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弟よ!幸あれ!⑫守れる力を求めて(2)

◇◇

「石見殿の『夢』をお話しいただけないでしょうか」



 この石田宗應の問いかけは、さながら大久保長安の心の底にはびこっている「影」に光を当てているかのようであった。

 もはや言い逃れ出来るような状況でないのは、長安自身が良く分かっていた。それでも彼の感情に、焦りや苦しみが沸いてこないのは、今目の前にいるこの男には、自分の「影」をさらしてしまってもよいのではないかと、そんな風に思えてならないからだ。

 それは石田宗應もまた、心に「影」を持つ男であるからであり、不思議な連帯感のようなものを感じていたからかもしれない。

 

 そして、宗應のこの問いかけ。

 それは「あなたはそれほどに金銀財宝を貯めこみ、一体何をしようと企んでいるのか」とも言いかえることが出来る質問だ。

 それを宗應はあえて「あなたの夢は何か」と言い替えた。

 その事に長安は、宗應なりの気遣いを感じたのだ。

 

 もしこの目の前の男が、例え同じ石田宗應であっても、徳川家中の人であれば、長安はこのような気分にはならなかったはずだ。

 それは彼にとって豊臣家の人間は、敵にはなり得ない事を、本能的に察知していたからであり、すなわち彼の敵は、本来ならば味方であるはずの、徳川家内の人間、もっと言えば徳川に忠誠を誓った全ての人間だったのである。

 つまり「敵の敵は味方」という理屈のもと、彼は宗應の澄んだ瞳に心を無防備に解き放っていたのであった。

 

 こうした心の動きもあって、彼はその胸の内の想いをぽつりぽつりと話し始めた。

 

 それは、彼の史実には明るみに出ることがなかった、半生に関することだった。

 

 

………

……

 天正九年(1581年)夏――

 

 甲斐国の黒川千軒と呼ばれたその街は、この日も笑顔に包まれていた。

 ここはこの時、甲斐国を治めていた武田勝頼にとって非常に重要な地であった。なぜならその街は、武田家の財政を下支えする黒川金山の入り口であったからだ。

 そして「千軒」という名の通りに、多くの金掘りやその家族たちが軒を連ねて生活していたのである。

 

 その中の一人に、大久保長安もいた。

 無論、当時の彼はまだ大久保姓ではなく、土屋十兵衛と名乗り、黒川金山の開発を監督する奉行としてこの地に赴任していたのであった。

 元は猿楽師として武田信玄の前で踊りを披露していた彼であったが、その経済の才を買われ、信玄お抱えの奉行として、頭角を表していった。

 そして、元より芸能に身を置いていたこともあり、彼は他人を喜ばせたり、他人の笑顔を見るのがとても好きな質の人であった。

 その事は、街づくりをしていく上では大きな強みとなっていた。すなわち、彼は人を扱う術に長け、周囲も彼の持つ魅力に引きよせられて、よく働いたのだ。

 彼が赴任する前は、すでに廃れていたこの黒川金山も、彼が奉行となってからは少しずつ活気を取り戻し、今では街全体が戦国の世にあって、どこか華やかさを感じるほどまでに賑わっていたのであった。

 

 

「十兵衛様!今年こそは見に来てくれるのだろう?」



 この時、まだ三十歳にも満たない若い彼にそう声をかけたのは、一人の少女であった。

 

 

「ああ、おときよ。今年こそは見に行くと約束しよう」



 そう長安が笑顔で答えると、おときと呼ばれたその少女の顔が、太陽のようにぱっと明るくなると、

 

「うふふ!これで楽しみがまた増えました!ああ、早く秋がこないかしら」


 と、小躍りをしながら、その場を去っていった。

 このおときという少女もまた黒川千軒に住む人のうちの一人。しかし、その身は裕福ではなかった。

 なぜなら彼女の父親は武田家の足軽の一人であり、先の織田、徳川の連合軍との戦いで討死していたからである。

 そしてこの頃は既に武田家は衰退の一途をたどり、もはや敗軍状態の中にあって、たとえお家の為に憤死した兵の遺族であったとしても、その収入は保証されていなかったのである。

 将来に悲観したおときの母は、元より病弱であったことも重なり、幼い彼女と彼女の姉の二人を残し、父親の元へと他界した。

 つまりおときと彼女の姉は、幼くして両親を失ってしまった。それでも幼い姉妹は生きていかねばならない。そしてそれはおときの姉の手によって食い扶持を稼がねばならない事を意味していたのであった。

 その為に、彼女の姉が選んだ仕事、それは…

 

 遊女であった。

 

 この時、おときの姉は十六歳。その身を金堀りへ売ることで、なんとか生計を立てていたのである。

 そして、彼女のような遊女は決して珍しいものではなかった。

 

 一家の働き手を失い、年頃の娘を抱えていた者たちの中には、その娘を売りに出さざるを得ない状況に置かれた者もいたのだ。

 ここ黒川千軒には、そうした娘がおよそ五十人はいたという。

 

 それでも、おときのように無邪気な笑顔を人々が見せているのは、それは弱者に待ちうける自然の摂理としては、ごく普通のことであるという、いわば常識として成り立っていたからであろう。

 大久保長安もまたこの時は、そんなおときやその姉の境遇に対して同情はすれど、それをどうにかしようとまでは思っていなかったのである。

 

 しかし、それでも喜びに小躍りをするおときの背中を見つめていた長安の顔は、決して優れたものではなかった。

 

 それは、この頃の世の中の状況に影響していたのは言うまでもない。

 

 先の大戦である長篠の合戦以降、武田家の凋落は誰の目から見ても明らかであった。

 しかしここ黒川千軒は、かつての武田家当主である武田信玄からの倣いもあり、様々な役務が免除されていた。

 それは兵役だけではなく、なんと納税の義務までをも免れていたのだ。もちろん金の採掘が条件であることを考えれば、金を納めることが、米を納めることに等しいと言えなくもない。しかし、それでも黒川千軒に住む者たちにしてみれば、生活苦を免れる大きな要因であり、お家が苦しい中にあっても街に明るい雰囲気と活気をもたらす原動力であった。

 

 つまり世の中がどうなろうとも武田家が安泰ならば、この地もまた平和であり、名家である武田家がまさか滅亡への道を歩んでいるとは、黒川千軒に住む人々は露にも思っていなかったのだった。

 

 ただ小さな頃から諸国を猿楽師として練り歩いてきた大久保長安だけは、正しく時勢をつかんでいた。

 そしてこの頃武田家当主、武田勝頼が真田昌幸に命じて普請にあたらせた、新たな本拠である新府城の築城によって、各譜代の武将たちの不満が大いに募っていたことも把握していたのだ。

 

 もしこの不満の種が、織田信長の手に渡れば…

 

 そうなれば長くは持つまい…

 

 もし織田や徳川の手にこの黒川千軒が渡ったとしても、今の人々の生活が保証されるはずもないのだ。

 

 

「ああ…せめて秋までは持ってくれればよいのだが…」



 この一つ季節を越えるというだけのことに彼は、祈るような気持ちでいたのであった。

 

 

 そして、秋を迎えた――

 

 長安の胸を覆っていた不安は幸運にも外れに終わり、この日街は一つの宴が催されようとしていた。

 それは銚子谷と呼ばれる小さな滝を望む場所で毎年行われていた紅葉狩りである。

 その谷は崖の上にあり、眼下には見事な紅葉が谷を覆い尽くす紅葉の名所であった。

 そして、崖からせり出すように舞台を作り、その上に立って若い女たちが優雅に舞い踊る。

 金山の街とあって、どこか華やかさを感じるこの宴を、黒川千軒の人々はみな楽しみにしていたのだった。

 

 奉行職を始め、さまざまな政務を抱えていた大久保長安は、毎年この宴に参加するほどの時間の余裕はなかったのだが、この年は別であった。

 それはおときという少女と宴に加わる約束をしたからではない。

 単に滅びゆく武田家にあって、政務らしい政務がもはや残されていなかっただけのことであった。

 

 こうして宴は幕を上げた。

 次々と遊女たちが舞台に上がり、華麗な踊りを披露していくと、宴の熱気は最高潮に達していった。

 しかし、そんな中にあって長安だけは、笑顔の裏に闇を落としていたのである。

 

 

――この宴が開かれるのも、今回が最後なのかもしれない…



 そう思うと、華やかな宴の最中にも自然と心が沈んでくる。

 

 そんな中であった。

 

 

――ワァッ!



 とひと際大きな歓声が上がったかと思うと、遊女たちの中にあって頭一つ小さな少女が、舞台の中央に進んできた。

 

 

 おときであった。

 

 

 大久保長安は、その姿に目を見張った。

 

 この時まだ十にも満たないその少女は、まるで天女のような妖艶さを身にまとい、その立ち姿だけで人々を惹きつけているではないか。

 

 そして奏者の笛と太鼓の音が、乾いた空気の中に響いたかと思うと、おときは舞い始めた。

 彼女がその腕を振れば、清流のような爽やかな空気に包まれ、足を運べばその輝きに景色が揺れた。

 

 彼女の舞いにその場の全員が目を奪われ、まるで時が止まったかのような不思議な感覚に身を委ねていた。

 

 時が永遠であるならば、その舞いは終わる事なく続けられ、人々を幸福の極みへと導き続けたであろう。

 

 しかし時の流れが無常であることを示すように、奏者の手が終わりを告げると、その舞いもまた動きを止めた。

 

 季節は冬の始まりを感じさせるような肌寒い空気であったが、まるで春の陽射しを浴びたかのように、おときの頬は紅潮し、その額には大粒の汗が輝いている。

 そして、何よりも弾けんばかりの満面の笑みが、踊り終えた後であっても、長安の心を鷲掴みにして離さなかったのであった。

 

 

――ワァァァァッ!!



 大歓声が谷を包む。

 

 紅葉の木々は秋の風を受けてその葉をひらひらと落としていくが、人々の興奮はなおも落ちることなく、陽が暮れるまで宴は続いていったのだった――

 

 

「また来年も踊りたい!その時は、十兵衛様も来てくれますよね!」



 そう無邪気に笑顔を見せるおときに、長安もまた笑顔で何か言葉を返したような気がしている。

 

 この時のことを「気がしている」としたのは、彼自身あまり覚えていないのだ。

 

 それは単純に彼これ二十年以上も前のことであったから、という言い訳も出来る。

 しかし本音を言えば思い出すことを、心の「影」が拒絶していたからだ。

 

 その事が示す意味…

 

 それは…

 

 

 

 この笑顔はこの時を最後に見る事がかなわなかったから――

 

 

 

 年が明けて、天正十年(1582年)3月――

 

 天目山で武田勝頼が自刃したという話しが伝わると、新府城は織田信長の手に落ち、武田家は滅亡した。

 

 そして翌月の四月から、いよいよ黒川千軒にも悪魔の手が伸びてきたのである。

 

 それは…

 

 織田軍による、武田の残党狩りの始まりであった――

 

 

 

 



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