弟よ!幸あれ!⑳武士の本懐
◇◇
慶長11年(1606年)12月15日ーー
松平忠輝の婚儀まで、既に残り十日を切ったその日のこと…
俺、豊臣秀頼は、自室に真田幸村を招き入れた。
ほとんどの政務において彼は俺の隣に座しており、こうしてあらためて呼びつける必要などなかったのだが、この沙汰を下すには、こうするのが良いと思ったのだ。
部屋に静かに入ってきた幸村と対面するーー
こうして向き合って座り、しげしげと彼のことを見るのは久々のことだ。俺がこの時代にやって来たあのときから、何一つ変わらぬ穏やかなその表情。それが今もこうして俺に向けられている。
だがあの時と違うのは、その瞳から燃えるような強い感情が込められているところだ。その感情の源は、ただ一つ。
俺はその源に対して、一つの答えを出すために、この部屋に彼を呼んだのだった。
それは…
「兄上の…結城秀康の命を助けよ!」
というものであった。
この決断に至るまで、実に前日の丸一日考え込んだ。朝げも夕げも心ここにあらずといった俺に、千姫や淀殿からかなり訝しまれたが、そんな彼女らの視線さえも気にならないほどに、俺はこの難題の為に頭を悩ませていたのだ。それもそのはずだ。なぜなら幸村から天下一の知恵者とも言える真田昌幸の言葉を聞かされていたからである。
ーー絶対に余計な手出しをしてはならん!
この強い言葉は、俺の心をぐらりと揺さぶった。はじめに幸村から秀康の暗殺の件を聞かされた時は、感情が沸騰し、即座に暗殺の阻止に向けて心はとらわれたのだが、その直後の昌幸の助言に、俺は感じたことがないような寒気に襲われ、それまで燃え上っていた心は一気に縮みあがってしまったのである。
自分の知らない暗部にて、自分や周辺の人間の生死や存亡について、様々な思惑が渦巻き、暗躍が繰り広げられていることは、言ってみれば目隠しをした状況で綱渡りしているようなもので、一歩でも踏み間違えれば、取り返しのつかない奈落の底へと落ちて行ってしまいそうな感覚に陥る。その見えない何かに対する恐怖は、俺の心に深手を負わせたのであった。
さらに言えば、少しずつ豊臣秀頼としての体が大きくなり、自分の発言が大坂城内だけではなく、世の中にも影響を与えていくようになるに従って、全ての言動に責任が伴い、結果が突きつけられるということが、これほどまでに重いことなんて思いもよらなかった。もちろん前の時代で体験したことなどあるわけがない。これが一国一城のあるじとしての…いや、天下人の息子としての重みなのだろうか…まるで巨大な石を両肩の上に乗せたような重みに、俺はしばらく塞ぎこんでしまったのだった。
眠れぬ夜…
元いた時代とは比較にならない位に漆黒のただ一色に染まる窓の奥を見るだけで、未知の大蛇がその両眼を光らせて、俺を一飲みにせんと巨大な口を広げているような鬼胎に、胸が押しつぶされそうになる。思わず耐えきれずに、俺は窓から視線をそらした。
そして…
ふと無造作に様々な書状が置かれた机に、行き場のない視線を落としたのである。
そこで俺の目を釘づけにしたのは…
黒田如水が最期に遺してくれたあの手紙――
無意識にそれを手にして広げてみると、わずかな灯りを頼りに、そこに書かれた流水のような字の上に、意識の舟を浮かべると、自ずと視線は手紙の清流に流されていく。
まるで何かに助けを求めるように…
そして、その中のたった一行に、俺は救いを見たのである。
――太閤殿下は、目の前の人を笑顔にすることに一生懸命であった
その言葉が暗闇の真っただ中にあった俺の頭の中に、ほのかな明るみをもって浮かんできた時、両肩の石にひびが入ったような音が耳の中でこだました。
初めてその手紙を目にしたその時とは、また違った感動が胸に沁み込んでくる。
そして、一つの決意が自然と芽吹いてきたのであった。
――豊臣秀吉がそうであったように、俺も一人ずつ目の前の人の笑顔に全力を注いでみよう。
そしていつの日か、それがより多くの人を笑顔に出来るようになればよい…
そう思えた時、おのずと一つの答えだけが、俺の頭の中に残ったのだった。
――兄上のお命…なんとしても助けたい!!
だが、一人の人の笑顔だけを追いかけることの出来た木下藤吉郎と呼ばれたかつての太閤秀吉と今の俺では、その立場が違いすぎることを見落としたなら、天にいる如水や秀吉に叱り飛ばされることだろう。
すなわち、結城秀康一人を助ける為に、豊臣家や大坂城を危機にさらしては、全く意味のないことということだ。つまり「結城秀康の暗殺を阻止しながらも、豊臣家に危害を及ぼさないようにしなくてはならない」という難題を突きつけられることになったのである。
こればかりは、一人で頭を悩ませるには、あまりに物事を知らなすぎるということを、俺は自覚している。そこで元より秀康の救助を進言してきた真田幸村を呼び、このことについて相談したのであった。
「その件…お任せください」
今までの苦悩が嘘だったかのように、幸村のたった一言で、ふっと心が軽くなる。だが俺は喜びよりも、あまりにあっさりとそう言い切る幸村にいぶかしく思えてならなかったのだった。
「どのようにするのだ?」
眉間に皺を寄せる俺に対して、幸村はいつも通りの涼やかな顔で答えた。
「たとえその事が徳川に露見しても、秀頼様は何も存ぜぬ事としてしまえばよいのです。
それは徳川も同じようにしてくることでしょう。
たとえ秀康公の暗殺計画が表に出ても、徳川家康殿は何も知らないことと、しらを切ってくるに違いありません」
「しかし…俺の側近である幸村がこの事に動いていると分かれば、その主人である俺が『知らなかった』ですまないであろう」
その言葉に、幸村はなぜか嬉しそうに口元を緩める。そしてより声を低くして言ったのだった。
「はて…?それがしは何も動くつもりはございませんが…」
「えっ…!?どういうことだ??」
「単純なことにございます。
こたびの秀康公の暗殺が、もし父上の言う通りに実行されるならば…
家康殿はおろか、その家臣すらもみずから手を汚すことなどないでしょう。
すなわち、もはや家康殿が知ることもない者の手によって秀康公の暗殺を企てれば、家康殿は『その者が勝手にやったこと』と片付けられる…というものです。
それと同じことを、こちらもするだけにございます。
つまり…」
「俺の知らぬ者が行動を起こす…そういうことか…?」
ぐっと幸村の視線が強くなる。俺はそれを見て、ごくりとつばを飲み込んだ。
幼い子供同士が「秘密基地」で交わした約束に近いような、誰にも知られてはならない秘密の共有…だが、俺と幸村のそれは、一人の男の生死、さらには徳川家と豊臣家の両家の間にも密接に関わっているのだから、流れ落ちる冷や汗の一筋は人として血が通っている証と言えよう。
そんな緊張の面持ちの俺に対して、まるで何事もないかのように澄まし顔を崩さない真田幸村。その瞳に、彼が後世に「日の本一のつわもの」と評される一端を垣間見た気がしてならなかった。
「秀頼様…これ以降のことは、秀頼様は知ることはございません。
秀頼様におかれましては今まで通りに、天下のまつりごとに集中していただければ良いのです」
「しかし…万が一…徳川の手の者の妨げをした事が露見されれば…
例え幸村が手をくださずとも、その責めは幸村にもふりかかってくるかもしれぬのだぞ」
「その時は…」
そこで言葉を切る幸村。そして変わらぬ微笑みをもって、自分の決意を口にしたのだった。
「それがしを切り捨てくださいませ」
「な…なんだと…?どういう意味だ…?」
驚きのあまりに、まばたきすら忘れてしまった俺に対して、幸村は表情一つ変えない。変わっているところと言えば…
譲れぬ決意を灯したその瞳の色――
「言葉の通りにございます。
万が一、悪いように事が露見したその時は、それがしが全ての責を負う事をお許しくだされ」
「つまりはどういうことか!?」
高ぶる感情に、思わず声が荒くなる。しかし幸村は変わらない。それは、波風立たぬ澄んだ湖の水面のように…
「その時は、それがしとそれがしの手の者は、みな腹を切りましょう」
凛としたその声は、冬の乾いた空気を震わせるように響く。
俺は出すべき言葉を失ってしまった。
一人の大事な人を助ける為に、別の大事な人を犠牲にするかもしれない…
しかも仮にその企てに失敗したなら、下手をすれば大事な人を二人とも失ってしまう恐れまであるのだ…
そんな無情な現実が成り立ってよいのだろうか…
それは俺の元いた時代とは異なる価値観ゆえに、通る道理なのかもしれない。
だがそれでも幸村が自分の命をかける覚悟をしなくてはならない理由と言えるのだろうか。
愕然とする俺に対して、幸村は一つ頭を下げると、
「秀康公は豊臣家と徳川家のかけ橋となる両家にとって大事なお人にございます。
そのお方を今失うわけにはまいりません。
必ずやそれがしの手の者たちが、そのお命を救ってみせますので、どうぞ秀頼様におかれましては、心安らかに吉報をお待ちくださいませ」
と、言い残して、静かに部屋をあとにしたのであった。
――心安らかに吉報を待つ…
いやにその事がまとわりつくようにして耳に残る。
目の前の人の笑顔を見る為に、これからも見て見ぬふりをしなくてはならない事が増えていくのだろう。そしてその『闇』で生きる人々の醜怪な暗躍のことなど知る事もなく、俺は目に見える美しい世界だけを称賛し、そこに理想を見出していくことなのだろう。
一日の中において昼があれば必ず夜があるように、光が当たる美しい場所があれば必ずその裏には暗闇の中の醜い場所が存在していることに、今更ながら俺は気付かされた。
幸村の言う「心安らかに吉報を待つ」という言葉の裏には、「秀頼様には美しい世界だけで生きて欲しい」という願いが込められているに違いない。それは俺には醜い事を知らずに育って欲しいという彼なりの愛情によるものなのか、それとも自分のあるじには、美しい場所だけに立つ、潔白な人であって欲しいという彼の理想の実現の為によるものなのか、それは分からない。
しかし一つ確かに言えることは、真田幸村は豊臣秀頼が目指す世の中作りの為に、自分を醜く汚し、その命を投げうつ事に何ら躊躇いもないということだ。
そして俺はそれに気付いていながらも、背中を向けねばならないのだ。
一人部屋に残された俺は、自然と喉の渇きを潤す為に水瓶に手が伸びる。
「空…か…」
普段は滅多になくなることもないその瓶の中の水が一滴もなくなっていた。
やけに水の減りが早いのは、未だに激しく波打つ動悸を、無意識のうちに抑えようと必死だったのかもしれない。
俺はずしりとした水瓶を手にして、ふらふらと立ち上がると、朦朧とした意識のままに部屋の外に出た。
廊下は足袋をはいていても体全体を冷やすほどに冷たい。それでも俺の意識は透明さをみないままに、俺は水を求めて台所の方へと、一歩一歩進んでいった。
まだ昼前だというのに、視界は完全に闇に覆われている。
足が重い…
まるで鉛の巨塊をくくりつけたかのように足を一歩踏み出すだけで、息があがり、額には玉のような汗が浮かんでいた。
そして、ついに足が止まってしまったのである。
――これ以上…進めない…
そう心の中でつぶやいたその時であった…
俺の目の前に…
とある光景が飛び込んできたのは…
そしてその光景が、俺の歩むべき道しるべの一つになろうとは――
………
……
一方、豊臣秀頼の部屋を出た真田幸村は、彼の手の者たちが集まる部屋へと足早に入っていった。
「おや?源二郎様。何やら雰囲気が変わりましたな」
素っ頓狂とも言える声で真っ先に声をかけたのは、見上げるほどの巨体に人懐っこい笑顔をした初老の男性であった。
「ややっ!たしかに兄じゃの言う通りじゃ!顔の彫りが深くなったようだのう!」
その巨体の初老を「兄じゃ」と呼んだ男は、その弟とは思えないほどに背が低く、線も細い。のんびりとした兄に比べて、その弟はかなりきびきびした性格の持ち主のようで、言葉もかなり早口だ。
この二人の名は、巨体の兄の方が三好青海、そして小さな弟の方が三好伊三という。
二人とも真田幸村の家臣であり、後世に言われる「真田十勇士」に数えられる人物だ。
かつて三好氏は摂津を舞台として光に影に活躍した一族であり、数多の名家の勃興と没落に携わってきた彼らは、真田家が乱世の荒波にのまれぬように暗躍してきた立役者とも言えた。
「ふん!清海も伊三も鈍いのう!源二郎様は一皮むけたんだよ!すっかり勝負師の顔になっているじゃねえか」
そう豪快に笑った色黒の青年は、穴山小助。槍の名手として知られる彼もまた真田十勇士の一人である。
若くして博打にはまり、戦さで得意とする槍働きをしては、そこで稼いだ銭を博打に投じる生活に明け暮れていた。しかしここ最近は、その稼ぎ口であった戦さもなくなり、彼は愛する博打に身を置くことも少なくなっているようだ。そのうっ憤を晴らすように、荒々しい言葉を三好兄弟に投げかけたのである。
そんな小助を見て、愉快そうに笑った人がいた。
「ははは!小助は何でも博打に例えるな!」
「おうおう!なんだ!?鎌之介!また俺に喧嘩を売ろうっていうのか!
やめておけ!返り討ちにあうだけだぜ」
「むぅ!なんだとぉ!」
そう小さな頬を膨らませた顔は、どこからどう見ても少女のそれにしか見えない。
髪は短く切り、格好も男の侍そのものであるが、声の調子や隠しきれないその可憐な顔つきは、その人の性別を惑わすには十分なものであった。
その人の名は、由利鎌之介。鎖鎌の名手であり、真田十勇士の一人だ。
鎌之介はかつて小助に勝負を挑まれ、それに敗れたがその勇姿を見初めた幸村が、鎌之介を家臣として迎え入れたのだと言われている。豪傑で知られた鎌之介であったが、その容姿は線の細い中性的な色白の人であった。
「あはは!鎌之介は相変わらず怒っても迫力の欠片もないな!」
「むむぅ!甚八まで、俺を馬鹿にするのか!?」
「馬鹿になどしておらん!本当の事を言ったまでだ!」
そう鎌之介をからかったのは、根津甚八。吹矢の名手であり、彼もまた真田十勇士の一人だ。筋肉質の彼は額にねじり鉢巻きを巻き、角ばったがたいをしている。元より海賊まがいなことをしていたところを幸村に拾われた経緯があり、すっかり海で働かなくなった今でも、その姿は海の人そのものであった。
「むむむぅ!小助も甚八も俺を馬鹿にしおって…
やいっ!十蔵!あやつらに何か言っておくれよう!」
「…俺は…」
そう鎌之介が話しを振ったのは、部屋の隅でひっそりと座っていた筧十蔵であった。大事そうに火縄銃を抱えているその姿からも分かるように、彼は真田十勇士の中でも銃の名手として知られている。
賑やかな真田十勇士の中にあって、人前で何かを話すのが得意ではない彼は、いつも隅で地味に過ごすことが多い。それでも鎌之介は彼をいつも慕っており、関ヶ原の戦いの後は、鎌之介の誘いによって彼らは諸国を共に巡っていたこともあったほどに仲が良かった。
しかし…
「…俺も鎌之介が怒っても怖くない…」
と、甚八に賛同したのであった…
その意見に、にやける甚八と、顔を真っ赤にする鎌之介。そこに小助がちゃちゃを入れてくる。
「やいやい!みんな!ここで賭けようじゃねえか!
由利鎌之介と根津甚八!
因縁の勝負の結末やいかに!
俺は甚八に銀五匁といこうじゃねえか!」
いつも通りの賑やかで荒々しい光景。
これがどんなに乱世であっても、真田十勇士が変わらず見せる姿であり、彼らの強さの象徴とも言える明るさであった。
ところがそんな彼らの様子に、困り顔を向けている色白の青年がいた。
「これこれ、皆の者。源二郎様の前で恥ずかしいではないか」
そう苦言をていしたのは、海野六郎。無骨者が多い真田十勇士の中にあって、いつでも冷静沈着な彼は、幸村の命じた仕事の段取りを組みたてる、言わば幸村の参謀のような役割の人物であった。
そんな海野六郎の言葉にも耳を傾けることなく、鎌之介と甚八が睨み合っていると…
「いい加減にしろっ!」
と、二人の首根っこが、それぞれ別の人によってつかまれたのであった。
このうち鎌之介のことを、口も開かずつかんで、その場から引き離したのは、望月六郎。普段から物静かな彼だが、間諜の名門、望月一族だけに、諜報としての腕前と火薬の扱いにも長けているらしい。
そして、もう一人…
甚八をつかみながら、顔を赤くして雷を落としたのは、真田十勇士のまとめ役であり、甲賀の忍者としても名を馳せた人物、すなわち猿飛佐助その人であった。小柄な体つきからは想像が出来ないほどの怪力で、甚八を引きずると、壁にもたれかかるように座っていた十蔵にその身を託した。
「源二郎様の前くらいは、行儀よく出来んのか!?
全くお主らときたら…もっと侍らしく振舞うように心がけよ!」
まとめ役よろしく佐助が全員に向けて大きな声で号令をかけると、それまで騒がしくしていた面々は、急に静まって大人しく姿勢をただしたのであった。
そんな中にあって、輪の中には入らずに、一人でポツンと立っていた男が、幸村の前まで寄ると、丁寧に跪いた。
「源二郎様。われらに何かをお命じになる為に、ここに来られたのではございませんか。
その命令をお聞かせください」
がさつで荒削りなところが多い人たちの中にあって、どこか垢抜けた雰囲気を醸し出しているのは、この男が普段から一人で行動することが多く、なおかつ京や大坂城内の人たちと直に触れ合う機会が多いからなのかもしれない。
この男は…
霧隠才蔵。
そう、関ヶ原の戦いの折には、幼い豊臣秀頼とともに行動し、その後もさながら直臣のように、秀頼の周辺を護衛している人だ。元々は伊賀の忍びの出であり、体術、忍術、隠密行動から変装にいたるまで、あらゆる忍びとしての才能に恵まれている。だが、そんな彼であっても苦手とすることが一つある。それは集団行動であった。しかも甲賀の出身である猿飛佐助とは、すこぶる相性が良くない。その為、真田十勇士の中にあって、浮くことが非常に多かった。
現に今も、一人で幸村の元で跪く才蔵に、佐助は苦々しい目を向けていた。
「みなに、秀頼様がご所望になられていることをお伝えいたす」
幸村の口から「秀頼」という言葉が出てきたその瞬間から、その場の十人は一様に表情が引き締まる。
彼らにしてみれば、豊臣秀頼という人物は、言わば雲の上のようなところにいる人なのだろう。同じ大坂城にあっても、滅多にその姿を見ることすら出来なければ、言葉をかけてもらうなど、この先一生に一度あるかどうかも分からないのだ。その秀頼が所望していることに、自分たちが貢献出来るということだけで身が引き締まる思いに駆られてしまうのは、全員同じであった。
そんな彼らを穏やかな表情で見つめながら、幸村は少しだけ声を張り上げて続けた。
「越前卿がこの先もお元気でおられることを、秀頼様はお望みである!」
この言葉に対して、十勇士たちの反応はまちまちであった。
根津甚八、穴山小助それに由利鎌之介の三人は、そのことが何を示すのか分かっておらず、互いに顔を見合わせて、首をかしげているが、三好兄弟、海野六郎、猿飛佐助それに霧隠才蔵には、その意味がよく伝わっているようで、その顔つきが一層厳しいものに変わっている。なお、筧十蔵と望月六郎の二人は、普段から何かを感じても面に出さない。
だが幸村にしてみれば、彼らのまとめ役である佐助に正しく自分の意図が伝わったなら、それで問題ないと思っていた。幸村は佐助に目配せをすると、佐助もその視線を受け取って、口を真一文字に結んでうなずいた。
それを見て安心したような微笑みを浮かべた幸村は、彼らに背を向けると、その場を立ち去ろうとしたのである。
しかしそんな幸村に穴山小助がだみ声をかけた。
「源二郎様!全然意味が分からねえよ!結局のところ俺らは何をすればよいんだ!?」
小助の言葉に、鎌之介と甚八も、真剣な顔つきでうんうんと頷いている。
そんな三人に対して答えたのは、相変わらず背を向けたままの幸村ではなく、大きな体で、にこにこした顔の三好清海であった。
「小助は鈍いのう。そんなこと決まっているではないか」
先ほどは「鈍い」と揶揄された小助に対して、今度は清海の方が同じように言い返している。
そのことに小助はむっとしたのか、身を乗り出して清海の大きな腹を、人差し指でつついた。
「やいやい!清海!だったらどういう意味なのか答えてみやがれ!」
「ははは!そんなこと、『結城秀康公のお命を助けよ』という意味に決まっておろう!」
「おいおい!だったら、初めからそう命じられればよいではないか!
なぜ『越前卿に元気でいて欲しい』なんて、回りくどいことをおっしゃるのか!?」
その小助の追及には、清海の隣の伊三が答えた。
「ははっ!小助よ…それを源二郎様の口から言える訳もなかろう」
「はぁっ!?どういうことだ!?」
ますます意味が分からないといった風な小助に対して、今度は海野六郎が静かに答えた。その答えが、場を凍りつかせることを知っていながら…
「源二郎様は、われらに命じられたのだ…
『全てを闇のうちで片付けよ』と…
そして万が一…その任に失敗すれば、そのことは豊臣秀頼様の知ったことではない…と」
「そ…それは…」
二の句が継げない穴山小助。そんな彼の背中に、手をそえながら根津甚八が険しい顔で、海野六郎に低い声をかけた。
「つまり俺たちは、捨て駒…ということかい…?」
それは海野六郎の言葉にたいしたものとはいえ、その矛先は明らかに背を向けたままで動かない幸村に向けられたものであることは明白だ。そんな鋭い刃のような一言に、佐助が反応した。
「おい…口が過ぎるぞ…」
「へんっ!俺のことを無礼と言うか!?
その姿も見せずに、俺らに危ない橋を渡らせておいて、『何かあれば死ね』とおっしゃる天下人のご子息様に対する態度ではない、そう言うつもりか!?」
「甚八!!慎まねばこの佐助が許さんぞ!」
「へんっ!!こう思っているのは俺だけじゃねえはずだ!
命を惜しんでるんじゃねえんだ!
命を張れるだけのお方かどうかも分からねえ人に、捨て駒扱いされて心穏やかじゃねえ、ってことだよ!
そうだよな!!?」
そう言って周囲を見渡す甚八。小助は顔を真っ赤にさせて、同調するように頷いているが、その他の面々はどう反応してよいか迷っているように、甚八から目を逸らしている。だがそんな中にあって唯一、霧隠才蔵だけは、さながら傍観者のように、その場に温度のない視線を落としていた。
それが甚八には面白くなかったのか、才蔵に向けて甚八は怒鳴るように問いかけた。
「才蔵!!お主からも何か申してみよ!!」
ちらりと甚八の方を見る才蔵。しかしその視線をすぐに元に戻すと、彼は静まる彼らに波紋を落とすように重くて低い声で言った。
その声の向き先は…
真田幸村であった…
「源二郎様…一つよろしいでしょうか…」
「なんだ?申してみよ」
場が荒れようとも、いつもの涼やかな声で答える幸村。一方の才蔵も淡々とした調子で質したのだった。
「報酬は…?」
その問いかけに、普段は感情を面に出さない望月六郎や筧十蔵でさえも、驚愕に目を丸くした。乱世の酢いも甘いも知り尽くした三好兄弟なぞは、ニヤニヤと笑っているが、猿飛佐助はその一言に激怒した。
「才蔵!!!なんと無礼な!!
主君の命令の為に、それが表舞台であろうと、闇の中であろうとも、命を懸けるのは当然のことであろう!!
それを見返りを求めるなど、言語道断!!」
今にも才蔵に飛びかからんとしている佐助を、ちらりと見た才蔵。その視線を再び幸村の背中に向ける。
その幸村は身じろぎ一つせずに答えた。
「一人銀五枚…」
「十枚…」
「分かった…なんとかいたそう」
「かしこまりました。この任…この霧隠才蔵は、慎んでお受けいたそう」
才蔵と幸村のやり取りを目を丸くしながら見つめていた一同であったが、才蔵が幸村の背中に向けて頭を下げたのをきっかけに、その空気が少し軽くなった。
しかし佐助だけは一人、納得がいかないように顔を赤くしたまま、才蔵に食いつく。
「才蔵!!われらは忠義に生きる武士である!
報酬に釣られるような卑しい真似など…」
そう佐助が言いかけた瞬間、佐助の背後から三好伊三の甲高い声が響いた。
「三好清海入道そして三好伊三。われら兄弟もその条件でお受けいたす!
ははっ!久々に旨い飯が食えるぞ!兄じゃ!」
「ははは!それは楽しみだのう」
「お…おい…そんな…お主らまで…」
思わず背中の伊三に目を向ける佐助。
しかし才蔵に賛同したのは、三好兄弟だけではなかった。
「…俺も、お受けいたす…」
「拙者も受けさせていただこう」
筧十蔵と望月六郎の二人が、揃ってぼそりと呟くように言うと、由利鎌之介が、
「一人のお方のお命を助けるってだけでも、嬉しい任務じゃないか!」
と、白い頬をにわかに紅く染めて言う。
「では、鎌之介は報酬はなどいらんと言うのだな!よしっ!では、この穴山小助が貰いうけよう!ははは!久しぶりに腕が鳴るじゃねえか!」
「ちょっと待て!小助!俺の報酬は渡さんぞ!
どうせ博打に流してしまうようなやつにありがたい報酬を渡せるもんか!」
「ははは!だったら互いの報酬をかけて勝負しようじゃねえか!」
「誰がするもんか!」
「その勝負!この根津甚八ものったぁ!!
もうこうなりゃ、誰からの命令とか関係ねえな!
目の前の銀十枚の為にやってやるか!」
この甚八の言葉に、佐助ははっとした。
そう才蔵は最初からこれが狙いだったのだ。
つまり、彼らにとっての『表舞台』は、信州上田城が徳川の手に渡った瞬間に終わっていたのである。すなわち彼らはもはや、闇の中でしかいることの出来ない人々であったのだ。
そのことは、この場の全員が薄々気付いていたことだった。それでも彼らは、武士である以上、『表舞台』に憧れ、あわよくば立身出世を『夢』に見る。
手柄を立てれば、お上から目にかけられ、この槍一つで成り上がるーー
そんな『表舞台』の華やかな世界に、武士なら誰もが身を置きたいと願ってやまない。
ところが現実はどうだろうか。
そんな世界に身を置き、希望の光に満ち溢れた日々を送ることが出来る者など、ほんの一握りであった。
すなわち時代の勝者の元に身を置いた武士だけの特権だったのだ。
では敗者の元にいた武士たちはどうなるのか…
それこそ『闇の社会』に身を落とすより道は残されていなかった。何も期待されず、その存在すら『ないもの』として扱われる…
そしてたまに命じられる仕事は、身の安全など保証もされず、その手を汚すものばかりで、たとえそれが上手くいっても、その報いなどごくわずか。
それでも彼らはただ生き長らえる為に、『闇』の中で必死に生きるより他なかったのである。
猿飛佐助は知らず知らずうちに、そのことから抗おうともがき、虚勢を張っていたことに、この時ようやく気付いたのであった。
才蔵が幸村に明確な報酬を求めたこと。
それは真田十勇士が、『表舞台』から決別したことを宣言したに等しいものであった。
そして…
佐助を除く十勇士の全員が、そのことに賛同した。
出世と名誉の為に『忠義』に生きる『表舞台』の武士から、己の生活の為に『身銭』に生きる『闇の社会』の武士に、その身を落とすことに…
佐助は唇を噛み、才蔵を睨みつける。
しかし彼に対して、何も言葉が出てこないのは、佐助も心の底では、才蔵の言葉に賛同せざるを得ないことを、よく分かっていたからである。
そんな佐助の右肩に、ぽんと手が置かれる。
それは誰よりも佐助のことを良く知り、いつも彼を補佐する人…海野六郎だ。
彼は佐助に、苦笑いのようなものを向けると、
「さあ、始めようか。佐助」
と、彼の背中を一押しするように、優しい声をかけた。
悔しそうにうつむく佐助だが、その海野六郎の声で観念したかのように、表情をあらためる。そして、その場の全員を見渡した。
「ではこれから越前卿をお救いする為の策を練ることとする!」
ーーおおっ!
誰ともなく佐助の言葉に掛け声があがると、その様子に安堵したかのように幸村は部屋の襖へと足を進めていったのであった。
しかし…
それはまさに幸村が襖に手をかけようとした、その瞬間のことだ。
ーーススッ!!
と、襖は勢い良く開けられると、幸村は目の前の光景に、思わず立ちくらみを覚えたのである。
それは…
「やあやあ!!皆の衆!!集まっておるかな!?
おおっ!お主らが、真田十勇士であるか!!
はははっ!やはり噂通りのつわもの揃いであるのう!!」
と、大笑いして部屋にずかずかと入ってきた少年…
「さなだじゅうゆうし?なんだそれは?
それにあんたは誰だい?」
穴山小助が訝しむように、その少年を覗き込むと、大きな手が小助の頭を押さえつけた。
「いててっ!何しやがる!清海!!」
それは巨漢の三好清海のものであった。
しかし清海は小助の抗議など耳も貸さずに、いつになく真剣な声色で言ったのだった。
「豊臣秀頼様の御前であるぞ。ここばかりは、無礼は許されん」
「な…と、豊臣秀頼様だってぇ!?」
そう…それは豊臣秀頼その人だったのである。
幸村も含めて、その場の全員が即座に平伏する。
しかし秀頼はそんな彼らを見て、幸村の肩に手をかけて言った。
「よいよい!皆のもの、顔をあげよ!」
「しかし!秀頼様!一体何をしにかような場所まで来られたのですか!?」
いつになく焦った声を幸村があげると、秀頼はあっさりと言った。
「皆のことを一目見ておきたくてのう!」
「しかしそれでは…」
「なんだ?幸村。それでは、なんだと言いたいのだ?」
もちろん幸村が言いたいことなど、十も承知な秀頼。彼は一つの覚悟を決めて、ここに笑顔を振りまきにきたのである。
それは…
闇に光を照らす為に、自ら闇に足を踏み入れることーー
「それに皆に直接言いたかったのだ!
わが兄上、越前卿のお命をよろしく頼む!と!」
「秀頼様!!それは…!」
なおも秀頼を諌めようと必死に声を荒げる幸村に対して、秀頼は一喝した。
「幸村!!しつこいぞ!!われは決めたのだ!!」
そして、秀頼はこれまでの迷いなど嘘のように、どこまでも透き通った声で告げたのであった。
「われは、闇をも照らす光となろう!!
そして、そこで生きる者たちも笑顔にしてみせる!
そう決めたのじゃ!!」
その言葉に顔をあげて秀頼を凝視したのは幸村だけではなかった。
猿飛佐助をはじめ、真田十勇士の全員が、秀頼のことを穴が開くほどに見つめていたのだった。
「幸村よ!そして皆の者!われに断りなく腹を切るなど、断じて許さんぞ!
われはお主らを見捨てるなど、絶対にしないと約束しようではないか!
お主らの仕事の責は、われが全て背負おう!
そのせいで大坂城が傾くなら、このわれの腕で城を立て直してみせよう!!
天におられる父上や如水は『この大馬鹿者が!』とお叱りになられていることであろう!!
しかし、われはわれである!
この豊臣秀頼の目は、決して光当たる場所にのみ向けられるものではない!
誰もが目を逸らすその場所にも、光をさそうではないか!
だからこの豊臣秀頼と大坂城の為に…強いては日の本の民全員の為に、これからも全身全霊をもって働いてはくれまいか!?この通りだ!」
秀頼は全員に向けて頭を下げる。
返事は誰の口からも出なかった。
しかし…
返事など…言葉など、もはやその場に全く必要などなかった。
今この瞬間に、闇に生きる者たちに、光が当てられたのだ。
武士の本懐ーー
一言で言い表すなら、それに尽きるであろう。
その二十二の瞳は、皆眩しく輝いていたのだった。
その瞳を見て嬉しそうに笑顔となった秀頼は、今度は幸村だけに視線を向けて言った。
「なぜわれがこの決意に至ったのか、気になるであろう?」
「はい…」
「はははっ!それはな。闇に身を落とそうとしている幸村の笑顔も見たいと思ったからじゃ!
そしてその幸村を必要とする者の笑顔も見たいと、そう強く思ったのじゃ!
だからわれに断りもなく死ぬことなど、許せんとそう決意したのだ!」
「それはどういう…」
なおも意味が分からずにとまどっている幸村に対して、秀頼は笑顔を向けたまま、自分の背中に向けて大きな声をあげた。
「もうよいぞ!!入っておくれ!!」
その声とともに入ってきたのは…
千姫の侍女である高梨内記の娘と、幸村の正室である安芸であった。
「えっ…??お主らなぜここに…」
何かに気付いたのかさっと顔が青ざめる幸村。
そんな幸村に秀頼は、変わらず笑顔を向けている。
しかしその笑顔は、先ほどとは違った、いやらしいものに変わっていたのである。
「内記の娘よ。何か告げることがあるであろう。
それを申してみよ」
その秀頼の言葉を受けて、一歩前に出てくる内記の娘。彼女ははにかんだ笑顔を幸村に向けたかと思うと、深々と頭を下げたのであった。
「ごめんなさい!!源二郎様!!」
「ややっ!どうしたのだ!?お主…また何かやらかしたのか!?」
「また…とは、失礼な!それに私は何かやらかした記憶などありません!」
「それは目出度い記憶というものだ。まあ、今はそのようなことはどうでもよい。
ではなぜ謝る?」
そう眉をひそめて問いかけた幸村に対して、顔をあげた彼女は、頬を赤らめながら、お腹を大事そうにさすった。
その時点で…
その場の全員がとあることに気付いたのであった…
それはすなわち…
「やや子が出来たのです…源二郎様の…」
その事を聞いた瞬間、幸村の開いた口がそのまま閉じることなく、彼は固まってしまった。
その代わりに驚きを爆発させたのは、何を隠そう、普段は冷静沈着な霧隠才蔵であった。
「な、な、な、なにぃぃぃぃ!!!!
うおおおお!!めでたいのう!めでたい!!ははは!!」
その才蔵の驚愕の声に、各々が続く。
「あはは!!おめでとう!おめでとう!よかったなあ!ずっと、源二郎様の事を想っておられたものね!」
と、由利鎌之介が内記の娘の手を取れば、
「おうおう!源二郎様もやることはやってるってことですかい!隅におけねえな!」
と、小助が大笑いして幸村の肩をバンバンと叩いている。
しかしそんな中にあって猿飛佐助だけは、一人うつむいていた。その様子を目ざとく見かけたのは、根津甚八だった。
「あはは!!そうか、そうか!!
佐助は惚れておったからのう!!
今日ばかりは、泣いても誰も何も言うまい!」
「う、うるさい!!泣いてなどおらん!!」
「ではその目に光るものをなんと説明するのか?」
「汗じゃ!今日は暑すぎて、つい汗が出たのじゃ!!」
「…今日は…寒い…」
苦しい佐助の言い訳に、筧十蔵が突っ込みをいれると、全員が大笑いした。
それまで暗く影を落としていたその部屋は、いつの間にか白日の下にあるような輝きに満ち溢れている。
真田幸村はその真ん中にある豊臣秀頼を眩しい目つきで見つめていた。
ーーああ…それがしはこの人の為なら、死ぬことなどいとわない…
自然とそんな気持ちがこみ上げてくる。
そんな不思議な感情は、幸村だけではなく、真田十勇士の全員が同じものを胸に芽吹かせたのであった。
「さあ!!今日くらいは皆でパァッといこうではないか!
のう!安芸殿!」
「はい、秀頼様。今日はわらわも酒を飲みたい気分でございますゆえ…」
そう言って、ちらりと幸村の方を見たその視線が、恐ろしく冷たいものであったことに、誰も何も言えなかったその理由は、ここで言うまでもないだろう。
こうしてその部屋では、そのまま昼間から酒盛りが始まったのだった。
ーー目の前の人を笑顔にしたい!
未来を知る者が見ればそれは、あまりに無鉄砲なものかも知れない。しかしそれでもそんな一途な願いは、結果として真田十勇士たちの心を鷲掴みにし、彼らに光を与えた。
この光こそが、彼らのこれからの人生の原動力となっていくのであった。
………
……
その翌日ーー
その部屋は昨日とはうって変わって、緊張感に包まれていた。そこには真田十勇士の面々が集まり、中央の猿飛佐助にその視線を集めている。
昨日と全く同じ位置に全員が座っていたが、ただ一つ違うところを挙げるなら、それは瞳の色であった。
それはかつて彼らが『表舞台』にいた頃と、何ら変わらない、希望と野望に満ちた、燃えるような輝きを帯びていたのである。
「では、早速始めるぞ」
その佐助の一言に、全員がうなずいた。
ーー結城秀康の暗殺阻止…
『闇』の中で生きる者たちによる、壮絶な戦いは今、ここに幕を上げたのであった。




