弟よ!幸あれ!⑱震える背中
◇◇
慶長11年(1606年)9月16日――
前日大坂城で豊臣秀頼から饗応に招かれた、信州国川中島の藩主、松平忠輝は、伏見にて実兄にあたる結城秀康から饗応を受けた。なお豊臣秀頼はその饗応には参加せずに、越前屋敷に忠輝を送り届けた後に大坂城へと戻っていき、彼の名代として織田老犬斎が参加することになった。
その饗応は盛大で、あまり顔を合わせる機会のなかった結城秀康と松平忠輝の兄弟は、親子ほどの歳の差がありながらも、すっかり打ち解けたと言う。
そしてこの饗応がきっかけとなって、この年の末に予定されている松平忠輝と、伊達政宗の娘である五郎八姫との婚儀に、なんと結城秀康が自ら招かれることを決めたことは、少なからず世間の人々に衝撃を与えた。
――これで徳川の世はますます安泰だな…兄弟がこうも仲睦まじいのでは、他家につけいる隙がありますまい
と、徳川に「利」があると見る人もいれば、
――いやいや!大御所様から疎まれている二人の絆が深まり、そこに豊家が絡んできた事で、何やら雲行きが怪しくなってきたじゃねえか!
と、徳川にとって「不利」と見る人もいたのであった。
そして10月も終わりの頃ともなると、京の街ではもう一つの事が話題になり始める。
それは…
――身寄りのないおなごや子供たちが、続々と大坂に集まり出しているらしい
――なんでも秀頼公が大量に青芋を買い付けて、それを大坂にて上布にする仕事をさせる代わりに、衣食住を与えているのだそうだ
ということだった。
同時に豊臣秀頼は、全国から織物職人を招き始めた。それは、集まってきた人々に織物を作る手ほどきをさせることと、彼らと学府の学者たちの共同研究によって、新たな機織り機の開発に着手し始める為だ。
また秀頼は、大坂城の南にある長居砦から堺の港まで広がる土地を、関ヶ原の戦い以降であぶれた浪人たちを集めて人の住めるように整備させていくことにした。その奉行には評定衆の一人、大野治長の弟である、大野治房が任じられると、人々は治房のことを「大坂の赤鬼」と呼んで恐れ、悪さをしようとする者は長居に近寄ることすらなかったと言う。こうして、心配された風紀の乱れなど皆無だったことは、畿内の人々をいくらか安心させたのだった。
こうして街づくりも進んでいくと、衣食住だけでなく、仕事も身の安全も確保されるという噂は、11月にもなれば北は松前藩から南は薩摩藩まで、全国中に広まっていき、女性や子供だけでなく、何らかの理由で土地を追われた男たちも続々と大坂を目指して、日本中から集まってきたのだから京の人々は度肝を抜かした。
ところがこの件について、初めは京ではあまり良くはとらえられていなかった。なぜなら、集まってくる人々は、その衣服もぼろぼろな上、身体中が泥だらけで、さながら死んだ魚のような生気のない者ばかりたったからだ。
京の人々はそんな彼らを見るたびに、あからさまに嫌な顔を向けた。
そして…
――どこの馬の骨とも分からぬ輩を、畿内に集めるなんざ、京の品位を貶めることだ
といった声があちらこちらから自然と耳に入ってきたのは言うまでもないだろう。
このままでは豊臣家の評判にかかわることを危惧した石田宗應は、人々を「清める」ことに着手した。すなわち、彼らはまず大坂に着くと、身辺について質された後に、まず行水をさせられたのだ。そして、真新しい衣服を与えられると、その場で着替えさせられた。さらに、女性であれば髪を、男性であれば髭を整えさせる。こうして見た目に清潔感が出るだけでも、人間はどこか前向きになるものだ。人々は爽快感に包まれたまま、規律正しく生活し、寺社仏閣の整備や、畑の開墾に精を出していった。そんな彼らを見て、
――どんな者も、秀頼公のご威光によって、働き者に変わるのだ!
と、人々はこのように思うようになり、大坂に集まる人々を見ても、とくに卑下することもなくなっていったのだった。
さらに全国の大名たちからも良好に受け止められている。
もちろん土地の働き手である農民が移り住んでいったとなれば、豊臣家に非難が集中するのは避けられなかったが、そうではなかった。
なぜなら彼らは、太閤検地によって割り当てられた自分の土地を持たぬ人々だったからだ。各大名は、彼らを特別扱いをして土地を与える訳にもいかず、かと言って放置しておけば犯罪の元にもなりかねない。
そして何より彼らを面倒見るほどの経済的な体力が、このところ続く天下普請によって全くないので困っていた、というのが本音であったのだろう。
すなわち彼らを大坂に送る事は、間接的に各大名家にとっては、経済的な援助につながったのであるから、それを悪く思う者などいなかったのである。
こうして、
――豊臣秀頼公はあの若さで、まるで仏のようなお人だな!
という評判は、遠い江戸の街でも聞かれるようになっていったのであった。
一方の徳川将軍家においては、この豊臣家の動きについては、注意深く監視をしていたものの、特に幕府の脅威にはなり得ないということで放置していた。
むしろ手を出したくても、出せなかったというのが実情であろう。なぜなら彼らは、石田宗應が踏んだ通りに、「幕府を強くする」という動きに、全精力を傾けていたからである。
その象徴が天下普請と呼ばれる、幕府主導の築城であった。無論、その普請には全国の大名たちが割り当てられたのだが、それはまさに幕府を強くする為のものであったのは言うまでもないだろう。なおこの慶長11年だけでも、京の二条城の天守、近江の彦根城の天守そして江戸城の本丸御殿と、要所にその完成を見たのである。
しかしそれらは全て防備を固める為であり、むしろ徳川将軍家の威信を示す意味合いが強い。言わば表向きの動きだった。一方で、徳川将軍家の本拠地である江戸ではなく、大御所の所在地である伏見を中心として、裏側の動きもまた加速させていった。
すなわち…
幕府の軍事力の強化である。
特に、豊臣秀頼の頭を悩ませている、鉄砲と硝酸の調達について、徳川家康もまた悩みの種として抱えていた。そしてそれを彼は海外から調達することにしたのである。この頃彼は異国との外交顧問として、イギリス人の三浦按針を抱えており、彼の助言によって交易にも積極的に乗り出していったのであった。
そして鉄砲の硝酸の調達については、東南アジアのシャムとカンボジアから行う方針を、この年の9月には決めている。
さらに国内にいる鉄砲職人たちの多くを幕府の管轄下におき、大名たちへの鉄砲生産力を著しく抑えることで、相対的に幕府の軍事力が抜きん出ていったのであった。
ーー徳川将軍家に勝てる者など、この天下の中にはおらぬのに、まだ強くなるのか…
人々はその圧倒的な幕府の軍事力に畏怖し、そしていつの時代にもある、「強き者への憧れ」をもって徳川将軍家に傾倒していったのであった。
ここに「絶対的な強者、徳川将軍家」と「弱き者の救い主、豊臣家」の両立が成り立ちつつあった。
それは互いに異なるものを求めていることで、歯車の凹凸が噛み合うように、世の中は上手く回っていくと誰しも思っていたに違いない。
しかし…
当事者たちは違った意見を持っていた。
むしろ世間とは真逆だったのだ。
つまり、互いの家の評判が大きくなるに従って、その気持ちは噛みあうどころか、大きく離れていったのであった。
そんな慶長11年12月のとある日のことーー
二条の屋敷では、徳川家康が一人、写経に勤しんでいた。
この日は朝からしんしんと雪が降り、まだ昼前だと言うのに、既に外は光を失っている。
そんな中、わずかな部屋の灯りを頼りに、一心不乱に筆を走らせる家康。その髪はこの二ヶ月ですっかり銀色に染まり、ただでさえ深かった顔の皺は、よりその溝を深くしていた。この様子を見ただけでも彼がこの数ヶ月でいかに神経をすり減らしてきたかが分かるというものだ。
この慶長11年という年は、家康にとっては非常に重い一年であった。
本来ならば、前年に将軍職を息子に譲ったことで、悠々自適な毎日を孫らと送ることを夢見たのであったが、もはやそれを数年は諦めねばならぬと、再び心に鞭を打った春からこの一年は始まった。もちろんそれを決定的にしたのは、豊臣秀頼の急変であったことは言うまでもないだろう。それまでの秀頼は、まさに淀殿らの傀儡であり、何の意志も持たぬ人形のようなものであった。もし、秀頼が人形のままでいてくれたなら、家康の髪は今頃でもまだ黒々としていたであろう。しかし、秀頼はまるで人が変わったかのように、この年の春からその動きが激しくなっていったのだ。
家康の歳ともなってしまえば、そう易々と人は変わらないし、成長もするものではない。
しかし豊臣秀頼は、まさに今成長著しい少年。しかもその伸びる先は、家康が最も危惧した場所へと真っすぐ指していたのである。その場所とは…
――天下人たる場所…
その場所に立てる人は、その時代にただ一人でしかあり得ず、今は家康の息子である徳川秀忠だ。では、秀忠の次にその場所に立つのは誰なのか…それはすでに竹千代、つまり後の徳川家光に、彼は決めていたし、その為に家康は自ら暗躍しても構わないと覚悟を決めている。
――もし、豊臣秀頼が、今まで通りに大坂城の重臣たちの傀儡であったなら…
今一度その事を思わざるを得ない。
そしてもしそれが現実なら、家康は今頃、全ての雑念を振り払える写経ではなく、釣りやら碁やらに没頭出来ていたはずなのだ。
いや…大事なのはそんな家康個人の楽しみの事ではない。
豊臣家そのもの…もっと言えば、豊臣秀頼と淀殿の今後を思うと、仮に豊臣家が家康の思惑通りに自滅の道を歩んでくれたなら、これほどまでに老けこむことはなかったのではないかと心を重くしていたのであった。
「随分と精が出ますな…」
ふと家康の背中から声がかけられる。
「なんだ、佐渡か…部屋に入る前に、一声かけんか?」
そう家康が苦言を呈したのは、本多正信であった。その正信は、髪を銀からさらに一歩進めて真っ白に染まっている。彼もまた髪の色素が抜けるほどの気苦労をしているのかもしれない。そんな正信は、家康の苦言に心外と言わんばかりに、目を丸くして答えた。
「これは、失礼いたしました。何度か部屋の外からお声をかけたのですが、全くお返事がなかったゆえ、心配になってつい…」
「ふん!そんな声など全く聞こえんかったわい!」
あらゆる情報、事象に対して、その目と耳に神経をとがらせてきた大御所、徳川家康が、すぐ部屋の外から聞こえてくるはずの声を逃すなんて…
それほどまでに写経に集中していたのか、それとも…
他の、もっと大きな事に心を奪われていたのか…
ともあれ本多正信は、自分が今成すべきことを成そうと、家康の側にそっと腰を下ろした。
「大御所様、ちと耳に入れておきたいことがございまして…」
正信がそう切り出すと、家康はその手を止めて、彼の方に向き直る。そしてどこか疲れたような表情のまま、彼に問いかけたのであった。
「なんだ?申してみよ」
「はい、それが越前卿のことでございまして…」
越前卿とは、すなわち徳川家康の次男、結城秀康のことであり、その渾名が出てきた瞬間から、家康はそっと目をつむる。それは、さながら正信に本心は覚られまいと言わんばかりだった。
「続きを申してみよ」
「はい…では…それがしが手に入れたところによれば、どうやら来年の春、越前卿は、自身が正三位に叙位されることへの謝礼として、一部の公家を伏見の越前屋敷に招き、大規模な饗応をご準備されているとか」
「ほう、それがどうした」
「問題はその饗応の翌日のことにございます」
「ふむ…何をするつもりなのだ…」
言葉を切った正信は、しばらく家康を見つめる。相変わらず目を閉じたままの家康は、口も結び、その顔からは細かい感情を読みとることは出来そうにない。
正信は意を決したように、一つ息を吐くと、声を低くして続けた。
「豊国神社に参拝されるそうです」
その言葉に思わず家康の目が開いた。明らかに青ざめたその表情から、家康の尋常ならざる驚愕がうかがい知れる。それほどまでに衝撃的な内容と言えた。
「ば…馬鹿な…」
思わず漏れ出た言葉は、これが精一杯であった。
これほどまでに家康を驚かせたその理由は明白であった。
なぜなら豊国神社が祀られているのは、豊国乃大明神…すなわち豊臣秀吉であるからだ。つまり結城秀康は、正三位の叙位の報告と謝意を述べる為に豊国乃大明神を参拝すると計画しているのである。
この事が示す意味、それは…
――いかに徳川の世にて位が上がろうとも、亡き太閤殿下のご威光に感謝を申し上げるべし
という強烈な意志表示であるとしか思えないのだ。
しかし、それがそこらの公家が叙位の直後に参拝するならば、さしたる衝撃もないだろう。
だが、それを結城秀康が行うことに、大きな意味がある。なぜならこの頃、大名たちはおろか陪臣やその小姓たちに至るまで、武士たちの間で豊国乃大明神への参拝は敬遠されていたからだ。そんな中、「徳川家康の息子」であり「将軍、徳川秀忠の実兄」である、つまり、養子に出されているとは言え、将軍家の直系である彼が、豊国神社に参拝することの影響ははかりしれないものがあると考えるのは、決して難しくないのである。
――越前卿でさえも参拝をしたのだから…
そう考えて公然と参拝する者たちが現れてもおかしくはないだろう。
それは家康にとっては、非常に面白くない未来なのは当たり前だ。と言うのも、家康の考える豊臣家取りつぶしの道筋は、「豊臣家を孤立させること」から始まっているからだ。しかし豊国神社への武士たちの参拝が続く限り、豊臣家はいつまで経っても孤立することはない。
――なぜだ…なぜ秀康はこのような事を…
明らかに家康の目指すところに立ちはだかったとしか言えない息子の行動に、思わず家康は右親指の爪を噛んだ。しかし、その理由は明らかに一つ。つまり、徳川家康が豊臣家を取り潰す決意を固めたことに彼が気付き、それを牽制する狙いがあるに違いなかったのだ。
――父上の好きなようにはさせん!
とその場にいない秀康の仁王立ちする姿が家康の脳裏に浮かぶと、思わず家康は顔をしかめた。
しかし、そんな思い悩む家康に対して、正信はさらに畳みかけるように続けた。
「それだけではございません。なんと、饗応に招かれた者たち全員を率いて向かわれるとのこと」
「な…なんだと…誰だ…誰が招かれておる!?」
「詳しい事はまだ存じませぬ。しかしその中に、上総介様が含まれております」
「な…何と…辰千代が…」
辰千代…それは松平上総介忠輝、つまりその人物もまた徳川家康の実の息子であった。
つまり徳川将軍家の直系の人物が揃って、神格化した太閤秀吉に頭を下げに行くということになる。こうなればもはや、結城秀康一人の意向ではなく、徳川将軍家の意向が含まれていると勘違いされてもおかしくはないではないか…
思わず家康は大きな声を上げてしまったのである。
「ならぬ!それを許しては断じてならぬぞ!」
顔を赤くする家康に対して、正信は部屋に入ってきたままのいつも通りの、どこかとぼけたような表情で答えた。
「さて…ではいかがいたしましょうか…」
少し調子が狂うような正信の口調は、さながら冷水のようで、燃え上がった家康の頭の中がみるみるうちに鎮火していった。
「どういう意味だ?」
「いえ、どのようにしたらよいものか、思案していたところにございます」
「だから、何をだ!!?はっきり申してみよ!」
家康のいらつき矛先が、はっきりと正信に向けられる。それは正信が、家康に短気を起こさせない為の、彼なりの心遣いなのだ。もちろん長い付き合いの家康はその事を気付いていたからこそ、あからさまに感情的な口調を彼に向けたのであった。
「豊国神社への参拝のみを取りやめにさせましょうか…
それとも、饗応そのものを取りやめにさせるか…」
「ふん!そんな事どちらでもよいではないか!とにかく秀康と辰千代の参拝だけは、絶対に許せん!」
「いえ、大御所様。これは大きな思案のしどころにございますぞ」
「どういう事だ!?」
「考えてもみてくだされ。参拝だけを取りやめにさせれば、世間はこう言うでしょう。
『徳川将軍家は、未だに太閤の威光におびえておる』と…
しかし、公家に対する饗応そのものを取りやめにさせれば、世間はこう言う。
『徳川将軍家は、天子様の使いである公家をないがしろにするというのか』と…
いずれにしても角が立つのは目に見えております」
この事に気づかぬ家康ではない。それでも彼はそこから目をそむけようと、感情的に「取りやめ」を正信に指示したのである。それほどまでに、彼にとっては思案したくない一件と言えた。しかし、彼はその事を包み隠さずにさらけ出した。
「もうよい…とにかくこの一件は、お主に任せる。わしの名を使っても構わん。どうにかいたせ」
半ば投げやりに言ったのは、これ以上この件に関わりたくないという意志表示だ。
ところが正信は、簡単には首を縦に振らなかった。
そしてその場から見動きもせず、そして言葉も発さずに、じっと家康を見つめている。
家康もまた、身じろぎ一つせずに正信の目を覗き込んでいた。
外は相変わらず、しんしんと雪が降り続いている…
この分だと明日は一面の雪化粧に屋敷は包まれるに違いない。
――ああ…何にも染まっていない純白な雪のように生きられたなら…
「大御所様…本当にお任せいただいて、よろしいのでしょうか」
沈黙――
先に目をそらしたのは…
徳川家康であった――
「二言はない」
わずかに震えるその言葉。
そして家康は再び正信に背を向けると、写経に没頭し始めた。
その丸い背中を見つめる正信。
いつも大きく、威厳に満ちたその背中が、この時は小さく、何かに恐れているように正信には見えていた。
そう…
家康はこの時分かっていたのだ。
「参拝だけを取りやめさせる」とか「饗応そのものを取りやめにさせる」といった、半ば強制的で、角が立つそのやり方以外の方法があることを…
さらに、それを本多正信が進言しようとしたことも…
思わず正信はその背中に手が伸びる。
そして…
そっとさすろうとしたその瞬間…
「用事がないなら、もう出ていけ」
と、家康の突き放すような一言に、思わずその手が止まった。
正信は頭を一つ下げると、静かにその場を後にしたのだった。
こうして、本多正信は最後の最後まで進言することは出来なかった。
しかし、もはやこうするより他なかったのだった。
――越前卿が、饗応を自ら取りやめにする何かが起ればよい…
ということを…




