弟よ!幸あれ!⑨秘密の共有
◇◇
どの時代においても、人間の心の内なるものはあまり変わらないらしい…
その事を、俺、今は豊臣秀頼は、この六年の歳月の中で身に沁みて理解していた。
女子という生き物たちは、下世話な噂話に貴重な時間を浪費するし、何よりも甘い物が好きだ。
一方の男子という生き物たちは、女子には到底理解出来ない馬鹿げたことに本気になるし、何よりも女という生き物への興味が尽きることはない。
もし、人間の悲しくもある性は普遍の真理であり、戦国末期のこの時代にも通用するということであれば、俺には一つの考えがあった。
それは…
人との絆を深めるには、『秘密』を共有するのが有効――
ということである。
さて、松平忠輝を大坂城に迎えた饗応は、すでに佳境を越え、ぼちぼちお開きになる頃合いとなってきた。
既に俺の隣に座っている千姫などは、漫画の世界に彼女がいれば、鼻ちょうちんが描かれるほどにぐっすりと俺に寄りかかって寝てしまっている。
豊臣家と松平家の家臣たちも、それぞれにいい具合に睡魔が襲ってきているようで、先ほどまでの大騒ぎが一転して静まりつつあった。
俺は、部屋の外であくせくと膳部の片付けをしていると見せかけながら、残り物のつまみ食いにいそしんでいる高梨内記の娘を手招きで呼び寄せると、千姫を寝床へと移させた。
そして部屋の奥の方で座っている俺の小姓の面々、すなわち木村重成、大野治徳、堀内氏久の三人に目配せをした。
三人は目ざとくその合図に気付くと、静かに部屋を後にする。
全ては事前の打ち合わせ通りの動きだ。そして、俺は俺で行動すべき事に移るとした。
そう…松平忠輝と、より絆を深める為の行動に…
「忠輝殿!そろそろ今宵の寝床へとご案内いたしたいと思うのだが、よろしいだろうか?」
すっかり静かになり、人もまばらになった部屋の中を、未だに瞳を輝かせて興奮しながら見つめている忠輝に対して、俺は耳打ちするように声をかけた。
「ややっ!もうそのような頃であろうか…!
うむぅ…残念だな…もう少し楽しみたかったのだが…」
「ははは!お気にめしていただいて、ありがたいのう!しかし、明日のご出立も早いと聞いておるゆえ、そろそろ寝床に行かねばなりませんぞ」
「むむむ…それならば仕方ないか…」
なおもぐずる忠輝に対して、俺はすっと顔を近づけると耳元でささやいたのであった。
「これから忠輝殿にとっておきの『秘密』をお見せしたいのじゃ。だから早くここを出ようではないか」
他人から見れば、明らかに「悪い顔」を俺はしているに違いない。
そして、忠輝はそんな俺の顔を見て、どこか驚いたような、嬉しいような複雑な表情を浮かべていたが、いずれにせよ非常に好意的な反応であることは確かだ。
俺は彼が何かを口にする前に彼の手を取ると、部屋中に響く声で言った。
「これにて忠輝殿とわれは失礼いたす!われは忠輝殿を今宵の寝床へと案内するゆえ、みなのものはこのままこころゆくまで楽しむとよい!」
そして誰の反応を見る事もなく、俺はそのまま忠輝の手を引きながら、足早に部屋を後にしたのであった。
しかし…
今となればこの行動が、見る人が見ればどこか怪しかったのかもしれない。
それとも、俺はただ単に忘れていただけだったのだろうか…
悲しくも変わらぬ人間の性の一つ…
『母は何でもお見通し』ということを…
………
……
広くて暗い大坂城内を俺は一片の迷いもなく、ずんずんと進んでいく。忠輝はそんな俺の背中を何も言葉を発さずについてきてくれていた。
そして、いよいよ目的の部屋が近づいてくると、そこには先に宴を退出した三人の姿があった。
そんな彼らに対して、俺はいつになく真剣な面持ちを浮かべると、なんとも言えぬ緊張が走った。
木村重成が俺に明かりを手渡してくる。
そのわずかな明かりに浮かびあがるようにして、キラリと光る俺の目。その目を見て、三人は小さくうなずいた。
「では…手はず通りに頼んだぞ…」
俺はそう三人に言い残すと、状況が分からずに不安そうなものを顔に浮かべている忠輝の手を引いて、部屋の中へと消えていった。
「この部屋は…」
忠輝は部屋の中を見回しながら、つぶやくようにして俺に問いかけた。
暗がりの中にあっても、やたら派手な壺やら屏風やらがそこらじゅうに無造作に置かれているのが、見えたのだろう。
しかも、それらが素人目に見ても、大変高価なものばかりであることが分かったに違いない。
俺はひそひそ話しをするような小さな声で、忠輝に答えた。
「ここは父上の部屋じゃ」
「なんと!太閤殿下のお部屋であったか!!?」
「しっ!声が大きい!」
「す…すまんつい…」
「よいのじゃ。この部屋は、母上より『決して入ってはなりません』ときつく言われておってな。
今日、この部屋に入ったことは二人だけの秘密だぞ」
この俺の「秘密」という言葉を耳にした忠輝は、暗がりの中でもはっきり分かるほどに顔を赤くして興奮している。
やはり「秘密の共有」というのは、その者たちの距離を縮めるのに一役買うらしく、なんとも言えない一体感が、俺と忠輝との間で形成されていた。
「驚くのはまだ早いぞ。これからがとっておきの『秘密』なのじゃ」
「とっておきの秘密…」
そう言った後に、ごくりと唾を飲んだ忠輝。その瞳には、期待、不安、喜び、驚きと様々な感情が渦巻いている。
しかしその根っこの部分にあるのは、俺に対する親近感であり、俺自身も彼に親しみを覚えていた。
そして彼に問いかけたのであった。
「これから、そのとっておきの秘密をお見せしようと思うのじゃが、一つだけ条件がある」
「条件…?」
眉をしかめて、不安の比重を大きくさせた忠輝の表情を、俺はじっと見つめながら、少しだけ声の調子を強くして言った。これこそ、俺の忠輝に対する素直な気持ちだったのだった。
「われと友になって欲しい!松平と豊臣、お家は違えども、われは同年代のお主とこれからも仲良くしていきたいのだ!」
この言葉に、明かりに灯された忠輝の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていくと、その瞳には光るものが浮かんできた。
「嬉しい!すごく嬉しい!ありがとう!かような事…本来ならば、俺から頼まねばならんことだ!
うん!これからもずっと友でいたい!頼む!」
興奮のあまりに部屋中に響く声を発した忠輝を、俺は注意することもなく、目を細めて見ていた。
彼が喜んでいるその姿を見れて、俺自身も非常に嬉しかった。そして同時に、同年代の友が出来たことについても、この上ない喜びを感じていたのである。
もちろん木村重成、大野治徳、堀内氏久といった俺の小姓たちも俺とは同年代であり、友人と言える関係ではある。しかし、それでも肝心な部分では「主従」としての結びつきが強く、どこか一線引かれているように思えてならないのだ。
今目の前の松平忠輝のように、そういった上下関係のしがらみもなく、接することが出来る存在は、俺にとってはかけがえのないものであり、それを得たことは、天にも昇るほどに嬉しかったのだった。
そしてしばらく互いにそんな喜びにつかった後、俺は部屋の奥から、大きな箱を持ってきた。
「なんなのだ…?これは?」
「開ければ分かる。ささ、開けてみてくれ」
「あ、ああ…」
俺に促されるままに、恐る恐る箱のふたに手をかける忠輝。
そして箱の中に向けられたその瞳が、今までにないくらいに大きくなったのだ。
それは、今も昔も悲しいくらいに変わらない人間の性を、痛いほどに刺激するもの…
いや、「人間の性」というよりは「男の性」とした方が適切であろう。
そう…
男はいつもエロいのだ――
その箱の中に入っていたもの。
それは…
大量の春画であった。
つまり、男女が裸で絡み合っている姿を書いた絵画だったのである。
「ひ、ひ、ひ、秀頼どのぉぉぉぉ!!これは!これはぁぁぁ!!」
大興奮の忠輝に対して、俺はことのほか冷静に言葉を返した。
「太閤コレクションである」
と…
「こ、これくしょん?良く分からぬが、さすがは太閤殿下じゃ!!うぉぉぉ!!」
この時忠輝は十四歳。俺は十三歳の身だ。
この頃の俺たちの年代にしてみれば、この春画は己の純真な性欲を満たすにはちょうど良い刺激であった。
それが一抱えほどもある大きな箱に、びっしりと大量に入っているのだ。
俺も最初にこれらを見つけた時は、治徳と氏久とともに狂喜乱舞したのを覚えている。
木村重成だけは、澄まし顔を赤くして、そっぽを向いていたのだが、絶対に彼も気になっていたに違いない。
いや、むしろ彼が俺たちの中では最も好きであるように思えたのは、俺のただの直感だ。
そして、これらの春画は、最初から全て箱の中に入っていた訳ではなかった。
この部屋の中に、ひっそりと何者かの手によって隠されたように、様々な場所にちりばめられていたのだ。
言わずもがな太閤秀吉が、妻である高台院、淀殿や甲斐姫に見つからぬように、隠していたのだろう。
しかしこの手の物を隠す場所というのも、悲しいかな…いつの時代でも変わらなかったのであった。
書棚の裏、大きなベッドの下、壺の中…
それらをこつこつと俺たち四人は探していき、ひとまとめにしたのが、この宝箱…いや、大きな箱の中だったのである。
ちなみに一番多く見つけたのは、木村重成であったことは、彼の名誉の為に伏せねばならぬ事実だ。
「忠輝殿。これは友としての証として、この部屋にある物の中で、好きなものを好きなだけ持っていくと良い」
「ま、ま、まことであるか!おおおおお!!心の友よ!!」
なおこの部屋の中には、豪勢な茶器や、花入れなど、城一つと引き換えにしてもそん色のない程に高価なものばかりが並んでいる。
しかしこの時、まるで猛る猪のように鼻息を荒くしていた忠輝は、それらには目もくれず、目の前にある春画の山の中でどれを持って帰ろうか、真剣に悩んでいた。
少し興奮しすぎなような気もするが、それでもここに来たばかりの彼と今目の前にいる彼とでは、まるで別人のような変わりようだ。
様々な感情を惜しみなく見せるこの姿こそ、彼の本来の姿なのであろう。
今までがよほど鬱屈した生活を強いられていたに違いない。
これからは、今のように笑顔に溢れた生活を送って欲しい、俺はそう心の底から願ってやまなかった。
そして、実父である徳川家康に疎まれ、兄である徳川秀忠によって改易させられた後、幽閉されて失意のまま九十二歳まで生きたその人生が、少しでも明るいものになることを願ってやまなかったのであった。
この時は、そう心から思っていたのだった。
しかし…
興奮のあまりに周囲に気を配る事が出来ていなかった俺に、この後悲劇が待ち受けていようとは…
それは…
忠輝の一言から始まった。
「むむっ…そう言えば、やたら静かではないか…?
部屋の外の秀頼殿の小姓たちの声が全く聞こえぬが…」
「やや…言われてみればそうであるな…」
先ほどまで、なにやら三人で楽しそうに話していたのが聞こえていたのだが、今その声が止んでいる。
しかし俺は特に振りかえることもなく、一歩前に出て春画を手にすると、背後にいる忠輝ににやけた顔で言った。
「まあ、黙って見張りの任にあたることにしたのであろう。気にせず、続きを見てみようじゃないか。
これなど、どうじゃ!?おなごのこの表情がたまらんだろ!?」
「ほう、秀頼ちゃんはそのようなおなごがお好きなのですね」
「ははは!言わせるでない!わが母の淀殿や師匠の甲斐姫にはない、可愛らしさがあれば、どんな男も惹かれるに決まっておるではないか!ははは!」
「ほう…淀や甲斐にはない…ねぇ…」
「むむ…どうしたのだ?忠輝殿?やたら声の調子が低いでは…」
そうにやけ顔のまま振り返った俺の視線に飛び込んできたのは…
「げえぇぇ!!!は、は、母上!?それに甲斐殿まで!!」
蛇のように冷酷な視線を俺に向けた淀殿と、拳をバキバキと鳴らしながら額に青筋を立てた甲斐姫であった。
なお、忠輝はその背後に顔を青くして立っており、その横には苦笑いを浮かべた大久保長安の姿がある。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっとお待ちくだされ!!
重成たちは何をしているのだ!!あやつらが見張り役なはず!」
「ああん?あやつらなら、われが一ひねりにしてくれた後に、大蔵卿に預けてある。
今頃は大蔵卿にたっぷりと絞られているだろうよ。これまでにない怒りに顔が赤から青く変わっておったからな」
「ひぃ!!」
俺はアオオニのような大蔵卿の姿を想像しただけで、下半身がひゅんとなる寒気を覚えた。
何も悪い事はしていない三人には申し訳ないが、ご愁傷様としか言いようがない。
しかしそれよりも何よりも考えねばならないのは、今この危機をどう乗り切るか、という点だ。
俺は考えた。それはもう必死に考えた。
なぜなら、考えても考えても、この危機を脱するのは、もはや不可能だっという現実を受け止められなかったから…
「ぎゃああああああ!!忠輝どのぉぉぉ!!お助けをぉぉぉぉ!!!」
こうして俺は成す術もなく、怪力の甲斐姫に抱えられると、例の『おしおき部屋』へと連れていかれていったのであった…
………
……
「こたびの大坂城のご訪問はいかがでしたかな?忠輝様」
「本当に楽しい!本当に来て良かった!それに心の友も出来たのだ!これほどに、嬉しい日はあるであろうか!ははは!」
今度こそ本当に今宵の寝床に向かう忠輝に、穏やかだが野太い声で問いかけた大久保長安。彼に対して、松平忠輝は上機嫌のまま答えた。
そんな忠輝の様子を見て、長安としても嬉しくなったのは、彼が忠輝に対して強い思い入れがあるからだ。
長安は暗がりの中、忠輝の横顔をちらりと見た。
その瞳は、昨日までは考えられないほどに輝き、希望と喜びに満ちている。
――ああ…本当に良かった…
長安は素直にそう感じて、胸をなでおろした。
金と権力の亡者と揶揄され、全く良い噂の聞かない長安だが、なぜこれほどまでに忠輝に思い入れがあるのだろうか。
それは真の彼の姿を知らない人が見れば、至極不思議であったに違いない。
「それがしも友になってみたいのう…豊臣秀頼公と…ふふふ」
そして、そう言ってにやける横顔は、誰がどう見てもよこしまな物にしか見えないのであった。
作者としてはこういう話しを作る時が一番楽しく、お気に入りのお話しのうちの一つとなりました。




