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弟よ!幸あれ!⑪守れる力を求めて(1)

◇◇

 豊臣家の代表である石田宗應との『挨拶』という名分の会談に臨んでいる大久保長安。今の彼は徳川家の金銀調達の主となっている、石見銀山、佐渡金山、そして伊豆の金山と、それらの開発をその一手に担い、その上、勘定奉行として徳川家の財務管理の頂点に君臨している。

 すなわち徳川家の中でも五本の指に入るほどの、超がつくほどの大物だ。

 まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、その権勢は日に日に強まり、そのせいで何かと敵の多いものの、ひとたび彼が江戸城や伏見城の廊下を歩けば、周囲の喧騒は自然と止み、徳川家中の誰もが頭を下げて彼に道を開けるほどに、今の彼に逆らえる者などいなかったのであった。

 そんな彼であったが、今こうして豊臣家の代表と対面していてもなお、その心の片隅に影を落としていることがある。



ーーおときよ…それがしはここでまた一歩『夢』に近づくぞ…



 それは…


 おときという一人の若い女性の面影…


 いや、彼の胸の内にあるのは、彼女のその無邪気な笑顔だけではない。多くの人々の笑顔も彼の心の根の部分に息づいていた。

 しかし本来ならば、色づき輝いているはずのその姿は、みな一様に白黒の世界の中にあったのだったーー



「ところで…まず聞きたいことがあるんだが、よいかね?」



 まずこう切り出したのは、椅子に深々と腰をかけて、腕を固く組んでいる大久保長安であった。

 口元を隠すように両肘を机の上につき両手を結んでいる宗應は、穏やかな口調でそれを許した。



「ええ…なんなりと」


「では聞こう。あの男はいかがした?」


「あの男とは?」


「とぼけるのは良くねえな。それは決まっておるだろう」



 長安の瞳がぎらりと宗應を睨みつける。見る者の心を圧倒するような視線であったが、宗應はそれを真正面から受け止めてもなお、さざなみすら立たない静寂に包まれた水面のようであった。

 

 

「田丸直昌殿…のことでしょうか」


「分かっているじゃねえか。あの男が大御所様の断りもなく、配流の地である越後からこちらに移されてきたと聞いた。

今どこで何をしているか、正直に話してもらおうじゃねえか」



 長安の秘密の一端を知る田丸直昌。彼が大谷吉治に連れられて、京に上がった時点で、既にその秘密は、豊臣方に伝わってしまっているとは思うが、長安としては目の届く範囲に置いておきたいというのが本音であった。

 なぜなら仮に豊臣方から秘密が漏れようとも、所詮は外様からの情報であり、彼の働き一つで、それは「噂話」の域を出ないようにすることは、容易いとたかをくくっているからだ。

 しかし、その田丸直昌が、仮に彼の政敵…すなわち本多正信、正純の親子のいずれかの手に渡ってしまったとするなら、それこそ致命的な汚点となりかねない。

 それだけはなんとしても避けねばならないと、長安は心に決めていたのであった。

 

 それも全て彼の『夢』を実現する為…

 

 つまり、おときや周囲の人々の白黒の笑顔に、再び色をつける為…

 

 彼は彼の貫くべき正義の為に、田丸直昌を取り返さねばならなかったのである。

 

 だが、そんな彼の胸の内など、目の前の宗應が知る由もない。

 宗應はなおも穏やかな瞳を向けて、彼に答えた。

 

 

「移されてきた…とは、人聞きが悪うございます。

彼は、今は亡き当時の彼の預かり人である、堀秀治の命令によって、京にやってきたまででございます。

たまたまその付き添いが、豊家の大学助(大谷吉治のこと)であっただけであり、直昌殿と豊家は何のつながりもございません」


「では、田丸直昌は豊臣家がその身を預かっている訳ではない…と、そう申すのであろうか?」



 宗應の目が少し細くなったのは、長安の瞳にわずかな不安が覗いてきたからに違いない。

 口調こそ長安の方が強いが、今の時点でこの場を制しているのは明らかに宗應であった。

 言わずもがな長安の抱いている不安とは、田丸直昌の身が既に徳川家のいずれかに預けられたのではないか、というものであり、その点について宗應は鋭く見抜いていたのである。

 宗應もかつては、周囲を政敵に囲まれて、何度もその命を危険に晒してきた経験を持つ。自身の正義を貫く為には、戦わねばならない相手は、外ではなく内である事を身を持って知っていたのであった。

 


「ええ…堀秀治にも困ったものです。大学助に付き添いを依頼したものの、その行く先の保証はせずにこの世を去ったのですから…」



 ますます不安の色を濃くしていく長安。その表情の機微にも、宗應は逃さずに目を配っている。

 その事を長安も気付いてはいるが、心の底から沸き上がってくる感情は、いかにしても抑えることは出来なかった。

 

 

「では、今は誰に預けられているのだ?」



 この問いかけに、宗應は即答せずに、長安の顔をじっと見つめた。

 徳川家内においてもはや長安に口出し出来る人物などいるはずもなく、それはすなわち天下において彼の言う通りにならないものなどない、と言っても過言ではない今の世において、目の前の宗應は完全に彼より優位に立とうとしている。

 その事は長安の自尊心を容赦なく踏みにじっていたが、それでも彼は、彼が成し遂げねばならぬ事の為に歯を食いしばってこの場を乗り切ろうと必死であった。

 その必死さが宗應にも伝わっているのであろう。彼は長安を見つめながら、相変わらず穏やかな口調で問い返した。

 

 

「たかだか一人の今は僧の身がどうなろうと、石見殿(大久保長安のこと)には関係のないことなのではございませんか。

なぜこの『挨拶』の場にて、かの者の身の事をかように問い詰めなさるのか…

その理由をお聞かせいただけますでしょうか」



 長安は宗應の瞳を見る。しかし石田宗應という男は、長安の半生以上に、栄光も挫折も等しく経験してきた人物だ。

 彼の瞳から何か感情や考えを覗き見することは、例え今の徳川家康であっても困難であるに違いない。

 無論、長安では何も感じることは出来なかった。

 しかし一方の大久保長安も、一介の猿楽師の身から徳川将軍家の老中まで昇りつめた稀有の男。

 彼は腹をくくって前に一歩足を踏み出す事にした。

 

 すなわち、この「田丸直昌」という一人の男の行方を聞きだす事で、彼はまず自分が決めるべきことを推し測っていたのだが、それに答えを出すことにしたのである。

 

 それは…

 

 豊臣は味方から敵か、そして自分にとって、上か下か…

 

 そして、彼は自分の直感を信じて一つの答えに賭けることにした。

 

 そう腹を決めると、瞳の色が変わる。その瞬間に、宗應の細い瞳が、かすかに大きくなった。

 

 

「あの男が見聞きしたことが、漏れてはならぬ相手がいる。

その相手にその身が渡る前に、こちらに引き渡していただきたいのだ。

この通りだ…頼む」



 長安は姿勢を正すと、組んでいた腕をほどき、宗應に頭を下げたのだった。

 

 つまり彼が導いた答えとは…

 

――豊臣家を味方にする

 

 ということであった。

 宗應もまた結んでいた両手をほどくと、その口元が明らかとなる。

 そこには厭らしさを感じない程度に、ほどけていた。

 そして、長安に穏やかな口調で声をかけたのであった。

 

 

「頭をお上げくだされ、石見殿。ご安心なされよ。田丸殿は今、鞍馬寺という寺に預けております。

豊臣家の息のかかる寺に身を寄せる僧なら、例え徳川家康であっても簡単には手を出せまい。

ましてや、本多や板倉といった者たちが何か策を弄そうとも、その身の安全は確かですよ」



 この時、「本多」や「板倉」といった具体的な名前が、宗應の口から出てきたことに、長安の背中にはゾッと悪寒が走った。

 


――どこまで何を知っているのだ…豊臣家は…



 単純明快なれど、深い疑問が彼の心を覆う。

 

 思わず口を半開きにしたまま長安は宗應の顔を凝視した。もちろん先ほどと同じように、宗應のその表情からは何も読みとれない。

 しかしその口から出てくる言葉だけは、彼が踏み込んだ一歩よりも、さらに大きな一歩となって、彼の心のうちに土足で上がり込んでくるのであった。

 

 

「元より石見殿をこの席に座らせる為に、堀秀治に働きかけをしたのですが、何を血迷ったか、秀治は田丸殿を寄越してこられた。

豊家にしてみても、その扱いに頭を悩ませていたところなのです。

ついては、上総殿(松平忠輝のこと)がお帰りになられる際に、共に田丸殿も越後に帰っていただきましょう。

それでよろしいかな?石見殿」



 あまりにあっさりと長安の懸念を払しょくした宗應に、長安はなおも驚きの色を隠せないでいた。

 そしてあまりに自然に口をついて、その胸の内の言葉が出てきたのであった。

 

 

「なぜだ…なぜそこまでして、それがしをこの場に座らせたのだ…?」



 その問いに宗應は、ニコリと笑った。

 

 そして穏やかな口調そのままに、彼もまた素直に豊臣家の、いや豊臣秀頼の考えを披露したのであった。

 

 

「石見殿が豊家のお味方たるお人かどうか…その事の見極めをそれがしが秀頼様より任せられているのです」


「な…なんと…味方にたる人かどうか…しかも右府様(豊臣秀頼のこと)が…」



 長安の頭はさらに混乱していく。

 

 なぜ他家である豊臣秀頼が自分の事を味方になり得る人物か見極めようとしているのか…

 

 その事があまりに不思議でならなかった。

 

 そして、宗應の踏み込みは、いよいよ彼の心の奥底に、ひたひたと音を立てて近づいてきた。

 

 

「詳しい事情はお話しできませんが、秀頼様は石見殿の事を良くご存じでございます」


「右府様が…それがしの何を…」



 混乱の極みの中にあって、無防備に彼の心は宗應の進入を許していくと、いよいよ彼の「影」の目の前にその姿を見せたのであった。

 

 

「お話しいただきたいことがあるのです」



 そして…

 

 石田宗應と大久保長安の密談は幕を上げることになる…

 

 

 

「石見殿の『夢』をお話しいただけないでしょうか」




 この問いかけから始まったその会談は、後に大きく天下を揺るがす、言わば歴史の歯車を狂わせる事につながるものとなるのだった。

 




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