内の反応は、才蔵にとっては意外過ぎるものだった。
いや彼らが何か過剰な反応を示したのではない。
むしろその逆だった。
そう、彼らは…
無反応だったのだーー
「えっ…?」
思わず才蔵の口から、意表を突かれた際に喉から無意識のうちに発せられる音が漏れる。
ところが鳶沢甚内たちは、ますます眉間の皺を深くして、才蔵を不思議そうに見つめていたのである。そして彼らは口々に言ったのであった。
「少年など一座にはおりませんが…みな腕に覚えのある風魔の男ばかりで、皆一様によい歳にございます…」
「ばかな…!そんなはずはない!十蔵!お主もその目にしたであろう!舞台の隅で笛を吹いていたあの色白の少年のことを!」
「確かにいた…」
「ほら!聞こえたであろう!確かにその少年はおるはず!!」
「しかし…全く身に覚えがないのです…」
ーーなぜだ!? 一体どうなっておるのだ!?
才蔵の頭の中は、にわかに混乱が生じ始める。
ーー誰の記憶に残すことなく、その場所に居続ける…そんなことが出来るはずもない…
それは、至極真っ当な考え。
しかしその「真っ当さ」さえも否定する…言ってみれば、自然の摂理を超越することすら、その少年は可能とするのか…
そのように心の中で思うと、『恐怖』の感情が、真っ黒な雲となって才蔵の胸を覆い始める。
そんな彼の胸の中心には…
『慈愛』に満ちた微笑みを浮かべる純白な少年の姿…
そう…彼は「才蔵少年」だったあの時と全く同じものを感じていたのである。
それは、『恐怖』と『慈愛』が同梱した縮図…
まさに陰陽太極図そのもの――
…と、その時であった…
「もうよいであろう。これ以上、時をかける訳にもいかん」
と、佐助がばしゃりと水をかけるように、その場を再び仕切り始めた。
その声でようやく我に返った才蔵。
「待て…!まだ聞きたいことが…」
と、前に進もうとするその場の流れを遮ろうとしたが、佐助は首を横に振って、彼を制した。
「もう時がないのだ。それに、皆もこの者たちが信頼に値すると分かったであろう。それだけで今は十分だ。これ以上、才蔵一人の興味本位に付き合っている場合ではない。
こたびの作戦が終わった暁には、なんなりと聞けばよい」
その佐助の言葉に、才蔵は目を丸くした。
「作戦…だと…?」
才蔵の問いに、佐助は皆を見回して、声を大きくして告げたのだった。
「今宵やつらの根城に夜襲をかける!!」
それはあの仮舞台の観客席で、才蔵がかたく決意した事とは、真逆のこと…
つまり「守る」ではなく「攻める」を選択するということを意味していたのだ。
そして才蔵は頭で考えるより前に、本能の赴くままに叫んでいたのだった。
「ならん!それだけは絶対にならんぞ!!」
と…
………
……
その日の丑刻(午前二時頃)――
長浜の街で一番大きな宿屋の一室に、一人の男が寝転び、その横には愛用の火縄銃を手入れする男が座していた。
寝転んでいる男は、もう一人に背を向けたまま問いかけた。
「なぜお主は行かなかった?」
問われた男は、手にした手ぬぐいで銃身を優しく撫で続けている。その手を止めずに、短く答えた。
「…俺の得物では、役に立たん。音が大きすぎる…」
むろんここで言う「得物」とは、今優しい手つきで手入れをしている銃のことを指しているのであろう。
雲の薄くなった場所から、月がほのかな光を部屋の中へと差し込む。
すると銃を愛でているその男の端正な横顔が浮かび上がってきた。
それは…
筧十蔵であった。
そして寝転んでいる男は…
霧隠才蔵その人だったのである。
彼らは他の仲間とは離れて、この宿で静かに一夜を過ごそうとしていたのは、これよりおよそ半刻前に、才蔵は茶屋の一室で佐助から一喝されたからであった。
――かように胸に「恐れ」を抱いている者など、戦場では何の役にも立たん!!才蔵には、ここで降りてもらおう!!
「俺が恐れている…か…」
その事を思い起こした才蔵は、天井を見上げながらつぶやいた。
彼はこの日の疲れもあってか、朦朧とした意識の中、自分の感情を整理していた。
――恐れてなど…おらぬ。しかし…対峙したくはない…
それを「恐れ」と言われれば、その通りかもしれない。言い得ているようで、言い得ていない。そのような不思議な気持ちに心を委ねながら、彼はゆっくりと目をつむった。
既に内部の事情を知っている鳶沢甚内らを引きいれ、さらに言えば彼らに賛同する風魔の者たちも、この一座の中には数人いるという。つまり内通者が何人もいるというのだ。
この状況において、参謀の海野六郎が下手を打つ訳もなく、恐らく二刻後の朝日が昇る頃には、数名の名も知れぬ『闇』の中で生きる者たちが、物言わぬ姿となって、長浜の外れで横たわっているに違いない。
――それは全て、風魔の者たちか…
そうふわりと水面に浮かぶ藻のように考えがよぎったその時だった…
「待てよ…『全て、風魔』…そんなはずはない」
がばりと急に起き上った霧隠才蔵。しかし筧十蔵は驚くこともなく、そんな彼を静かに見つめていた。才蔵も才蔵で、十蔵のことなど気にすることなく独り言を続ける。
「少なくともあの男…すなわち座長の高坂甚内は風魔ではない。それに、もう一つ奇怪な点があるではないか!?」
この問いかけは筧十蔵に向けられたものではない。
いわゆる自問というものだ。そしてそれを表すように、才蔵は自答し始めたのだった。
「俺が見た光景と、鳶沢甚内の言葉…その二つに明らかな矛盾が!!」
その言葉を発したとともに、才蔵は壁に立てかけていた忍び刀を背にして、窓の外へと飛び出していった。十蔵も彼の背中を追いかけて、寝静まった長浜の闇の中へと身を投げていく。
そして忍び特有の音を立てぬ走り方で、一直線に目的の場所へと、突き進んでいった。
「もし…もし俺の感じた矛盾の答えが正しければ…」
才蔵はぎりっと歯ぎしりをして眉間にしわを寄せる。そして最後の言葉は、胸の中に秘めたのであった。
――佐助たちは…全滅だ…
霧隠才蔵の見抜いた「矛盾」とは果たして何でしょうか。
そして猿飛佐助たちの行方は…!?
主題から離れた忍者物語が続いておりますが、どうかご容赦ください。
これからもよろしくお願いいたします。




