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弟よ!幸あれ!⑧氷解

◇◇

 松平忠輝は物ごころついた頃から確信していたことがある。

 

――父上にとって、自分は望まれぬ子なのだ…


 と…

 

 それでも彼は幼い頃は、そんな風にはつゆにも思ってなどいなかった。

 しかし、どうにも不思議な事ばかりで、いつも自分の境遇を彼の母に問いかけていた。

 

 

――どうしてわれは養子に出されたのじゃ?


――どうしてわれは伏見で暮らせないのじゃ?


――どうして…どうしてわれは父上に会えないのじゃ…?



 こうした無邪気な疑問をぶつけるたびに、彼の母親は困ったように顔をしかめていた。

 そんな母の困り顔を見るごとに、彼の心は閉ざされていく事を覚えた。

 

 

 そして…

 

 

 彼が自分で物事を考えられるようになったその頃には、彼の心はすっかり氷漬けになってしまった。

 

 悲しみも、苦しみも、そして憎しみも感じない。

 もちろん、喜びも、楽しみすらも感じることはない。

 

 花を見ても美しいとは思わない。

 一流の料理を食べてもおいしいとは思わない。


 そんな彼は単に生きる為に食し、生きる為に寝るだけの、無為な毎日を送っていたのだった。


 

 しかし…

 

 そんな忠輝を見かねた附き家老の大久保長安に連れられて、豊国祭礼を見に行ったその時は違っていた…

 

 

――なんなのだ…この光景は…



 老若男女も官職も関係ない。皆が踊っている。皆が笑顔を見せている。

 

 皆が燃え上がって、まばゆい輝きを放っている――

 

 素直にその光景に感動し、胸が躍った。

 自分の目の前の踊りの輪に入りたいと思った。

 

――この感情は何であろうか…

 

――なぜ自分はこんなにも心を動かされているのだろうか…

 

 そんな風に彼の凍りついた心を溶かそうと、心の中はまさに祭りの熱気のように熱く燃え上がっていた。

 

 そしてその瞳に映るもののど真ん中にその人物はいたのだ…

 

 

――あれが…豊臣秀頼…



 彼の目には豊臣秀頼が輝いて見えた。

 あまりの眩しさに凝視することすらかなわなかった。

 

 それはまるで…

 

 太陽そのものだった――

 

 


◇◇

 慶長11年(1606年)9月15日――


 まだまだ残暑厳しい季節の中、大坂城内は華やかな飾り付けで眩しく包まれていた。

 

 

「松平上総介忠輝様がご到着されましたぁ!!」



 京まで出迎えに行っていた片桐且元の大きな声が城内に響き渡ると、待機していた女中たちはびしっと整列して一斉に頭を下げた。

 

 

「ようこそいらっしゃいました!松平上総介様!!」



 綺麗に合わせた声がこだますと、その様子にこの時十四歳の忠輝少年は、思わず腰を抜かしそうなほどに驚いていた。

 

 

「な…なんだ…これは…」



 思わずぽかんと口を開けてしまったのは、忠輝だけではない。彼のお供として大坂城に入った松平家の家臣たちもまた驚愕の表情を浮かべ、その中にはかの大久保長安の姿もあったのであった。

 そんな彼らの視線に飛び込んできたその光景とは…

 

 玄関に入ったところからの真っ赤な絨毯。後世で言う「レッドカーペット」なるものが、長い大坂城の廊下にびっしりと敷かれており、その両脇には女中たちが皆、こちらも後世で言う「メイド服」なる洋服を着て整列していたのだ。

 

 

「はははっ!!驚いたようだのう!!松平上総介殿!」



 真夏の太陽のようなからりとした大きく明るい大笑いとともに、なんと背後から現れたのは…

 

 

「豊臣右大臣様!?なんと!!」



 そう、豊臣秀頼その人であった。純白な上掛けに、紺色の袴と清潔感に溢れた爽やかないでたちで忠輝の後ろから声をかけたのだ。

 そして秀頼はにこやかな表情そのままに続けた。

 

 

「『右大臣様』など、堅苦しいわ!『秀頼殿』でよい!呼び名など、われに取ってはどうでもよいことなのじゃ!ははは!」


「は…はあ…しかし…」


「ぐちぐちとするでない!その代わり、われも『忠輝殿』と呼ぼう!それでよいではないか!ははは!!」



 いつの間にか横に並び、肩に手をかけた秀頼は、年上の客人を迎え入れるにはあまりにも礼をわきまえぬ態度であった。

 それでも、当の忠輝を始め、松平家の面々の誰もが不快な気持にはならず、むしろ緊張から解かれて、安堵の表情を浮かべているのは、この豊臣秀頼の人としての魅力がなせる業なのだろう。

 

 そして、最初はぎこちなかった忠輝も、徐々に口元が緩み始めていた。

 

 いかんせん、この松平忠輝という人は、引っ込み思案で人付き合いが上手ではない人間なのだ。それも幼い頃より、父徳川家康から疎まれ、敬遠されてきた生い立ちが影響しているとしか言いようがない。

 どうしても相手の目を見て話すことが出来ない彼が、時折秀頼の横顔を見るその目が輝いているのは、心の底では「こうなりたい」と思える人物像が、まさに秀頼そのものであることを示しているからであった。

 

 

「これはな、うちの明石全登なる者が、遠い異国で見てきたものを忠実に再現したものなのだ!どうだ!?すごいだろ!」


「す…すごい…です」


「ははは!!そうだろ!そうだろ!せっかくの饗応なのだ!

今までに見たことも、聞いたことも、食べたこともないような、そんな気分を存分に味わって欲しいのだ!」


「な…なぜ…でしょう?」


「なぜかって?それは…」



 未だに驚きのあまりに夢心地といった忠輝に、満面の笑みを向け続ける秀頼。

 そんな秀頼の、忠輝の疑問への答えは…

 

 

「その方が楽しいからじゃ!!」



 であった。

 

 

――楽しい…なんなのだ…その理由は…


 

 その意味が凍りついた彼の心では何なのかがさっぱり分からない。

 それでもその奥底に眠っている何かが、もぞもぞと起き上ろうとしているようで、彼は胸をしめつけられるような痛みを覚えた。

 そんな彼の心の中に無造作に、しかも土足でどかどかと入り込んでいく豊臣秀頼。

 その横顔を見るたびに、彼の閉ざされた心が少しずつ氷解していくのことに、彼自身が最も戸惑っていた。

 

 こうして松平忠輝を襲った心の戸惑いは、ついに饗応が始まるその頃には、もはや戸惑いではなくなっていた。

 

 すっかり解け切った心を覆っていた氷は、もはやその水分でさえも蒸発し、心はすっかり渇いていた。

 

 

――もっと見たい!

 

――もっと味わいたい!

 

――もっと楽しみたい!

 

 

 そんな風な、あからさまな欲望を丸出しにした少年の純真な心こそ、彼の胸の奥で静かにその覚醒の時を待っていたモノであったのだ。

 

 そして豊臣秀頼は、そんな彼のむき出しになった欲望に応えるように、彼を今出来る精一杯の事でもてなした。

 

 異国の「蛇つかい」を呼び寄せ、壺から毒蛇を笛で呼び出すような余興。

 西洋の楽器を使った演奏会。

 学府の面々によって振舞われた、世界各国の郷土料理。

 

 そして…

 

 

「さあ!!皆の者ぉぉぉ!!踊れやぁぁぁ!!」



 甲斐姫の掛け声とともに始まった『豊国踊り』。

 あの豊国祭礼で見た、彼の心を強く打ったあの踊りだ――

 

 皆が一斉に踊り出す。

 

 豊臣も松平もない。

 

 家老も女中もない。

 

 その場にいる全員が踊りだした。

 

 そこには輝く笑顔と汗。

 

 しかしそれは未だに単なる憧れに過ぎないものであり、彼は一人その輪に入れないでいたのだった。

 

 ところが…

 

 

「ささっ!!叔父上さま!!共に踊りましょう!!」



 千姫は屈託のない笑顔を忠輝に向けると、彼の手を強引にとってその輪の中に入れた。

 

 踊り方なんて分からない。過去に踊った経験すらないのだ。

 

 それでも…

 

 不思議と体が自然に動いた。

 

 心が、欲望が、彼の頭を支配している。

 

 踊れ!踊れ!踊れ!

 

 と、まるで太鼓を叩くように、激しく彼を鼓舞した。

 

 彼の冷え切った体もそれに応えて、必死に手足を回し続けている。

 

 すると…

 

 彼はそれまで感じていたものが、いつの間にかその姿を消していることに気付いたのだ。

 

 それは…

 

 

 孤独――

 

 

 今彼は…

 

 

 本当の居場所を得た。

 

 

 そんな気持ちとともに沸き上がる感情。

 

 それを彼は口から爆発させたのであった。

 

 

 

「楽しい!!俺は今!!楽しいぞぉぉぉぉぉぉ!!!ははは!!」




 弾ける忠輝の笑顔を見て、心を躍らせたのは、傍らにいる豊臣秀頼だけではなかった。

 

 忠輝を幼い頃から支え続けてきた人物…

 

 そう、附き家老の大久保長安。

 

 彼もまた忠輝の笑顔と言葉を聞き、近頃味わったことのない興奮に包まれていた。

 

 そして彼の得意とするそろばんを弾いた結果、一つの答えに導いたのであった。

 

 

――死んだはずの豊臣家…まだまだ楽しませてくれそうじゃねえか



 と…

 

 


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