弟よ!幸あれ!⑯天下一品を巡る約束
◇◇
石田宗應と大久保長安が、今後の天下の行方を揺るがしかねないような会談が始まったその頃、俺、豊臣秀頼は、松平忠輝を伴って同じく学府の中にいた。
その目的は言わずもがな学府の見学であったのだが、数ある研究棟を抱える広い学府の中にあって吸い込まれるようにして、そのうちの一つめがけて足を早めていたのだ。
「もう少しじゃ!忠輝殿!がんばるのじゃ!!」
俺は額に汗を光らせながら傍らの忠輝を見る。すると、忠輝はきゅっと唇を引き締めてうなずいた。
学府内では馬や駕籠での異動を禁じている為、俺たちは自分達の足でその場所へと急ぐ。
宗應と長安が真剣勝負の会談をしているであろう中にあって、俺と忠輝もまた必死な形相で前を行く大野治徳と堀内氏久の背中を追いかけていったのだった。
そして…
「秀頼様!!見えて参りましたぞ!!」
大野治徳の大きな掛け声とともに、学府の人々の居住区の先に大きな建物が見えてきた。
「おお!!ようやく来たか!!よし!一気に駆け抜けるぞ!!」
目的地が見えると不思議に闘志がわき上がり、上がりかけていた息が自然と整ってきた。それは隣の忠輝も同じであったようで、彼もより一層凛々しい顔つきとなったのだった。
俺たちが目指しているその場所…
それは…
絵師たちが集まる研究棟。
そこで、俺はとある絵師に予め依頼…いや、命令しておいたのだ。
――天下一の春画を作っておくように
と…
もうすぐそれと対面出来る!
もちろん忠輝にもその事は話しをしてあり、彼もその研究棟が近づけば近づくほどに、顔を興奮で真っ赤にしていった。
そして何より、今日は「邪魔者」がいない!
淀殿も甲斐姫も大蔵卿も今頃何も知らずに大坂城で、お茶でもすすっているに違いないのだ!
まさに千載一遇の機会だ。
この機会を逃す訳には絶対にいかない!
「うぉぉぉぉぉぉ!!!!」
思わず腹の底から出たその声は、秋の空に高く響いたのだった――
………
……
胸ときめく出会いがもうすぐそこに…
しかし、現実とは時に非情なものである。
そこで俺たちを待っていたのは、思いもよらない人であった…
「あらあら!そんなに顔を真っ赤にさせて、このおかかにそんなに会いたかったのかね!?」
「…」
俺はその人物を見て、思わず言葉を失ってしまうと、流れる汗もぬぐうことなく、息を荒くしたまま、しばらくその人を眺め続けてしまった。
「どうしたぁ?おかかの顔に何かついているのかね?」
俺の顔を不思議そうに見つめかえしているその人は…
なんと、太閤秀吉の正室であり、「おかか様」と呼ばれている北政所…今は、高台院と呼ばれている人だった。
「な…なぜ、こんなところにおかか様がおられるのですか!?」
そう…高台院はなんと絵師の研究棟の手前で俺たちを待ちかまえていたのである。そのあまりにも不自然な彼女の登場に、俺の頭は真っ白になっていた。
「なんでも今朝方、淀殿から報せが来てな。
ここで待てば必ずお前さん来るからと。
それを聞いた時は、いぶかしく思ったんだけど、いざ来てみれば本当にこうして必死に駆けてやって来てくれたでねえか!
もうびっくりたまげてしまってのう。
流石は淀殿じゃ!」
「ぐぬぬっ…母上か…」
遠い大坂城で、お茶をすすりながら甲斐姫らと高笑いしている淀殿の顔が浮かぶと、思わず歯ぎしりしてしまう。そんな俺を不思議そうに見る高台院に対して、もちろん本当の事を話す訳にもいかず、俺はがくりと肩を落としたのだった。
しかし、高台院は一体何をしにここまで来たのだろうか…
そんな風に不思議に思っていると、その彼女の背後から、
「秀頼様!!お久しぶりにございます!!ははは!」
と、快活な笑い声が聞こえてきた。その声がした方を見ると、そこには一人の少年がニコニコしながらこちらに向かって手を振っているではないか。その姿が目に入った瞬間に、俺のしかめ面は自然と笑顔に変わった。
「おおい!!仙千代!!あはは!!久しいのう!」
内気で色白な松平忠輝と比べると、その少年はいかにも好奇心の塊といった風で陽に良く焼けたこげ茶の顔に白い歯を覗かせている。この少年の名は松平仙千代。これより数年後に元服した後は、松平忠直と名乗ることになる。この時、十一歳の彼は、その父に結城秀康を持つ、松平忠輝にとっては甥にあたる人だ。
しかしこの時、忠輝は十四歳で、俺は十三歳。三人揃えば、まるで兄弟のような感じさえする。
ただ、忠輝は初対面の人と接するのは苦手なようで、仲良く肩を抱き合う俺と忠直の様子を、羨ましそうに見つめていた。
そんな彼の視線に気づいた忠直は、笑顔を引き締めると、姿勢を正して忠輝の前に足を進めた。
「ややっ!もしや松平上総介様でございましょうか!?」
「あ…ああ」
年下の忠直に気圧されたかのように、忠輝は生返事をするのが精一杯なようだ。俺は、そんな彼に手を差し伸べるようにして、彼の手をぐいっと引いて、俺を真ん中において三人で肩を組んだ。
「あははは!!固い!固いぞ!二人とも!!」
「おやめください!秀頼様!ははは!」
やめてくれと言いながらも嬉しそうに笑顔を見せている忠直に対して、忠輝はまだ表情が硬いが、それでもどこか心を許したような表情になっているのは、少年特有の素直さが、等しく彼の内にも存在している何よりの証であった。
さて、忠直がここに現れたとなれば、その理由はただ一つ。この京の学府を出た後に向かうことになっている場所への迎えに違いなかった。そこになぜ高台院が顔を出したのかは分からないが、おそらく次の目的地に同行するつもりなのだろう。
何も知らずに正月以来となる俺との再会に、純粋に喜んでいる高台院の目を見ると、心がちくりと痛んだ。
はて、この痛みはどうしたものか…と思っていたところに、一人の青年が通りかかって、俺の事を目を大きくして見てきた。
「もしや…豊臣秀頼様でございますか!?」
「むむっ!?いかにもわれが豊臣右大臣秀頼であるが、お主は何者じゃ?」
青年は俺が名乗った瞬間に、
「これは失礼いたしました!!」
その場で平伏している。
「よいよい。顔を上げよ。われに何か話したいことでもあるのか?」
すると青年は顔を上げて、真剣な面持ちで大きな声で言った。
「ははっ!!わが師匠が、秀頼様がご依頼のものが出来たと、お伝えしてこいと命じられまして、秀頼様を探していた次第にございます!!」
「依頼のもの…まさか…」
驚きの声をあげた俺に対して、真剣だった青年の表情が…
ニヤリとした笑顔に変わった――
「はい。『例のもの』が出来上がりました」
「な…なんと!!ちょうどその様子を見に…」
そう言いかけた瞬間、俺は思わず口を手でふさいだ。
有頂天のあまり、ここに「もう一人の母」である、おかか様がいるのをすっかり忘れており、うっかり『例のもの』について口を出しそうになってしまった。
「なんだぁ?何か依頼してたのかね?屏風か?」
高台院の純朴な問いかけが、俺の胸にぐさりと刺さる。
――まさか、俺が春画を作らせたとは、露とも思っていないであろう…
高台院の瞳に映る俺は、まだ「拾い」と呼ばれた頃の何も知らない初な赤子のままなのだろう。
まさか春画に心を躍らせる穢れた少年になってしまったなんて、想像だにしていないに違いないと思うと、六十歳手前の優しい老婆のことを騙しているような、罪悪感にさい悩まされた。
俺はなおも不思議そうにみつめる高台院の瞳に根負けしたようにうつむくと、つぶやいた。
「われが作らせたものは、ここにおる松平上総介殿への土産である…ついては、貴重なものゆえ、誰の目にもつかぬように注意しながら、信濃国川中島へと送るがよい…」
「かしこまりました!!そのように手配いたします!!
しかし秀頼様におかれましては、ご覧にならなくてよろしいのでしょうか!?」
「ぐぬっ…われは忠輝殿の為に作らせたのだ。べ、別に見たいなど、これっぽっちも思っておらぬ!」
「よ…よろしいのでしょうか…?あのような天下一品のモノなど、目にする機会はそうそうございませんが…」
「な…なに…!?それほどまでにスゴイのか…!?」
「はい…それはもう…思わずよだれが垂れるほどに…」
見たい、見てみたい!
しかしそれはいくら心の中でもがいても、もはや叶わぬ願いなのだ。
――おかか様を失望させる訳にはいかない…
俺はその一心で、まだ見ぬ俺の『恋人』を心の内で描いていた。
それは目の前の研究棟の中で、俺の事を待っているのだろうが、今の俺にはその研究棟がはるか遠く、まるでここから江戸までの距離のように思えると、思わず熱いものがこみ上げてくる。
そうして徐々にその研究棟が涙でかすんでいくのだった…
そんな俺の様子などお構いなしに、高台院と忠直は俺に素っ頓狂とも言える口調で声をかけてきた。
「かようにたいそうなものなら、おかかも見てみたいものだのう。一体、お前さんは何を作らせたのかね?」
「秀頼様!そんなに素晴らしいものであれば、是非それがしも見てみたい!!」
状況が飲み込めていない二人の輝く瞳に、俺は涙目で叫んだのだった。
「われだって見たいのじゃ!!でも、見るわけにはいかないのじゃ!!
それに、おかか様の足を運ばせるほどのものではございません!
そして、仙千代!お主にはまだ早い!!」
京の秋の空に俺の悲痛の声が響く…
どこまでも高い空は、そんな俺の無念の想いを包みこむとともに、そこには母淀殿と、師匠甲斐姫の「ほほほっ!!」という高笑いだけが俺の目には映っていた。
そして…
完敗――
この二文字だけが、俺の心を支配したのであった…
しばらく天を仰いでいた俺であったが、もはやこの日に見る事がかなわぬと観念すると、ふらふらとしながら忠輝に向き合って、彼の手を強く握って念を押した。
「必ずや…必ずや、忠輝殿の城まで見に行くゆえ、大事にしておくれ。よいな?」
忠輝は今度は俺に気圧されるように、「うんうん」と何度もうなずく。
その瞳には嘘偽りなどなく、むしろ再び同年代の「親友」と共に心躍る時間が過ごせる未来の約束に、喜びの色が強く映っていた。
俺はその瞳を見て、忠輝との強い絆を感じるとともに、俺にとっても「親友」が出来たことに、今の傷ついた心が即座に癒える感覚がとても心地よかった。
ここに豊臣秀頼と松平忠輝の、天下一品を巡る約束が、固く結ばれたのであった――
すっかり爽快な気分に変わった俺は、袖でぐいっと涙を拭くと大声で号令をかけた。
「よぉし!!仙千代!!出発じゃ!!兄上のもとへ連れていっておくれ!!」
俺の暗い雰囲気にのまれていたお供の人々も、俺の声色に明るくなる。そして、忠直もまた元の笑顔に戻して、
「はい!!秀頼様!!では、みなさま!!それがしについてきて下され!!」
と弾けるように言うと、片手を高々と上げて先を進み始めたのだった。
そう、この後俺たちは、「俺の兄」と言うべき人の元へと挨拶をしに行くことになっている。そしてその事は、俺に一つの事を教えることになるのだ。
それは…
――史実とは、歴史の勝者によって、いかようにも書き変えられるものである
ということであった。
 




