弟よ!幸あれ!⑤揺るがぬ忠義(2)
◇◇
慶長11年(1606年)4月8日ーー
豊臣秀頼が大坂城に戻る前日であり大谷吉治が越後国に到着したその頃、京の学府では石田宗應が自室にて、いつも通り静かに職務をこなしていた。
そんな中、その部屋に音もなく一人の若い女性が彼の目の前にやってきた。
きりっと引き締まった美形の顔立ちではあるが、どこにでもいそうな町の娘といったあまり目立たぬ服装。それでも彼女の細身の体つきは他の娘たちとは、どこか異なる雰囲気を醸し出している。それは…掴めそうで掴めない、さながら朧月のようであった。
「初芽か…」
宗應は顔も上げずにぼそりとつぶやく。
すると初芽と呼ばれた女性は、頭を下げた。
この初芽という女性は、宗應の間者。もとは徳川家康の間者として宗應の事を探っていたが、宗應の豊臣家への揺るがぬ忠義に胸をうたれて、今は逆に宗應の間者として、世に出ることが出来ぬ彼の目となり耳となっていたのであった。
「何か報告があるなら言いなさい」
宗應は相変わらず書類に目を通しながら、そう言う。しかし、その言葉こそ冷たいものであるが、口調は穏やかで、それは初芽への感情が表れているようであった。
「豊臣秀頼様が間も無く大坂城に戻られます」
初芽の方も余計な飾りなどなく、用件のみを報告する。ただし彼女の口調の方は、ぶっきらぼうそのもので、彼女の宗應への感情を示しているのだろうか。それとも特別な感情を抑える為に、あえてそれとは裏腹な口調にしているのだろうか…
「そうであるか。特に変わりはなさそうか?」
「はい、お変わりなくお元気なご様子です」
「そうか…それは良かった」
そう言った宗應はようやく頭を上げると、その顔には安堵の表情を浮かべた。彼は彼なりに幼い秀頼が江戸に向かったことが心配でならなかったのだろう。
なぜならそれは…
彼にとっては、徳川将軍家は未だに天下の理りを冒す反逆者であり、豊臣家にとっては仇敵と信じ込んでいるからであった。
「大谷吉治殿は間も無く福嶋城に入られます」
「吉治殿には、ここで頑張ってもらわねばならぬ。
松平忠輝を動かす為にも…」
「忠輝殿を動かす為だけでございますか…?」
初芽は淡々とした口調のまま、宗應に質した。宗應の顔もまた変わらない。穏やかな微笑を携えたままだ。
「その問いがどういう意味かは、あえて聞かぬ。
ただ一つ言えることは、人は死して何を残したのかでその人生の価値が定まるものだとするならば、堀秀治には、最後くらいは豊臣家の為に何かを残していただいても、良いのではないのかということです。
それが亡き太閤殿下から堀家が受けた大恩に報いることであり、彼の人生の価値を高めるというものです。
このまま死んでは彼の人生は、かつての大恩を忘れ、ただただ徳川に対して媚びへつらっただけの、薄っぺらいものとしか残らないでしょうから」
「つまり堀秀治に情けをかけておられると…」
「情けなどかけてはおりません。むしろ容赦なく彼に突きつけているといってよいでしょう」
「どういうことでしょうか」
初芽の問いに、宗應の目が細くなる。しかしその表情はまるで春の海のように穏やかそのものだ。
そして彼はその表情をそのまま映したような優しい口調で答えたのであった。
「堀秀治に、自身の正義を示す時を与えているのですよ」
初芽は未だに宗應の言っている意味がよく分からなかったが、それでも彼が以前の彼のように、他人を情け容赦なく傷つけるような危うさがないことに、安心し、そして胸の奥に熱く疼くものを感じた。
そして…
最後まで一つのことは報告出来なかったのである。
それは…
石田宗應の妻、うたが生きているということ…
なぜ言えなかったのかは、初芽自身にもよく分からなかった。いずれにせよ、秀頼たち一行が大坂城に戻れば、たちまち露見されるであろう事だ。ただそれでも、その事を口にしてしまっては、宗應の心がどこかに行ってしまうのではないかと、ひどく恐れている自分がいるのだ。その事に彼女は大いに戸惑っていたのだった。
◇◇
初芽が宗應に報告を終えた数日の後のことだ。
その日は、死の間際に立たされていた堀秀治にとって、人生で最大と言っても過言ではない程の選択を迫られていた。
ーーこのまま田丸直昌と豊臣秀頼の使者を同じ寺に居させてよいものか…
この身はもってあと一ヶ月といったところであろうことは、自分が一番よく分かっている。
仮に自分が存命のうちは、田丸直昌が大久保長安について何も話さなくとも、秀治の死後ともなると話しは別だ。なぜなら田丸直昌は全く空気の読めない人…いや、自分の信じる正義に真っ直ぐな人なのだ。
彼が「亡き堀秀治が果たせなかった正義の為にも」と考えて、その事を豊臣家に託す可能性は大いにありえる。
そうなると、その事をひた隠しにしていた堀家の立場は完全に危うくなるであろう。
ーーここは腹を決めねばならぬ…
大谷吉治が退出した後、床に横になっていた彼は、悲壮とも言える覚悟を決めようとしていた。
とは言え、彼自身未だに自分がどうするべきかを決めかねている。
ーー田丸直昌に自分の死後も他言無用と念を押すか
それとも…
ーーいっそのこと自分から豊臣秀頼の使者に話してしまうか
その一方で…
ーー田丸直昌と豊臣秀頼の使者を共に亡き者にしてしまうか…
と良からぬ方へ考えが巡ってしまうのは、彼が心身ともに衰弱の一途をたどっているからだ。
それでもぎりぎりの所で自制を保てているのは、彼のもって生まれた武士としての資質に優れているからと言えよう。
あれこれと悩んでいるうちに、いつの間にか外は暗闇に覆われている。
もう彼に迷っている時間など残されていない。
そんな事はこの年の始まりに気付いていたことだ。それでも彼は決断出来ないでいたのだ。それは彼に決定的な何かが欠けていたからであった。
それは…
彼の揺るがぬ忠義――
その忠義を向けるべき相手が、彼自身分からなかったのである。
案外春の夜は昼間と比べると冷える。そのわずかな気温の差が、病床に伏せる彼の体にはひどく堪えたようだ。彼は考えることにも疲れ、ついにその目を静かに閉じて、身も心も闇の中に委ねることにした。
その時であった――
――おおぉ!久太郎に監物かぁ!よう来た!よう来た!ささっ!もっとこっちへ来い!
そう甲高い声が頭の中に響いてくる。
久太郎とは、堀秀治その人のことであり、監物とは彼の親戚であり、もっとも信頼する彼の側近であった堀直政のことだ。
堀秀治は夢の中で、堀直政とともに伏見城に呼ばれた時の事を思い起こしていたのであった。
もちろん彼らを城に呼びよせ、屈託のない笑顔を向けて親しみをもって声をかけた人物は…
時の太閤、豊臣秀吉であった。
――うんうん!久太郎もちと見ないうちに、立派な大名の顔をしとるのう!よいよい!
恐縮して頭を下げっ放しの堀秀治に対して、秀吉は彼の肩をぽんぽんと叩きながら、大笑いしている。
――カカカ!そこの監物がわしに向かって怒ったのだぞ!『秀治殿から北ノ庄を取り上げたら、それがしが許しませぬ!』と!カカカ!その意味が今、ようやく分かったわい!
――殿下…その儀は、出過ぎた真似をいたしまして…
――監物!よいのじゃ!よいのじゃ!久太郎が父秀政殿に負けぬほどに、かようにたくましい男になったのじゃ!これも監物がわしを諌めてくれたおかげというものじゃ!役は人を育てるとはよく言ったものじゃのう!
目の前の豊臣秀吉という男は、秀治の成長をまるで我が子の成長のことのように喜んでくれている…
この時の秀治は、それはもう天まで昇るような夢心地であったことを、今思い出した。
自分の父以外の誰かに奉公することを知らない彼にとって、忠義とは何ぞやという事は今でも分からない。
それでもこの時の自分は感じたのだ。
――俺はこの人の為なら、死ねるような気がする…
と。
彼自身その理由が明確には分からない。
それでもこんなに自分の事を認めてくれる人は、父も含めて周囲にいたであろうか。
こんなにも純粋な笑顔を自分に向けてくれる人は、彼の頼みとする家臣たちも含めて周囲にいたであろうか。
そして、彼をここまで興奮の中へといざなってくれる人は、この世にいただろうか…
――久太郎よ!お主にはそのうち、もっともっと大きな仕事を任せようじゃないか!それまでは監物の言う事を聞いて、誰に恥じることもない立派な大名になるよう、これからも精進するのじゃぞ!
こう彼に輝く目を向けて手を取った豊臣秀吉。その顔を堀秀治は今でも忘れない。
そして必ずや、彼の期待に応えるような立派な大名になろうと、心に誓った事は今でも変わらないのだ。
そんな彼に豊臣秀吉はその約束を実現させた。
すなわち越前国北ノ庄十八万石から、越後国春日山三十万石への加増での移封であった。
そしてその太閤秀吉から言いつけられた、『大きな仕事』とは…
徳川内府(徳川家康のこと)の目付け…
すなわち徳川家康に天下泰平を脅かす動きがあれば、それを糺す役目という大任を堀秀治に言いつけたのであった。
しかし、その年のことだ。
その太閤秀吉が、この世を去った。
そして堀秀治は、その秀吉からの大任を忘れたかのように、徳川家康に媚びを売り出したのだった。
走馬灯のようにこの時までの自分の半生が思い出される中にあって、彼は夢の中で痛烈な後悔に襲われていた。
その後悔する心のゆえんは、何であったか。
それは言うまでもなく、『太閤秀吉が命じた大任』を反故にしたことであったのだ。
彼の弱りきった心は、頭で考える事を拒絶し始め、心で感じる事を良しとしていった。
そして心で感じるものと言えば、ただ一つなのだ。
それは彼が死の間際になって向けるべき忠義の心の先のこと…
この時彼は一つの事を夢の中にあって決めた。
それは彼が「誰に恥じることもない立派な大名」と、彼自身が胸を張る為にすべき事を選択した結果であったのだった。
………
……
大谷吉治が福嶋城にて堀秀治と面会したその翌日――
田丸直昌は、久しぶりに福嶋城の中へとその身を置いていた。無論それは彼自らの意思によって成されたことではない。彼は、堀秀治に呼ばれてやってきたのであった。
秀治の部屋に通されると、目の前に横になっている秀治の姿がある。昨日からあまり寝付けなかった彼に、体を起こすだけの気力も体力も残されていなかった。
しかし、その顔だけは部屋に入ってきた田丸直昌に向けられると、布団の横から震える手を出して、彼を近くに来るように手招きした。
それに応じて直昌は素早く秀治の側に寄る。すると、秀治は何かを言おうとして、口を懸命に動かしていた。
「耳を…耳を貸してくれ…」
かすれた声で秀治は必死に声を振り絞る。何かを覚悟したその瞳は血走り、体全体から熱い何かが沸き上がっているのが分かる。
直昌はゴクリと唾を飲み込むと、秀治の口元にその耳を寄せた。
そして…
秀治は言ったのであった…
「大坂へ行ってくれ…」
田丸直昌は、とっさにその真意を図りかねた。そして秀治から顔を離して、その瞳を見つめる。
「大坂に…?どういうことでございましょう」
しかし秀治はその疑問には答えずに続けた。
「そして…それがしとの…約束を…『例の件は他言無用』というあの約束を…これからも守り続けてはくれまいか…」
秀治の瞳から大粒の涙があふれ出す。
これこそ彼が導いた最後の決断であった。
ところが田丸直昌という人は、他人の気持ちを推し量り、その真意を探るのがどうにも苦手な人物なのだ。秀治の命を懸けた懇願にも、その意図をくむ事は出来なかった。
それでも、直昌は自分が大坂に移るという事と、大久保長安の所得隠しの件は他言無用である事の二つをお願いされているという事だけは、頭で理解出来たのであった。
「正直申し上げて、秀治殿がどうしてそのように頼まれるのか、さっぱり分かりませぬ。
しかし、今わの際になって頼まれた事を、武士であったそれがしがどうして邪険に出来ましょうか。
ご安心されよ。必ずや秀治殿のお頼み事、この田丸直昌がお引き受けいたしましょう」
そう力強い言葉とともに、秀治の手を握り締めた直昌の瞳には、嘘偽りは一切感じられなかった。
それを見た秀治は、どこか憑き物が取れたかのように、晴れやかな笑顔に変わる。
そして、ようやくこの時彼は『夢』の中へと、柔らかな寝息とともにいざなわれていったのであった。




