弟よ!幸あれ!⑬守れる力を求めて(3)
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天正十年(1582年)四月――
富士では織田信長の物見遊山が華やかに行われたその直後…
そのまま甲府に残った、信長の嫡男、織田信忠を中心とした織田軍は、なおも各地でくすぶり続ける武田の家臣や、その息のかかった者たちを徹底的に追い詰めていった。
甲斐国内の農村には、「武田家の者の首一つを、黄金一枚」という破格の報酬金を掲げ、自軍の兵だけではなく、地元の農民たちをも扇動して武田家の元家臣たちを処刑していったのである。
そんな折であった。
成瀬正一なる武田家の旧臣が、山中に身をひそめる大久保長安を訪ねてやってきた。
「十兵衛!十兵衛はおるか!?」
「しっ!吉右衛門(成瀬正一のこと)殿!お声が大きい!織田の者に見つかれば、戦さとは縁遠かったそれがしでも命はございますまい!」
声を聞いただけで成瀬正一であると分かったのは、彼らが古くからの顔見知りであったからだ。
成瀬正一は初め武田信玄に仕えていたが、その後出奔して徳川家康の元で働いている。旧武田家の家臣たちとの間に、顔なじみも多く、残党狩りが横行される中にあって、彼らを救出すべく甲斐国を右に左に駆け巡っていたのであった。
そしてその正一は長安の類まれなる経営手腕とその人徳を高く買っており、彼を徳川家康に引き合わせようと、黒川千軒の人々から彼の居場所を聞きつけてここまでやってきたという訳であった。
しかしその事を聞いても長安は、簡単に首を縦に振ることはなかった。
「黒川の人々はどうなるのだ!?あの者たちの命は保証されるのであろうな!?そうでなければそれがしはここを動かん!」
「その心配にはおよばん!彼らは一介の村人である。武田家に忠誠を誓った武士ではないゆえ、織田の残党狩りの対象にはならん!
むしろかの者たちが知っておる金山の普請の技術があれば、きっと織田右府様も高く買ってくれるに違いあるまい。
であるから、お主は安心してそれがしとともに徳川様の元へ参ろうではないか」
その言葉に安堵の表情を浮かべた長安は、今度は正一の誘いに首を縦に振って、早速その場から彼とともに離れようとした。
しかし…
大久保長安は、この時初めて知るのである。
敵は外にばかりいるのではない、むしろ内に潜む敵ほど情け容赦もない…
ということを…
それは一人の青年が、長安の隠れ家に血まみれになって駆けこんできたことから始まった。
「じゅ…十兵衛様…一大事にございます…」
それは黒川千軒で金堀りをしていた男のうちの一人であった。
息も絶え絶えの彼の姿を見ただけで、長安も正一も、ただならぬ事が黒川千軒で起こっている事を悟った。
「いかがした!?誰にやられたのだ!?」
思わず大声で叫ぶようにして問う長安。その言葉に答えるように、青年は最後の力を振り絞って口を開いた。
「依田の残党が…」
「依田!?依田だと!!?」
依田氏とは武田家の忠臣の鑑と言っても過言ではない程に、苛烈な忠義心の持ち主の一族であった。
その当主の依田信蕃は、織田や徳川の大軍勢にも一歩も引かずに、武田家が滅亡するその時まで、田中城を半年以上も守り抜いた事で知られている猛将だ。
その依田一族のうちの一人が、かつて金山奉行をしており、言わば長安の上役にあたっていた。
その頃の依田氏は長安とも馬が合い、黒川千軒の人々とも良好な関係であった。
その依田氏と彼に従う武田兵の残党たちが黒川千軒にて凶行におよんでいるというのだ。
その事に、長安はにわかに信じられなかった。
それもそのはずだ、なぜなら彼らは「味方」なのだから…
しかし、傍らにいる正一は違ったとらえ方をしたようだ。
彼もまたとっさに叫んだ。
「金堀りたちの口封じだ!!そうに違いない!!」
そう、黒川金山は一時期、その採掘量ががくりと減った時があった。しかし、大久保長安と金堀りたちが編み出した新たな発掘方法や精錬方法によって、見事にその産出量が復活したのである。
その発掘の秘密を、織田や徳川の手に渡すまいと武田の旧臣たちは考えたに違いない、そう正一は推理したのである。
そしてその事が正しい事をしめすように、瀕死の青年は首をゆっくりと縦に振って、こと切れた。
「うおぉぉぉぉぉぉ!!!!」
この頃の大久保長安は、周囲と同じように理想に燃えた血潮が流れる若者だ。今でこそ、あらゆる場面にも不敵な笑みを持って対処できる度量を持っているが、この時の彼にそれを求めるのは酷な話しであった。
沸き上がる憤怒の感情は、涙となって体から溢れ出て、彼は後先考えずに黒川千軒の方へと駆けていった。
「待たれよ!!十兵衛!!お主も制裁されるべき相手の一人であることを忘れるでない!!」
正一は唾を飛ばしながら懸命に彼を止めようと叫んだが、その声は届くことはなかった。
「ぐぬっ!仕方あるまい!!」
そして彼もまたとある場所へ駆けていった。だがそれは、長安が向かった黒川千軒とは異なる場所の方だった。
………
……
黒川千軒に駆け込んだ大久保長安の目に映ったのは、凄惨な殺戮が行われた後の死屍累々の光景であった。
「これは…人の出来る所業じゃねえ…」
既に依田とその兵たちは立ち去った後だったのだろう。そこには華やかな黒川千軒とはとても思えない、不気味な静けさだけが残っていた。
あまりの光景にしばらく呆然として動けないでいた長安であったが、とあることに気づいた。
「おとき…それにおなごたちがおらぬ…」
そう、およそ五十人の遊女たちと、おときが忽然と姿を消しているのだ。
長安は言い得ぬ不安を抱えながら、
「おときぃぃ!!返事をせよ!!おとき!!」
と、少女の名前を呼びながら街の中を歩いた。
と…その時であった。
「じゅ…十兵衛様…」
という彼の名を呼ぶ少年の声が物陰からしてきたのだ。
「誰かおるのか!?」
その声に反応した長安は、その物陰の方へ駆けていった。すると、そこには腹を槍で一突きされながらも、なんとか息をしていた少年の姿があったのだ。
そして長安を見ると、かすかに口元に笑みを浮かべた。
それは十兵衛を心配させまいとする、少年の最期の強がりだったのだろう。
「おい!しゃべるな!今手当てをしてやるから!」
長安は少年の傷口を抑え、なんとか流れる血を止めようとする。しかし既にそれは出遅れなことを示すように、少年の体は冷たくなっていく。
そんな中、少年は最期の力を振り絞って長安に告げた。
「銚子谷…おとき…お姉ちゃんたち…連れてかれた…」
「なんだと!?銚子谷だと!?」
「早く…しないと…」
そこまで言うと、少年は息を引き取った。
そして、少年の開いた目をそっと閉じさせた長安は、その亡骸に手を合わせると、次の瞬間には風になっていった。
もちろんその向かう先は、銚子谷であったーー
………
……
銚子谷には目を疑うような光景が繰り広げられていた。
それは転がる複数の死体のことではない。
人の死など、ここまでくればもう見慣れたもの。長安は、そのことに心を動かされなくなっていた。
しかし、今目の前の光景には、長安の想像を超えていたもので、彼は思わず呼吸をすることすら忘れてしまったのである。
それは…
銚子谷の崖の上の舞台…そこに五十人以上の遊女が全員上げられていた。
もとよりその舞台は、細い藤蔓で吊るされており、五十人もの人間がその舞台に上がれば、その蔓は切れ、そのまま舞台ごと崖下に落ちてしまう危険性が高い。
現に不自然なほどにその舞台は揺れ、その揺れが生じるたびに遊女たちの悲痛な叫び声が上がっていた。
「やめろぉぉぉぉ!!!」
長安は自らの身の危険など顧みることなく、その舞台の前にたむろしている武田の残党たちに大声を上げた。
その彼らの目は一様にぶつけようのない怒りに血走っており、見るからに尋常とはかけ離れた精神状態であることは明らかであった。
つまり、彼らは長く続いた戦さと主家の滅亡、さらにはその命を常に狙われる恐怖から、物事の善悪を見失い、ただひたすらに無為な殺戮を繰り返すほどに心が壊れてしまっていたのであった。
こうなってしまっては、何を言ってもその心に響くことはないであろう。
むしろ新たな獲物が自らのこのことやってきたことに、よだれを垂らしながら喜んでいる。
「ああ…十兵衛か!よく来たなぁ!探しておったのだ!」
「そのおなごたちは何も知らねえ!!もし、金山の事を知っている者に用があるなら、俺一人で十分であろう!!
おなごたちをその場から放せ!!」
長安は無意味な正義を叫ぶ。通用しないと分かっていながらも、心は叫ぶことを止めなかった。
あまりに大きな声を出したせいか、喉はつぶれ、口からは血が出ている。美しかった彼の声はこの時に失われ、この後はしゃがれた声しか発することが出来なくなってしまった。
しかしそれほどの長安の嚇怒も、今の依田をはじめとした武田の残党には、そよ風程度にしか感じられなかった。
「さすがに五十人を斬るのは面倒でな…この舞台から皆で崖下に落ちてもらうことにした…その後、長安…お主のその首を斬り落としてくれよう」
「待て!!おなごたちは何も知らんと言っておろう!!」
「うるさい!!何かを知っていようが、知っていまいが関係ない!!武田家中の者はみな死んだのだ!!
この者たちもかつて勝頼公の庇護にあった身なれば、ここで勝頼公に殉じて死ぬのが、奉公というものだ!!」
「そんな理屈が通用するか!!弱き彼女らを守るのが侍ではないのか!!」
どんなに言葉を並べても、武田の残党たちには届かない…
それは変わらぬ事実だ。それでも長安は叫び続けた。
しかし殺戮に逸る気持ちを抑えきれぬ残党たちには、これ以上話しを長引かせることは限界であった。
じりじりと舞台の方へと近づく彼ら。そんな彼らに対して、遊女たちは肩を抱き合いながら震えている。
それを見て長安は…
一つの賭けに出た…
それは、人の最もいやらしい部分に訴えかけることであった。
「ここに鍵がある!!これは、採掘した金を保管した蔵の鍵だ!!
これをてめえらにくれてやる!!
そこから金を取り出して、上手く逃げのびれば、一生遊んで暮らせるであろう!!
だから、この鍵を持ってこの場を見逃してくれ!!この通りだ!頼む!!」
長安は、鍵を高く掲げて残党たちに向かって叫んだ。
すると、残党たちの頭である依田の目が…
変わった――
そう…彼は最初からこれが目当てだったのだ…
――必ずやここには大量の金が埋蔵されているに違いない…それを手に入れて逃げるのだ
そう残党たちと謀ったのだろう。
しかし、街の人々は誰一人として口を割ろうとはしなかった。それから先はいつの間にか、彼らの目的は、ぶつけようのない怒りのはけ口を満たす為の殺戮に変わり、挙句の果てには一か所にまとめて女たちを殺すという暴挙へとつながったのではなかろうか。
しかしこの場に大久保長安が現れて、「金」のありかを示したことで、彼らは本来の目的を再び取り戻し、目の色を変えて、その足の向け先を長安の方に変えたのだった。
「早くその鍵を寄越せ。そうすれば女たちとお主の命は助けてくれよう」
「先におなごたちを舞台から下ろせ!!でなければ、この鍵は崖下に投げるぞ!!」
じりじりと縮まる長安と残党たちの距離。
相手は刀と槍を構えた精鋭ばかり。一方の長安は刀などほとんど使ったこともない。それでも彼は一歩も引くこともなく、鍵を高々と掲げ続けた。
この時彼は既に覚悟していた。
――鍵を渡そうと渡すまいと、どうせ自分は助からないであろう…
と。しかし、それでもなお、
――ならばせめておときやその他の女たちだけは助けねばならない
と、悲壮な決意を持って残党たちの注意を自分にぎりぎりまで引きつけようとしたのである。
――あと少し…あと少し…
彼は呪文のように心の中で唱え続けた。
今舞台の上の『処刑台』に上がっている遊女たちは、みな両親を失ったり、若くして夫を失ったりした者たちばかり。
ただでさえ過酷な運命を強いられた彼女らに、このような悲惨な最期が待ち受けているなど、あってはならないことだ。
乱世の世にあって、いつも弱い者たちは虐げられてきた。
罪もない女や子供であっても、地獄を見なくてはならないのは、当たり前のことであった。
それがもし、世の中の理の一つであるならば…
――そんな世の中、俺の手で変えてやる!例えこの身が滅ぼうとも!天の上から変えてやる!!
死が目前に迫りながらも、彼はそう心に誓った。
そして今目の前に起こっていることで、確信したことがある。
それは…
――金は力だ!剣の腕や家柄だけではなく、金の力は弱い者たちを守れる力となる!!
と…
そして彼は再び叫んだのだった。しかしその相手は残党たちではなく、舞台の上に立っている遊女たちに向けてであった。
「生きよ!!生きて、生きて、生きて、生き抜け!!
俺は天の上からお主らを守ってやる!!必ずや笑顔で暮らせるように、導いてやる!!
だから絶対に死ぬんじゃねえ!!」
そう一息で言った瞬間に、彼は残党たちに背を向けて鍵を舞台から離れるように、茂みの方へ大きく投げ飛ばしたのであった。
「なにしやがるっ!!おい!みな!追え!!」
慌てた依田の号令に、呆気にとられていた残党たちが、刀を置いて我先に鍵を探そうと駆け出した。
ふてぶてしくにやけている長安を見て、依田は顔を真っ赤にして唾を飛ばす。
「てめえ!!こんな事をしてただで済むと思うなよ!!」
「うるせえ!!こっちは元より自分の命なんざ欲しくねえんだよ!!
卑しき輩め!!早く尻尾振って鍵を探すんだな!!」
「ならば望み通り、てめえの命から奪ってやる!!」
依田はそう怒り狂って叫ぶと、槍を真っすぐに長安に向けて、突進し始めた。
その距離はあと数歩…
もう一つだけ呼吸をすれば、自分はこの世の者ではなくなっているだろう。
――願わくば、舞台の上の遊女たちが皆逃げ伸びられるように…
そう心に思ったその瞬間であった…
――ポンッ!!!!
という太鼓の音が響いてきたのである。
その音に、依田の足も残党たちの鍵を探す手も止まった。そして、みなその音の方に一斉に視線を向けた。
それは…
舞台の遊女の一人が、その舞台に備え付けられていた太鼓を叩いたその音であった。
続けて、か細い笛の音が同じく舞台から響いてくる。
その笛に合わせるように太鼓の高い音が、まるで彼女たちの心を表すように切なく響きわたってきた。
そして…
おときが舞い始めた――
死の恐怖で動くはずもない体は、舞い始めるとともに、さながら清流の中を優雅に泳ぐ鯉のように、滑らかな動きで人々の視線を惹きつける。
指先からつま先、さらには髪の一本一本まで張り巡らされた神経は、一つの絵画のような輝きをもって、その舞台の色となっていった。
長安もまたその場の観客の一人となって、おときを見つめていた。
その時だった…
――今のうちに、お逃げください!!
長安の心の中に、おときのその声が響いてきたのである。
いや、彼女だけではない、舞台の上にいる遊女全員の声が、長安の心を叩き続けた。
――逃げて!十兵衛様!
――十兵衛様だけでも助かってください!!
彼女たちの声にならない言葉は、長安の足を徐々に徐々に動かし始めていた。
気付くと彼は、残党たちから背を向けて走り始めている。
「おい!待て!!くそ!逃がすな!!追え!追え!!」
と、依田の大声が背後から聞こえてくる。
しかし長安は振り返ることもなく、駆け抜けた。
呼吸が苦しい。足ももうもげそうなほどに痛い。
それでも彼の心は一つの事だけに支配されていたのだ。
――生きねばならぬ!彼女たちの為にも!!
情けなさ、悔しさは、この命がある限りは、きっとつきまとうに違いない。
それでも、おときや遊女たちから受け取った想いに応えねば、必ずや後悔するだろう。
そして、自分が生きて、この世の理を変えることで、彼女たちがこの世で生きてきた証とするのだ、そう固く決意した。
だが…
「おい!見つけたぞ!!みなで囲ってしまえ!!」
長安の運動能力と、残党たちのそれでは雲泥の差があった。
たちまち長安は残党たちにその背中が追いつかれてしまったのである。
もう追いつかれる…
その時であった。
――ヒュン…
と、空気を裂く音がしたかと思うと、
「ぎゃあ!!」
と、残党たちの一人の断末魔の叫び声がこだました。
何が起ったのか、状況がつかめず顔を上げた長安の視線の先には…
徳川の旗印――
それを認識したその瞬間に、大きな声が響いた。
「われこそは、徳川少将様(徳川家康のこと)が臣、大久保彦左衛門!!悪逆非道の狼藉者たちめ!!このわしが許さん!!」
「おい!彦左衛門!!お主はどうせ弓も槍も使えぬのだから、名乗りなど上げずにそこで見ておればよい!
俺は大久保新十郎(大久保忠隣のこと)!!てめえら!!覚悟しやがれ!!」
そんな声がしたかと思うと、武田の残党たちに向けて徳川兵たちが一斉に襲いかかった。
その後のことは…
実は長安はあまり覚えていない。
助けを呼んで駆けつけてきた成瀬正一は長安の肩を抱き、喜びのあまりに涙を流して彼が生きていたことを喜んでくれた。
そして、残党たちは依田も含めて、みな大久保忠隣と大久保彦左衛門たちによって、その場で成敗された。
さらに、長安が投げた鍵は、成敗された者の手から、長安自らが取り返した。
ところが…
そんな事はどうでもよかった…
目の前の残党たちが倒れていくと同時に長安はもと来た道を、再び駆けていった。
自分を命を懸けて逃がしてくれた彼女たちを、今度は自分が助けに…
しかし…
そこには何もなかった――
銚子谷のその場所には…
舞台と、遊女たちのその姿は…
忽然となくなっていたのであった――
あったのは…
何者かによって切られた藤蔓のみ…
「うわぁぁぁぁぁぁ!!!」
「危ない!!十兵衛!!それ以上崖に近づいてはならん!!」
舞台のあった方へ転がるように駆ける長安。
そして、その淵に前のめりに倒れ込むと、そのまま崖下を覗いたのである。
そこには…
五十人以上の遊女たちが、折り重なるようにして倒れ、絶命していた…
そして、長安の目には確かに映ったのである。
そのうちの一人に…
おときがいた。
小さな、小さな彼女。
ここからではまるで豆粒のようにしか見えない。
それでも、長安にははっきりと分かったのだ。
彼女は安らかな顔で…
笑顔で…
その短い生涯を終えたということを――
後世、この場所は「花魁淵」とか「五十五人淵」と呼ばれることになる。
それは遊女たちが華やかな衣装に包まれたままに、崖から落とされたことに由来されるという。そしてその人数は、五十五人にものぼったとされている。
この時から大久保長安の心には「影」が生まれた。
そして彼は『夢』を持つ。
――弱き者でも幸せに暮らせる世の中を作る。例え、この手を悪に染めようとも…
と…
こうして彼は力を持った。
それは黒川の蔵の中に埋蔵されていた、大量の「金」だ。
この「金」を使って、彼はのし上がっていったのだった。
大久保長安について、あまり好意的に書かれているものはないかと認識しております。
遊女をはべらせて豪遊し、挙句の果てには多額の所得隠しをした、天下の大罪人。
そのようなイメージが大半でしょう。
しかし、彼は確かに江戸幕府の基礎を作り、さらには東京八王子の街づくりに多大なる貢献をした英傑の一人です。
そして、この「花魁淵」。
今は道路が封鎖されており、近づくことすらできません。
ここでの悲劇について、とある歴史小説では、さも大久保長安が仕掛けたものとして描かれていたことに、私は憤慨した覚えがございます。
そして私は、私自身の創作ではありますが、拙作の中では、長安と花魁淵の悲劇の関わり方を、自分なりの解釈を持って描きたかったのでございます。
花魁淵は、秋になると紅葉がすばらしく、その姿が「花魁のよう」ということで「花魁淵」と名付けられたとの由来もございます。
とあるTV番組で心霊スポットとして取り上げられて以降は、その事ばかりで話題になっていた同地ではありますが、そこには世の中の理不尽さに、無念の想いをもってその生涯を閉じた少女たちがいたことを、我々日本人は忘れてはならないと思うのです。




