弟よ!幸あれ!⑥揺るがぬ忠義(3)
◇◇
慶長11年(1606年)5月1日ーー
この日、京の学府に一人の僧と大谷吉治が到着すると、彼らはその足で石田宗應の部屋を訪ねた。
「ようこそいらっしゃいました。田丸直昌殿」
宗應はいつもの柔らかな笑顔で、その僧…すなわち田丸直昌を出迎えた。一方の直昌の方は、きゅっと口を真一文字に結んで、頭を下げると、
「あの戦さ以来でございますな。石田殿」
と、まるで壁を作っているかのように、低くて太い声で言った。そんな警戒心を露わにしている直昌に対して、目を細めた宗應は、穏やかな口調で彼に意外な事を告げたのだった。
「田丸殿。お主が帰依している越後の名立寺のご本尊である聖観音を祀った鞍馬寺に、お主の部屋を設けてもらいました。
今後はそこで寝泊まりをし、修行に励まれるとよろしいでしょう。
生活の事などで困ったことがあれば、いつでも頼っていただいて構いませんゆえ、何なりとこの学府にいる者たちにお声かけくだされ」
なんと宗應から直昌に対してこれ以外の言葉がなかったのである。
話しを切り上げた宗應は、学府での職務に戻る為に早くも書類の山に目を移そうとしており、直昌を連れてきた大谷吉治もその場を直昌とともに後にしようとしている。
直昌としては、必ずや彼が見聞きした事への言及があるものと身構えていたのだが、それがなかったことに彼はいぶかしく思った。
それもそのはずである。
堀秀治から大坂へと上る事を指示されたものの、連れてこられたのが京の学府であり、彼を出迎えたのは、かつて豊臣家の政務を取り仕切っていた石田宗應であったのだから、確実に彼から問いただされると覚悟していたのだ。
もちろん直昌は先の堀秀治との約束を守り、何を聞かれても答えるつもりはなかった。
ところがそんな素振りをおくびにも出さない宗應に驚きを禁じえなかったのは、決して不自然ではないであろう。
それでも自分からその事を切り出す必要もない為、直昌は軽く頭を下げた後、彼の新たな住居に案内をしてくれることになっている大谷吉治の背中を追いかけて、宗應の前から立ち去ったのであった。
田丸直昌と大谷吉治の二人が部屋を去った直後のこと。
石田宗應の背後から音もなく影が伸びてきたかと思うと、一人の女性が姿を現した。
言わずもがな、宗應の間者である初芽だ。
彼女は相変わらずの温度のない口調で彼の背中に向かって問いかけた。
「よろしいのでしょうか。あのまま何も聞かずに行かせてしまって…」
一方の宗應は彼女の事を見ることもなく、さながら独り言のように小さな声でつぶやく。
その様子はまるで彼女がその場にさもいないように振舞っていたのであった。
「聞く必要がないゆえ、聞かぬのです。田丸殿はあくまで大久保長安を動かす為に呼び寄せただけですから」
「では何も聞かずとも、大久保長安は動く…と」
「ええ、あと三日もすれば彼の方から必ずや何か動きがあるはずですよ」
「田丸直昌は三日以内に大久保長安を動かせるほどに、大きな秘密を隠しているのでしょうか」
「さあ…そこにはあまり興味はありません」
「なぜでございましょう。今までの宗應様であれば、他人に怪しいところがあれば徹底的に追及されていたではありませんか」
「ふふふ、初芽よ。なかなか手厳しいことを言うではないか。
こたびの目的はあくまでも大久保長安を動かすこと。決して彼を貶めることではないのです。
それに秘密とは、それを知った者も背負わねばならぬことが出来るというものです。
それを今、豊臣秀頼様とそれがしが背負うのは、あまりに危ういとは思いませんか」
この答えを聞いた初芽は、明らかに彼女が出会った頃の石田宗應という男とは全く異なる人物であることに目を見張った。そして彼女は、戸惑い続けている胸を締め付けるような苦しみに襲われたのであった。
次にかける言葉を失っていた彼女に対して、宗應は優しく声をかけた。
「聞きたいことが終わったなら、ここから去りなさい」
その言葉に初芽は、もう一つの聞きたい事を口にすべきか躊躇する。
それは聞きたいようで、聞きたくはない事…その心の中の矛盾に彼女は、喉元まで出かかった問いが、口をついて出てこなかったのであった。
しかし…
そんな彼女の様子を、宗應は背中で感じたのであろうか…
なんと宗應の方から、その事を切り出したのであった。
「そう言えば…うたが生きていたようですね」
初芽は何も言えずに、しばしの沈黙が辺りを覆う。
宗應は静かに続けた。
「初芽よ…一つ頼まれて欲しいことがあります」
初芽の胸がざわめく。言い得ない不安が彼女の頭も心も彼女の全てを支配し、彼女は何も口に出す事が出来ないでいた。
そんな彼女の答えを待たずに、宗應は言ったのだった。
それは…
初芽の心に突き刺さるような衝撃的な言葉であった――
………
……
慶長11年(1606年)5月4日――
大坂城の城主の間へと続く廊下を、派手な足音を立てて駆け抜けていく老人の姿があった。
その顔は驚愕のあまりに青くなり、額に浮かんだ玉のような汗をぬぐうこともなく、歯を食いしばりながら目的の場所へとさながら突風のように駆けていく。
それは大坂城の評定衆の一人、織田老犬斎であった。
そして目的の部屋の前まで来ると、大きな声を中にいる人物めがけてかけたのであった。
「秀頼殿!!大変でございます!!」
あまりに鬼気迫るその声であったが、思いの外冷静にその部屋の襖は静かに開けられた。
するとその室内には、城主の豊臣秀頼の他に、いつも通りに真田幸村、さらには織田有楽斎の姿もあったのであった。
「なんじゃ!?兄上…騒々しいのう。もういい歳なゆえ、もう少し節度を持って…」
「ええい!黙れ!有楽!とくかく大変にございます!」
そう有楽斎の苦言を途中で遮ると、老犬斎は秀頼の前に一通の書状を差し出した。
その送り主は松平忠輝の附き家老、大久保長安からのものであった。
その書状を目にした瞬間、秀頼の顔に喜びに満ちた笑みがこぼれる。
「おお!ついに来たか!よいよい!老犬斎よ!それを声に出して読んでおくれ!」
その反応はさながら、その書状の中がなんであるかを知っているようで、老犬斎は思わず眉間にしわを寄せたのだが、言われた通りに書状を広げて中を読みあげたのであった。
その内容とは…
――以前からお誘いいただいている通り、松平忠輝様への饗応の件、謹んでお受けいたします
というものであったのだった。
「ははは!ようやくこちらの熱意が伝わったというものじゃ!老犬斎よ!これはお主の手柄であるぞ!ははは!」
そう上機嫌に大笑いしている秀頼であったが、当の老犬斎本人は自分の働きかけが功を奏したとは到底思えない。
しかし、大久保長安が意見を翻したというのは事実であり、なんとも複雑な思いであった。
「兄上…しかもそれだけではないのじゃ。なんと…その饗応について、徳川家康公のお目付けとして任命された本多正純殿がご辞退されるとのことにございます」
「なんと…!?それはまことにございますかぁ!?」
老犬斎は驚きのあまりに声を裏返して有楽斎に問いかけた。
そんな老犬斎に有楽斎は、白い目を向けながら答える。
「年がいもなく、驚きすぎじゃ。まったく…
まことなことじゃ。ここに徳川家康公からの書状がある。
なんでも目付けの役は、大久保長安殿が自ら饗応に参加して行うとのことで、本多殿にはご遠慮いただくことになったそうじゃ」
「大久保長安殿が…自ら大坂城に来られるというのか…」
「ああ、そうじゃ。これにはわしも驚いた。一体何があったのやら…」
いぶかしいものを浮かべる二人に対して、秀頼は満面の笑顔のまま次のことに向けて指示をしたのであった。
「はははっ!二人ともよいではないか!これで、心置きなく饗応の準備が進められるというものだ!
有楽斎に老犬斎!必ずや饗応を成功させるように、二人とも大野治長を援けて準備を進めるのじゃ!」
「はっ!かしこまりました!」
「うむ、分かり申した」
二人はそれぞれに返事をして、軽く頭を下げると部屋を退出していく。その表情は既に次のこと、すなわち饗応の準備に向いているようで、先ほどまでのいぶかしさを感じさせるものではなかった。
二人が去った後、部屋には真田幸村と豊臣秀頼の二人が残された。
するといつも通りの穏やかな微笑みを携えた幸村が、秀頼に話しかけた。
「ここまでは上手くいきましたね」
秀頼は大笑いしていた表情をあらためて、引き締まった顔つきになり、幸村に答えた。
「まだまだこれからだ。今ようやく始まったばかりであるからな」
「秀頼様は、松平忠輝殿と大久保長安殿がこのまま無事に大坂城に来られたら、いかがなされるおつもりでしょうか」
幸村の問いかけに、秀頼は少しだけ口角を上げると、きっぱりと答えたのであった。
「何もせん!俺はいつも通りに、出会った者に笑顔を見せ、互いに笑いあえるように努力をするだけだ!」
幸村の瞳に驚きの色が加わる。
「ほう…それでは単に友誼を深める為に呼びつけになられた…ということにございますか?」
「この大坂城においてそれ以外の目的で信州松平家当主とその附き家老を呼ぶと思うのか?」
その言葉に幸村は、はっとした表情を浮かべた。
「これは、したり!ははは!確かにおっしゃる通りにございます!」
そして…
秀頼は明らかに先ほど有楽斎らに見せた笑顔とは異なる質の笑顔をもって、幸村に言った。
「勝負どころは、大坂城での饗応ではない。
その翌日に彼らが滞在する予定の京…つまり、伏見の松平屋敷と京の学府…ここが勝負よ」
豊臣秀頼の生き残り…いや、豊臣家そのものの存亡をかけた、彼らの暗躍はいよいよ佳境を迎えようとしていたのであった。
◇◇
慶長11年(1606年)5月4日――
大坂城の豊臣秀頼に、松平忠輝が饗応に招かれる事を、彼の附き家老の大久保長安が了承した書状が届けられたその日。
その大久保長安は越後国の福嶋城を訪れていた。もちろんそれは彼が越後国福嶋藩の藩主、堀秀治に会いに行く為であった。
しかし…
「殿は今、重い病にかかり、とても人と会って話しが出来るような状態ではございませぬ。
ついてはいくら徳川将軍家の重臣である大久保長安殿であっても、殿との面会を許すわけには参りませぬ」
そう大久保長安の前で仁王立ちしていたのは、堀秀治の側近、堀直政と、その子である堀直清の二人であった。
ところがそんな事で足が止まるような大久保長安ではない。
彼はお供として連れてきた屈強な男たちを前に立たせて、彼の行く手を阻む者たちを押しのけるようにして前に進もうとしている。
そして大きな声で言ったのであった。
「ここに地元の僧侶と商人からの訴状がある!彼らはわざわざ隣国の藩主、忠輝様に対して駆けこんできた者たち。
いずれもお主らが平定した上杉遺民による一揆を鎮圧した時に出されたものだ。
この手の訴状の内容の真偽については、例え病床に伏せているとはいえ、藩主に直接話しを聞くのがならいとなっておる。
それとも何か?堀家には隠さねばならぬ事実があるゆえ、藩主に仮病を偽らせて逃げようとする魂胆なのであろうか?」
「無礼な!!いかに徳川将軍家の家老といえども、主君を侮辱するような言葉は断じて許さぬ!」
そう顔を赤くした直清が腰の刀に手をかけると、いよいよ大久保長安の口角は上がった。
「ほう…堀家の家老は、上様より北国の目付けを任されているそれがしに刃を向けるつもりであるか!?」
「な…なにを!?」
「ここに上様より直接賜った書状がある。何なら読みあげようか!?北国の件はそなたに任せると書かれたこの書状を!」
そう言って大久保長安は右手に一通の書状をもって、それを高々と掲げた。
こうなると彼に口出しなど出来たものではない。
堀直政と直清の親子は、唇を噛みながら、大久保長安にその道を譲ったのだった。
堀家の小姓を先頭に、ずんずんと進んでいく長安。そしてついに堀秀治が横になっている部屋の前まで来ると、再び太く大きな声を上げた。
「それがしは、松平忠輝様が附き家老、大久保長安!
こたびは民からの堀家への訴えにより、その真偽を確かめに参った!
堀秀治殿!ここを開けられよ!」
相手の病状などは鑑みない、一方的かつ傲慢なその態度に、彼の背中を追ってきた堀直清などは今にでも斬りかからんとしたが、隣の直政がなんとかそれを抑えることで事なきを得ている。
そしてその部屋の襖は、すっと静かな音を立てて開けられた。もちろんそれを開けたのは病床から動くことがかなわない、堀秀治本人ではない。それでも彼が長安を部屋に入れることを許し、襖を開けるように彼を看病している小姓の一人に指示をしたのであった。
「思ったより顔色が良さそうで何よりでございます。秀治殿」
そうにやけた顔で言った長安は、僧侶と商人の訴状を手にしながら、秀治の枕元に立ち、彼を見下ろしていた。
もうこの頃の秀治は、目を開くことすらままならぬほどに弱り切っており、そんな長安に対して苦言を漏らすことすら出来ない。
そして長安はそんな秀治を白い目で見つめながら言った。
「聞くぞ、秀治殿。お主はこの訴状にある通り、一揆鎮圧にあたり、罪もない僧侶たちや商人たちに狼藉を働かせたというのはまことであろうか?」
堀秀治はその事を聞くと、すぐには動かなかったが、ようやくその意味が分かったのか、しばらくしてゆっくりと首を横に振った。
その様子にニヤリと笑って再び大きな声で、
「そうか…では、この訴状は僧侶と商人の偽証ということだな。相分かった。ではこの者らを変わりに処分するとしよう」
そう言い放った長安は、その場でびりびりと訴状を破り捨てると、そのまま秀治に背を向けた。あまりにあっさりと部屋を出ていこうとする長安を見て、あっけにとられた直清は、とっさに動けずに長安の目の前に立ち尽くしている。
そんな彼に向けて、長安は睨みつけるようにして低い声を発した。
「邪魔だ…どけ」
そして、なおも動けないでいる直清を押しのけて襖の前まで来ると、長安は背を向けたまま、聞いた者が思わず震え上がってしまうような低い声で言ったのであった。
「…田丸直昌を大坂に送ったらしいな。
仮に田丸直昌が何か口にしても、豊臣家によるでっちあげとしてしまえば、その罪は豊臣家がかぶることになる。
そして、その事は堀家には一切関係なく、知らぬ存ぜぬを通すか…
太閤が寵愛した堀家の当主としては、随分と浅はかで、恩知らずな事よ。
しかし俺にしてみれば、隣国のよしみもあり、奴の見聞きした事を今まで隠し通してくれた恩もある。
秀治殿の息が続くうちは、この越後国を安堵してくれようではないか。
しかし…その息の根が止まったその後は…」
その言葉に堀秀治は、かっと目を見開いて長安の背中を睨みつけた。
もちろん彼にもその視線が背に突き刺さっていることなど承知していることであろう。それでも彼は、振り返ることなく告げたのであった。
「この越後国はそれがしが貰い受けよう。
かような薄情なお家に大事な越後国を任せてなどおけん」
「があぁぁ!!!」
――ゴロンッ!!
堀秀治が渾身の力を込めて立ちあがろうとその身をよじったが、それでも彼は布団から転げ出るのが精いっぱいであった。
痩せこけたその顔は目玉だけが飛び出るようにして、その表情により凄味を与えている。
しかし背中がどんなに騒がしくなろうとも、大久保長安は振り返ることなく、
「それまではせいぜい長生きするのだな」
と、冷たく言い放つとその場を大股で後にしたのだった。
これよりわずか七日の後の事である。
堀秀治は、無念のうちにこの世を去った…
そして…
そのわずか二年後――
史実の通りに、堀家は改易となる…
その理由は『とある僧侶を堀家家老、堀直清が斬り殺したこと』という、不可解極まりないことであったのも、史実の通りだ。
その後、越後国は新たな藩主を迎えることになるのだが…
それは、松平忠輝…
そしてその執政には、幕府の老中までのぼりつめた大久保長安が君臨していたのであった。
さらに…
豊臣秀頼は、堀家が改易となってからも、青芋を越後国から買い付け続ける。
そのことが示す意味…
そう…未来を知る豊臣秀頼は最初からこうなると知っていたのだ。
それでもそれを見越して、越後国を支援することを決めた理由は、ただ一つ。
ーー大久保長安との関係を築く
それこそが、豊臣秀頼が松平忠輝への饗応を催す最大の目的なのであった。




