弟よ!幸あれ!⑩外交
◇◇
慶長11年(1606年)9月16日――
いよいよ俺、豊臣秀頼にとっては非常に重要な一日を迎えた。
と言うのも、今回の松平忠輝の饗応の目的について、もちろん忠輝との交流を深めて、徳川家内部にくさびを打っておくという事もあるが、もう一つの目的の方が実は重要な意味を持っているのである。
それを実行するのがこの日であり、その舞台は京の学府。
大坂城内でないのは、徳川の目が張り巡らされているからという理由の他に、もう一つ大きな理由があった。
それは、とある人物にその仕事を任せたかったからだ。
いや、その仕事の適任者は、むしろ俺の知る限りでは彼しかいないと思えるほどに、彼の手腕を信頼していた。
その人物とは…
石田宗應。
そして、任せたい仕事とは…
大久保長安との交渉であった。
………
……
「おお!ここが天下一の学府、豊国学校であるか!」
松平忠輝はその瞳を輝かせながら、そう驚嘆の声をあげた。
それもそのはずであろう。
学府の事を知らない人にしてみれば、その門をくぐったその時から、そこはさながら異国に足を踏み入れたような感覚に襲われるに違いないからだ。
この頃、学府の敷地は開発当初よりもさらに広大なものとなっており、それはまさに学園都市といったような、一つの街を形成していた。
そこに様々な人種の人々が分け隔てなく自由に学術を学び、そして研究しているのであった。
それぞれの研究分野ごとに、大きな研究棟があり、そこへ人々が自由に行き来している。
この学府では、身分関係なく学びたい者が自由に学ぶ事を可能としている為、特に人気のある研究棟には、常に人で溢れていた。
ちなみにこの頃人気を集めているのは、町民たちには算術、武家には剣術、子供たちには基本的な読み書きといったところだ。
そんな中、俺は、傍らに木村重成、大野治徳、堀内氏久の三人の小姓を置き、松平忠輝とその数人のお供とともに、学府の中を歩いていた。
研究棟同士を結ぶ道は、学ぶ者たちによって綺麗に清掃されており、清潔そのもの。そして、その両脇には、学府に通う人々を対象とした商店がずらりと軒を揃えている。
主に紙や筆などの文具を扱う店が多いが、その他にも茶屋や小料理屋、そして薬屋なども並んでいる。
しかし学府内で酒類を扱うことは、学府長の石田宗應が厳しく禁じている為、酒屋や酒を振舞う酒場は一切ないのが特徴的であった。
学びに来る人々は自身の未来の希望に満ち溢れ、彼らを応援する為に店を構える人々も笑顔がこぼれている。
その中を歩くだけで、こちらの胸もどこか踊ってくるのは、ごく自然なことなのかもしれない。
俺たちはこの学府の雰囲気を堪能するように、ゆっくりとその足を進めていったのであった。
そしてしばらく進んだところで、いよいよ目的に向けた行動に移す時がきた。俺は自然の笑顔を浮かべたまま、背後に控えていた明石全登に声をかける。
「全登。忠輝殿の附き家老である大久保長安殿を学府長の屋敷に案内しておくれ。
われらは引き続き学府の見学を続ける。その後は、先に申しつけた屋敷に向かうゆえ、そこで落ち合うとしよう」
「かしこまりました」
全登は軽く頭を下げると、大久保長安の前に進んだ。
「ほう…忠輝様を抜きにして、それがしだけが学府長様へ謁見という訳か…」
嫌味を込めた長安の口調は、ありのままの敵意がむき出しだ。
それでも俺はケラケラと大笑いしながら、そんな長安の冷たい視線を受け流した。
「ははは!そう警戒しなくともよい!今や徳川家の勘定奉行として重きをなしておる長安殿の身に何かあれば、それこそ天下を揺るがす一大事にもなりかねない。
そんな馬鹿な事をどうして出来ようか。
それに本来ならば、学府長自ら出迎えに来たかったようであるが、いかんせんこの所、徳川家からの監視の目が厳しいようでのう…
学府長は屋敷から出ることすら、ままならぬ状態なのだ。
ははは!勘定奉行殿のお力でどうにかしてくれれば、かようなことはないのだがのう!ははは!」
そう、この頃は学府長である石田宗應への監視の目は、今まで以上に厳しいものとなっていた。
もちろん彼自身が再び徳川家康に反旗を翻すような動きを表立ってしている訳ではない。
俺と千姫の婚儀を見届けた後に北政所が落飾して高台院となると、宗應はその世話役の任を彼女によって解かれた。その事が、何か次の行動に移す為の契機だったのではないかと、徳川家の一部の者たちの目には映ったようなのだ。
あからさまに監視されていると分かるくらいに、宗應が一歩でもその屋敷の外に出れば、笑顔溢れる学府には似合わない険しい表情をした武士たちが、彼の周囲を遠巻きに付いてくるようになってしまい、その為宗應は屋敷の中に身をひそめるようにしている事が多くなってしまったのだった。
それでも彼の屋敷には「学府の研究成果の安全な保管」という名目のもと、例え徳川の者たちであってもその周囲に近づくことすら許されていない。
つまり屋敷の中にいる分には監視の目もなく、静かに職務にあたることも、客人を迎えることも出来るのであった。
さて、嫌味を嫌味で返された形となった大久保長安であったが、俺が彼を害するつもりがないということは正しく伝わったようで、思いの外大人しく全登の背中についていく構えを見せた。
その様子に、忠輝が長安に明るい声をかけた。
「長安!学府長殿によろしく伝えてくれ!」
その声と表情からは、これから長安が単なる挨拶にだけに行くとしか思っていない事が明らかだ。しかし、そんな純真な忠輝に対して、長安は、
「かしこまりました。確かに伝言を承りました」
と、丁寧な言葉使いで答えた。そこからは何の疑いを持つこともない忠輝の事を、卑下する雰囲気などもなく、素直に彼の命令を受け入れる礼節をわきまえた姿勢であった。
この時の彼の瞳を見た俺は、一つ確信した。
それは…
――やはり後世に残る彼の悪事は、何者かによってねつ造されたものであろう…
ということであった。
………
……
賑やかな表通りから一つ中に入ったその場所は、広い学府の敷地の中でも特に静かであった。
そんな中にひっそりとその屋敷は構えられていた。
周囲は竹藪に囲われ、さながら大人数でいっぺんには囲む事が出来ぬような工夫にも見える。
そして目にははっきりとは映らないが、その竹藪の周囲には多くの監視の目が光っていた。それらは徳川のものではない。学府長であり、その屋敷の主である石田宗應が置いた屋敷を守る為の監視の目であったのだ。
つまりその屋敷は、徳川の天下となったこの時代に逆行するように、何人たりとも冒すことを許さない、城郭のような雰囲気に包まれているのである。
そんな中に、明石全登に引き連れられた大久保長安は、彼自慢の屈強なお供たちすら側につけずに、ただ一人その屋敷の前に立っていた。
「では、この先に石田宗應殿が待っておりますので、どうぞお進みくだされ」
そう全登は、自身は外に待機したまま、長安に先を行くように促した。
「ここからは俺が一人ってわけか」
「はい…宗應殿もおひとりでお待ちでございます」
「ほう…二人きりで話しがしたいってことか…ますます俺の身もあぶねえな」
皮肉っぽい笑顔を浮かべた長安であったが、全登はそれには何も答えずに黙って道を開けている。
その様子に、長安も腹をくくって大股で屋敷の中へと足を踏み入れていったのであった。
………
……
「ようこそいらっしゃいました」
そう穏やかな口調で部屋に迎え入れた石田宗應。見た目はこじんまりとしているその屋敷であるが、その部屋は広く、中央には大きな西洋の机があり、椅子が並べられていた。
その部屋の一番奥に宗應は静かに座ると、
「どうぞおかけくだされ」
と、自分の目の前の椅子を指して長安に言った。
すると大人しく椅子の前まで歩を進めた長安であったが、宗應の背後の方を睨みつけて、低い声で言った。
「二人きりで…と聞いていたはずだが…」
「はて…ここにはご覧の通り、それがしと長安殿の二人しかおりませんが…」
宗應はそう言って周囲を見渡すと、確かにそこには大久保長安と石田宗應の二人以外、人はいないように見える。
しかし、長安は険しい顔つきで、地鳴りのような声で続けた。
「あまり人を見くびるんじゃねえぞ。女の臭いがするじゃねえか…お主のすぐ後ろにな」
その言葉とともに、ぬっと影が伸びてくると、一人の若い女性が黒い忍び装束を身にまとって出てきた。
「初芽か…」
宗應は振返りもせずに、彼のすぐ背後に立つ初芽に声をかけた。
「申し訳ございません。宗應様のお役に立てればと思い…」
「いらぬ世話だ。早く立ち去れ」
いつになく宗應の突き放すような口調に、初芽はきゅっと唇を噛むと、頭を下げてその場から煙のように姿を消した。
その様子に長安は苦笑いをして宗應を見つめる。その視線に宗應もまた苦笑いで返した。
「おいおい、若い女にそのように冷たくするものではないぜ」
「ふふ…それがしにとっては若い女より、目の前の長安殿の方が大事でございますゆえ…」
「がははは!あまり気持ち悪い事を言ってくれるな」
そう笑い飛ばした長安は、どかりと目の前の椅子に腰をかけて、深々と座り、腕を組んだ。一方の宗應は机に両肘をつき、顎の前で両手を結んで、その目だけを長安に覗かせている。
「では…始めましょうか…折角こちらにお越しいただけたのです。丁寧に『ご挨拶』をせねば、失礼でしょうから」
「ふん…『挨拶』ねえ…いいだろう。こちらもおたくと是非とも仲良くしたいと願っていた所なのだ」
石田宗應と大久保長安。
この二人きりの密室での会談はこうして幕を上げたのであった。




