弟よ!幸あれ!⑦弱さを認める強さ
◇◇
一方時を同じくして、京にある徳川家の二条の屋敷には、本多正純が徳川家康を訪ねていた。
今日はその傍らには、阿茶の局がお茶を立てている。
「大御所様…豊臣右大臣殿をこのまま好き勝手させてよろしいのでしょうか…」
正純がそう捻らずに真っ直ぐに問いかける時は、決まって彼が家康の判断に納得していない時である。もちろんその事を家康は分かっており、彼は不機嫌そうに正純をちらりと見た。しかしすぐにその視線は、阿茶の局が持参した真っ黒な、いかにも「苦い」と表に書いてあるような正体不明の薬に戻されていた。
「何か文句があるなら言うてみよ」
その苦々しい口調は、目の前の薬を調合した阿茶の局に対して文句を言えぬ己に苛立ちを覚えていたからであろうが、はたから見れば、夫婦水入らずのところにやってきた本多正純に向けられたものと思えるであろう。
しかし当の正純は、家康の機嫌など関係なく彼の思うところを口にし始めたのであった。
「江戸訪問に、忠輝様への饗応と、明らかに大御所様の周囲を固めるようなその動き。
まるで豊臣の存続の為に大御所様を孤立させているとしか思えませぬ」
「わしが孤立…とな。ふん!言うてくれるわ。
元より上に立つ者は孤独なものよ。何を今更…」
そう眉をしかめながら言った家康は、黒い薬を手に取りその臭いに、さらに顔の皺を深くしている。その様子に阿茶の局が、くすりと笑うと手に口をあてて声を上げた。
「あらあら!大御所様!最近は近くにお市がいないと、寂しがっておられるではありませんか!?
『わしを一人にしないでおくれ、お市よ』などと言って。それなのに、正純殿の前では『元より孤独なものよ』なんて格好つけて…」
「う、うるさい!お主は口を挟むでない!」
顔を真っ赤にして抗議する家康。正純としては至って真面目な話しをしているつもりなのだが、この阿茶の局がいるとついその調子が崩される。
なお話しに出てきた「お市」とは、二年前に生まれたばかりの家康の最後の子女である。淀殿の母であるお市の方のように美人に育って欲しいという家康の願いが込められて、そのように名付けられたそうだ。
さて、まさに水を差された形となった本多正純であったが、彼もこの手のやり取りには慣れてきている。彼は特に気にする様子もなく続けた。
「それに、大久保長安殿…あの者の動きにも気を払わねばなりますまい」
「ほう…身内を疑うか…それは物騒であるのう」
「あの者には、あまり良い噂がございませぬゆえ…」
その正純の言葉の後、なんとも言えない沈黙が続いた。
家康の隣で澄まし顔をしている阿茶の局は、「お主もそうでしょう、正純殿」と言わんばかりであったが、家康から感じられる「余計な事を言うな」という重圧に押されるように口を固く閉ざしていたのであった。
「お主…大坂城に呼ばれるのを辞退させられた事に腹を立てているのじゃな」
家康は正純の目を覗き込むようにして、そう重い口を開いた。
「いえ、その事は特に気にしておりません。大御所様もお分かりでしょう。
大坂城内で何か事を起こしても、すぐに大御所様のお耳に届けられることを…」
この点は正純の言う通りであった。仮に豊臣方が松平忠輝や大久保長安に何か働きかけをしたとしても、大坂城内には複数の「徳川の目」を仕込ませており、たちまち明るみに出ることであろう。
つまり、正純が饗応の場に目付けとして参加せずとも、豊臣方は監視の目にさらされており、何も動くことは出来ないのだ。
「動きがあるとすれば…翌日の京での事でしょう」
正純はそう続けた。その点も家康の思うところを同じであり、彼は黙って正純を見つめている。
「では、お主は何を言いたくて、ここに来たのだ?」
「それは、先に申し上げた通り、豊臣右大臣殿の件にございます」
「ふん!わしの目を節穴と申すか!?おおかた、豊臣秀頼殿への警戒心を煽って、秀頼殿と大久保長安が近づくのを防ごうとしておるだけであろう」
家康の鋭い指摘にも、正純は表情一つ変えずに涼しい顔をして彼に頭を下げている。
そして涼やかな口調で流れるように言った。
「これは恐れ入りました。まさにその通りでございます。
豊臣右大臣殿に大久保長安殿…ともに徳川家の安泰をおびやかす存在であれば、警戒すべきかと存じます」
「ふん!気持ちのいいくらい、あからさまな敵意をむき出しにしおって。
少なくとも大久保は身内も同然じゃ。
いかにお主とて、和を乱すような真似は許さんぞ」
「これは申し訳ございません。そう伝わってしまったなら誤解でございます」
「もうよい…とにかくこたびの忠輝への饗応の件は、わしが許したのだ。
義理とは言え、豊臣秀頼殿と忠輝は甥と叔父の関係。今後の事を考えても友誼を深めても問題はなかろう」
「大御所様…それでは、豊臣右大臣殿のことは、徳川の一門と同等に扱われると…そういうご覚悟なのでしょうか」
「ふん!いらぬことを言わせるな!秀頼殿の奥方は我が孫娘のお千。
すなわち豊臣家と徳川家は同じ親族同士じゃ。
そのように扱って何が悪い!」
そう言いきった家康の顔を正純はじっと見つめる。
そして…
正純は目を伏せるとともに、軽く頭を下げると、静かにその場を後にしたのであった。
再び阿茶の局と二人になった家康。相変わらず黒い薬を手にしたまま、大きなため息をついた。
その様子を見て、阿茶の局もまた大きなため息をつく。
「なんじゃ?言いたいことがあるなら申してみよ」
「ふふ、大御所様のあまりに慎重な物の運び方に、少々疲れてしまっただけにございます」
「ふん!疲れるとは、無礼な!」
「あら…無礼なのはどちらかしら?」
そう告げた阿茶の局の顔は、いつになく厳しいものに変わっていた。
それを横目に見た家康は、再び大きなため息をつく。
そして阿茶の局は「先を言え」ととらえ、口を開いたのであった。
「もうお潰しになる事を決められたのでしょう?豊臣家を…」
その彼女のあまりに痛烈な言葉に、思わず家康は手にした黒い薬を落とし、彼女を目を大きくして見つめた。
阿茶の局はさらに続ける。まるで一方的に槍を刺し続けるように…
「それでもあからさまに敵対したのでは、徳川に対して、世間の目が厳しくなる恐れがございます。
それゆえ、秀頼殿の江戸訪問や忠輝殿への饗応をお認めになられたことで、世間に対して『大御所は豊臣に対して寛容である』とお見せになっておられる。
しかし…竹千代が世継ぎとして立派に成長するその目途が立った折には、何かしらの落ち度を豊臣方に見出して、お家をお潰しになられる。
そうすれば、『徳川は最後の最後まで豊臣に手を差し伸べていたが、その手を振り払ったのは豊臣の方だ』との世間体が保てるからにございましょう」
すらすらと家康の腹の内をさらけ出していく阿茶の局に対して、家康はさほど表情を変えずに黙って聞いていた。
なぜならこの頃既に彼は、彼女の言う通りの事を心に決めており、その事を例え他人に非難されようとも、動かぬ決意として固めていたからであった。
「だとしたら何だと言うのだ…?まさか、そのような回りくどいことなどせずに、すぐに潰してしまえばよい、とでも言うつもりか?」
家康の冷たい言葉に、彼女は首を横に振る。
そして先ほどよりも熱を一段上げて言った。
「大御所様が豊臣をお潰しになることに何ら異論はございませぬ。
しかし…」
「しかし…なんじゃ?」
一度戸惑った阿茶の局は、ぐっと唇を噛むと、目を真っ赤にして言ったのであった。
「豊臣秀頼殿と友誼を結んだ者たちをことごとく排除されるおつもりでしょう!!それだけは断じて納得いきませぬ!!」
長雨の季節の手前ではあるが、この日は大粒の雨が降り続いている。
その雨の音が、一層大きくなるほどに、部屋の中は静まりかえった。
それでも家康の表情は一切変わることはない。たとえ、寵愛する阿茶の局が、そのあまりの胸の苦しみに耐えかねて、苦悶の表情を浮かべようとも…
そう…
この頃、徳川家康はその胸の内で既に決めた事がある。
それは豊臣家を潰すということだけではないのだ。
豊臣秀頼が語らい、ともに笑顔を見せあった者たち…
彼らに対して、今まで以上に厳しい態度で臨むことにしていた。
それは、加藤清正や福島正則、浅野幸長といった「外様」と呼ばれた大名たちだけではない…
佐和山井伊家、美濃奥平家、小田原大久保家といった譜代の者たち。そしてなんと実の息子の松平忠輝も含まれていると、阿茶の局は確信していた。
そのことに彼女はひどく胸を痛めていたのであった。
長い沈黙の後、家康が重い口を開く。
「阿茶よ…『情』は『利』を超える。
その『情』が秀頼殿に移ってしまえば、徳川にとってはもはや使いものにはならぬ。
それどころかその刃を徳川に向けてもおかしくはないであろう」
「であれば!殿が今一度、その『情』を取り戻されるように、努力すればよろしいではありませんか!
かつての殿がそうされたように!!」
どんな時も穏やかな彼女が激昂している。それほどまでに、彼女はこのことについては家康の事を諌めようと必死であった。
しかし家康の表情は変わらない。
そして…
言ったのだった…
「わしは『情』という点において、豊臣家…そして、豊臣秀頼には勝てぬ」
そうきっぱりと言い切った家康の顔を、阿茶の局は穴が空くほど見つめた。
彼女は徳川家康という人物の、誰にも負けぬ『慎重さ』と『判断力』の高さこそが、彼を天下人に導く大きな武器になったと思っている。
しかしそれでも、このように自分の弱さを素直に認め、それに代わる手立てを慎重に立てることが出来るとは想像だにしていなかった。
そしてそれこそが、徳川家康が他人には絶対に負けない『強さ』なのであろう…彼女はそう感じたのであった。
だが、そうだとしても、身内の者も含め、今まで徳川家に尽くしてきた者たちに、厳しく対処することは彼女の心の内で許されるものではなかった。
「勝てぬとしてもです。やって許されることと許されぬことがおありでしょう!」
「やって許されぬことか…いまさらわしにそれを問うか…
長男と妻を死に追いやり、伏見で多くの忠臣たちを見殺しにしたわしに…」
こうしみじみと言った家康の瞳に、悲哀の色が浮かぶ。
その通りだ…
徳川家康は、今になって非情な決断を下そうとしている訳ではない。
彼は今までもそうだったのだ。
自分の弱さは『情』にあると知り、だからこそ物事の順逆を重んじて、人としての倫理感を大切にしてきた。
だが皮肉な事に、その『物事の順逆』を自らの手で破らねばならぬ時は、刻一刻と近づいてきている。
この時こそ、彼から『情』が離れていく大いなる危機であることを、彼は冷静に知っていた。
だからこそ、その『情』の動きに敏感となり、その見極めをこの京で行っているのであった。
家康はゆっくりと続けた。
「だが安心せい…そうそう身内に対して厳しく罰することはせぬ。
その『情』がいかんともしがたいと判断したその時に、わしはこの手を汚さねばならぬと思っておるのだ」
「それほどまでに、豊臣秀頼という少年に恐れをなしておられるというのでしょうか」
「ああ…恐れておる」
「なぜ…でしょうか」
その問いかけに家康は目を伏せながら答えた。それは阿茶の局も、はっとさせられるような事なのであった。
「このわしも『情』にほどされそうになっておるのだからのう…」
阿茶の局は思わず口に手を当てた。
冷静沈着にして、常に正しい判断、それにまるで血の通っていないような非情な決断を下すこともある、稀代の英雄、徳川家康。
その英雄でさえも、惹きつけてしまう何かを豊臣秀頼という少年は持っている。
いや、それは秀頼本人だけの能力ではない。
その背後に死してなおその面影を見せる、太閤豊臣秀吉という英雄の類まれなる能力に、家康は今もなお怯えていることに、彼女は胸をぐさりと刺されるような痛みを感じたのであった。
そして、彼女は心に浮かんだことを、何も考えずに思わず口に出してしまったのである。
「移りましょう…ここ、京は危のうございます」
そんな風に珍しく顔を赤くして、進言する阿茶の局を、家康は穏やかな瞳で見つめた。
その瞳からは、自分の事を真剣に考えてくれている彼女に対する、深い感謝の念が込められていたことに、彼女は胸が疼いて思わず気恥ずかしくなってしまった。
「そうしようと、ちょうど思っていたところじゃ。準備は進めておる」
「まあ…驚きました…一体どこに移られるおつもりですか?」
驚く阿茶の局に家康は決意に満ちた表情で言ったのだった。
「駿府…」
その言葉は、単に場所を示したこと以上の重さがあった。
なぜなら…
徳川家康の伏見から駿府への引っ越しは、単にその住居が変わるという事以上に大きな意味を持っていたのである。
それは…
上方との決別。
もっと言えば、豊臣秀頼との決別…
つまり本格的な、豊臣家排除に向けた第一歩と言えるものであった。




