弟よ!幸あれ!④揺るがぬ忠義(1)
◇◇
越後福嶋城のほとり、太岩寺なる小さな寺にその男は静かに余生を過ごしていた。
その男の名は、田丸直昌。
彼は関ヶ原の戦いの後、ここ越後国の藩主、堀秀治に預けられていたのだが、とあるきっかけで城から出ていかざるを得なくなってしまったのである。
堀秀治としては、田丸直昌に対して、関ヶ原の戦い以降は波風を立てることもなく、大人しく過ごして欲しいと願っていたのだが、当の本人はそんな堀秀治の顔色など読む事もなく、明らかに大きな火種となりそうな事を堀秀治に話したのであった。
それは彼が川中島のさびれた寺の中で見た光景にゆえん…すなわち、彼が見た事と聞いた事の全てを堀秀治に打ち明けたのだ。
それは…
その寺の隠された小部屋の中に、大量の金塊が隠されていたこと…
そしてその隠ぺいの首謀者が、徳川将軍家の勘定奉行であり、江戸幕府の財布をその手に握っていると言っても過言ではない、大久保長安であるということであった。
この事を聞かされた堀秀治は、正直言って面白くはなかった。
いかんせん堀家は、史実の上では初めて羽柴姓を羽柴秀吉から与えられ、その後には豊臣姓をも許されたという、太閤秀吉にとっては最も信頼の置くお家の一つであった。
ところが、今の堀秀治が当主となってからは、落ち目となった豊臣家をいち早く見限った。
そして、徳川家康に人質を送るなどして徳川将軍家になんとか取り入ったことが功を奏して、越後国の三十万石を安堵してもらったという経緯がある。
まだまだお家の行く先が不安定な中にあって、徳川家内を大いに揺るがしかねない「火種」を抱えることは、まったくもって危うかったのである。
しかも、当の大久保長安は、隣国の信濃国川中島の当主である松平忠輝の附き家老でありながら、越後国の佐渡金山も管轄している。
つまりこの越後国とは非常に近い人物なのだ。
もし仮にわずかな弱みを握られでもすれば、たちまち堀家は潰されてしまうだろうことは、火を見るより明らかだったのである。
知らぬが仏、とはまさにこのことであり、田丸直昌から告げられた内容は、堀秀治が預かり、それを他言無用とした。
幸い田丸直昌は口の固い男である為、秀治が「話すな」と言えば、誰に話すこともないだろう。
――天下泰平がなされぬ中にあって、私腹を肥やす悪逆など、断じて許せませぬ!どうかご英断を下していただくよう、将軍殿には言伝いただきたい!
そう直昌は相変わらず空気を読まずに義憤にかられるがままに付け加えたのだが、それを形の上では了承した秀治だった。
しかし…
その時はそれでやり過ごすことが出来た。
だが今、秀治にとって最悪とも言える事態に陥ってしまった。
それは、彼自身の病気の事であった。
慶長11年(1606年)に入った頃から、彼は体調が優れなかったのだが、それでもまだ三十一歳と働き盛りの年齢である。
特に医者にかかることもなく、「そのうちに良くなるだろう」と放っておいた。
しかし、どうやらこれが裏目に出たらしく、花の季節となる頃には、彼は一人で立つこともかなわないくらいに、弱ってしまい、病床に伏せてしまったのだった。
このまま自分の身に何か起れば、田丸直昌はまた別の者に彼が見聞きした事を託すに違いない。
そうしてもしその事が明るみに出れば、「なぜ堀家はこの事実を隠していたのか」という逆風になりかねないと思われる。
どうにか穏便に事が運ばないだろか…
彼は自分の病状の事よりも、むしろお家を破滅に追いやりかねない「火種」の処理の方に頭を悩ませていたのだった。
しかし…不運とは重なるものである。
そんな中にあって、さらに彼の頭を悩ませる事態が起った。
「殿!一大事にございます!」
そう部屋の外から重臣のうちの一人である、堀直清が大きな声をかけてきた。
その声が頭にキンキンと痛みとなって響いてくると、堀秀治はしかめ面で答えた。
「なんだ…?騒々しい…申してみよ」
直清には秀治の表情は見る事はかなわなかったが、明らかに不機嫌そうなその声の調子に、彼もまた声を低くして続けた。
「はっ!今しがた豊臣秀頼殿よりご使者がお越しになりました!」
「なにっ!?豊臣秀頼殿の使者だと!?」
病状が悪化し弱りきっていた秀治であったが、その報せに思わず飛び起きた。
今や徳川将軍家を除けば、百万石の加賀前田家、仙台伊達家など石高の上では豊臣家を上回っている大名もある。しかしそれでも「豊臣」という家は別格であった。
彼にしてみれば、徳川将軍家からの使者と同じくらいに、重きを置くべき相手であるのだ。それと同時に、見限った相手としての後ろめたさもあったのであった。
しかしあまりに突然過ぎる来訪で、迎え入れる準備など皆無。当の彼すら寝巻のまま病床に横たわっていたのだ。
どうしたものかと瞬時に頭を悩ませているうちに、直清が相変わらず部屋の外から声をかけてきた。
「なんでも病気療養中の殿をお見舞いであり、形式的な迎え入れはご遠慮したいとのことにございます」
「しかし…いくらなんでもそれがしが顔を出さぬ訳にはいかぬであろう」
「いえ、その件も特に必要ないとのこと。ただ殿に直接秀頼殿のお言葉をお伝えしたいとのことで、こちらの部屋にて殿と目通り願いたいとおっしゃっておられます」
「むむむ…さようか…では、お言葉に甘えるといたそう。こちらに通されよ」
「はっ!かしこまりました!」
威勢良く返事をした直清は足早にその場を去っていく。
「出迎え無用」と言われたものの、秀治はその髪を整えるなどの最低限の身だしなみを小姓に整えさせて、豊臣秀頼からの使者を待っていたのであった。
………
……
「豊臣右大臣秀頼殿のご使者、大谷大学助吉治殿がお見えになりました!」
堀直清が使者を呼びに行ってからほどなくして、再び部屋の外から彼の大きな声が響いてきた。
少し緊張していたからであろうか、先ほどはいやに頭に響いてきたその声も、今回は秀治の気合いが入る心地よいものであったから不思議だ。
「うむ!お通ししろ!」
と、彼は小姓たちにその体を支えられなが、それでも直清の声に負けないくらいの張りのある声で命じた。
その瞬間にスッと襖が開くと、一人の青年が姿を現した。
青年といっても年齢は秀治と同じくらいであろう。それでも病床にいることが長い為に青白い肌の秀治とは正反対とも言える、若さと気力に満ちて良く日に焼けた吉治のその肌を、秀治は正直にうらやましく思った。
「お初にお目にかかります!堀侍従秀治殿!お身体が悪い中、お目通りいただきまして誠にありがとうございます!どうか楽な姿勢になってくだされ!」
天上人と言ってもよい豊臣家の使者でありながらも、丁寧な言葉遣いに相手を気遣う内容。これで好感を持たない者がいれば、よほどのひねくれ者であろう。
いわゆる普通の感覚の持ち主である堀秀治は、機嫌を良くしながら声をかけた。
「いえ、折角の豊臣秀頼殿からのご使者というのに、かような姿で申し訳ない。
ささ、どうぞこちらに寄って、秀頼殿からのお言葉をお聞かせいただけないでしょうか」
「はっ!かしこまりました!」
そう気持ちの良い返事をして秀治の近くまで寄ってきた吉治は、懐から書状を取りだすと早速それを読み始めた。
その内容は、秀治の体調を気遣う優しい内容であり、近頃体とともに心も弱ってきた秀治は、思わずその内容に涙してしまった。
そして吉治は書状から目を離して秀治の方を見ると、引き続き優しい口調で問いかけたのであった。
「最後に秀頼様より、伝言がございます。『なんでも困っている事があるなら遠慮なく相談して欲しい』とのことでございます。
いかがでしょう、堀殿。何かお困りのことはございませんか?」
その問いかけに、ぱっと浮かんだのは…
田丸直昌の証言…
喉までその事が出かかったものの、それを口にしてしまえば、この先何が起るか知れたものではない。
彼は開きかけた口をきゅっと結んで、首を横に振った。
「暖かいお言葉だけでそれがしは十分に果報者にございます。どうかご心配にはおよびませぬよう…」
そう恐縮した堀秀治に対して、大谷吉治はニコリと笑って言った。
「ははは!やはり宗應殿のおっしゃる通りだ!堀殿は謙虚なお人であるのう!」
秀治は「宗應」という聞いた事がない名を耳にして、目を丸くした。
そんな秀治の様子を見て、吉治は緩んだ表情を今一度引き締めた。
「申し訳ございませぬ。思わず想定通りのお答えに乱れてしまいました。
宗應殿…石田冶部少殿と申し上げた方が分かりやすいでしょうか。
そのお方が、きっと堀殿はご遠慮されるに違いないと、おっしゃっていたのですよ」
「石田冶部殿…まことか…」
かつて太閤秀吉が存命中は、父である堀秀政とともに伏見にて働いていた為、時勢のことやら中央の事を良く知っていた秀治であったが、ここ数年は越後国にあってまるで時勢にうとかった。
石田三成が豊臣秀頼の尽力もあって助命されたとの事は聞いていたが、どこで何をしているのか、そしてその名すら知らなかったのである。
その三成が今、この大谷吉治という気持ちの良い使者に裏で関わっている…
かつては太閤殿下のいつも隣に控える石田三成の事を眩しく思っていたものだが、今となっては天下の徳川将軍家に弓を引いた反逆者だ。
それでも秀治の胸に何やら言い得ぬ高鳴りが感じられたのは、彼が石田三成という男の英明さを良く知っているからであった。
ところが複雑な彼の感情はもう一つの曇りがあった。
それは…罪悪感。
憧れであった石田三成から、太閤秀吉の死後すぐに離反したことによるその感情は、いかんともしがたいものであった。
「宗應殿いわく、堀殿は長年にわたり年貢のことでお困りではないかとのことにございましたが、いかがでしょうか」
この指摘に秀治の心に鋭い痛みが走った。
実はこの頃、堀家は深刻な財政難を抱えていたからである。いや、むしろそれは今に始まったことではない。かつて父の堀秀政がここ越後国に移封になった時からそれは始まっていた。
その起因となったのがまさに「移封」であった。実はその移封の際に、元の領主の上杉景勝の側近である直江兼続の主導のもと、上杉家は越後にてその年の年貢を取り立てた後に移っていってしまったからである。
すでに十年以上も前の事ではあるが、ただでさえ見入りの少ない越後国において、わずか一年と言えども年貢米なく多くの家臣や兵たちを養うことは厳しかった。
その為、堀家は翌年からの年貢に大きな税を課したのである。それがきっかけとなり、堀家と越後国の民たちの間は、完全に冷え切ってしまった。
こうなると農作物の生産力はがたりと落ちる。そして落ちた分は、さらなる重税でまかなうしかない。
そう言った負の連鎖が、堀家と農民たちの双方を苦しめ続けていたのであった。
その事を大谷吉治は的確に指摘してきたのだ。もちろんその裏には石田宗應がいる。
…ところが、堀秀治もいっぱしの武士である。
他人の困り事には手を差し伸べるが、自分の困り事には、あくまで強情を貫くその姿勢は、彼も同じなのであった。
「ご心配には及びませぬ。ははは」
そう乾いた笑いとともに言い放った秀治であったが、吉治のにこやかな表情は一切変わらなかった。
そして秀治の反応など意に介することもなくひと際響く声で伝えたのであった。
「大坂城の豊臣秀頼公は、学府にて学ぶ者たちの着物に、越後上布のご採用を決められました。
つきましては、今後はここ越後国で栽培された青苧を、京の学府が直接買い付けることといたします」
「な…なんと…」
その提案は堀家にとってはまさに救いの手であったことは言うまでもない。
なぜならこの青苧の取引が、水害が多く稲作がままならない越後国にあって非常に重要な収入源であったからだ。しかし、その青苧の栽培とそこから織物を作る技術も、直江兼続によって米沢にその職人ごと移されてしまった。
これにより米沢や会津で栽培された青苧との競争に負けてしまい、越後国の青苧作りが停滞してしまっていたのだった。
しかし豊臣秀頼はその越後の青苧を直接買い付けると言う。
それはすなわち、越後国の安定的な収入源の確保を意味し、ついては農民たちへの年貢の取り立ての緩和につながるものであった。
もちろん吉治が提示してきた買い付け価格は、市場に出回っているものと比較するとかなり高額なもので、越後国の収入に一役買うには十分であったのだ。
この申し出だけを取ってしまえば、願ってもない話しだ。
しかしそれでも秀治には一つの懸念があった。
それは…
「しかし…他国の大名同士が直接商売をしていることが将軍様に知れたら、御咎めを受けるのではございませぬか…」
というものであった。しかも徳川将軍家にとって、未だに豊臣家は油断の許さぬ相手。その豊臣家が直接援助するような形で、堀家の経済を援助するとなると、目をつけられてしまうのではないかと思ったのである。
しかし、吉治はその懸念にも余裕の笑みを変えずに答えたのであった。
「ははは!ご心配にはおよびませぬ!この事は既に秀頼様が、江戸の将軍殿を通じて許しを得ております!」
「な…なんと…将軍様のお許しを得ていると…」
実は豊臣秀頼は江戸訪問にあたり、学府での着物に利用する織物について、青芋を利用したいという旨を徳川秀忠に直接話しをしていたのである。そして、その買い付けにあたっては、青芋の生産地であるこの越後国、そして米沢国と会津国からも仕入れる事の了承を得ていたのだ。
特定の国からのみ仕入れるとなると角が立つとの宗應の懸念により、三国からの買い付けとしたが、その配分は明らかに越後国からの仕入れに偏っていた。
無論その偏りの事まで徳川秀忠の知るところではなかったのだが、それでも買い付けを行うことは徳川将軍家も了承しており、何ら後ろめたいところはなかったのである。
もちろんこの事は、豊臣秀頼自身が今後の大坂と越後の関係を強める為の施策であったのは言うまでもない。
だが秀頼は知っての通り、未来を知る人である。
この青芋を越後国から大量に買い付けることは、決して豊臣家と堀家の結びつきを強めるためではない。それは、「堀家の後の越後国の領主」との結びつきを強める事を考慮に入れてのことだったのだが、堀秀治がそのような事を想像するわけもない。
驚く堀秀治に対して、大谷吉治はもう一通の書状を懐から取り出すと、今度はそれを広げずに差しだしたのであった。
恭しく受け取った秀治はその書状をその場で広げる。
そしてその中身を見た瞬間にさらに目を見開いたのであった…
その内容とは…
「こんなに多くの量を買い付けていただけると…」
そう、毎年豊臣家が越後国より買い付ける青芋の量が書かれていたのだった。
「ありがたき幸せにございます…これで民の生活も楽になることでしょう…このご恩は堀家代々忘れさせませぬ!」
深々と頭を下げる堀秀治。彼は、感動のあまりに肩が震え、しばらく頭を上げることがかなわなかった。
だが…
話しはここで終わるはずもなかった…
いや、むしろ本題はこれからであったのだ。
大谷吉治の表情がにわかに変わったことに、有頂天の秀治が気付くはずもない。
そして吉治は笑顔のままに言ったのであった。
その本題を…
「ところで堀殿に一つご相談したい儀がございます」
「はて、何でございましょう。それがしが出来ることであれば何でもいたしましょう」
「ありがたきお言葉に存じます。では遠慮なく申し上げさせていただきます」
一呼吸おいた吉治。そして彼が告げたその内容に、天まで昇るほどに高揚していた秀治の心に、冷水がかけられることになった。
「この秋、秀頼様におかれましては、信濃国の松平忠輝殿を招いて饗応をいたしたいと願っております。
つきましては、忠輝殿の附き家老でございます大久保長安殿の賛同を取り付けたいのですが、堀殿に何か知恵はございませんでしょうか?」
誰が見ても明らかにその表情が変わる秀治。もうこの時の彼は自分の表情を抑えつけられるだけの、身と心の強さはなかったのだ。
そんな彼を、じっと大谷吉治は見つめていた。
「…も、申し訳ございませぬ!大久保殿の事はあまり良く存じ上げておらぬゆえ、お力になることは出来ませぬ」
動揺しながらも何とかそう言いきった堀秀治に、大谷吉治は眉をしかめて残念そうに言った。
「さようでございますか…では、何か良い事を思いつかれましたら、お教えくだされ。
この辺りでその糸口になりそうな事を探らせていただきますゆえ、しばらくは付近に滞在いたしております」
「ご…ご滞在されるのですか…この付近に…」
しかし…
その問いに対する大谷吉治の答えは、堀秀治の弱った心を打ち砕くことになった。
それは…
「ええ、太岩寺なる寺にて滞在することにしておるのです。宗應殿のすすめで…」
というものだった。
そう…
石田宗應は既に疑っていたのだ…
田丸直昌という男が、大久保長安に関して何かを握っているのではないかという事を…
そして…
いち早く豊臣家を見限り、徳川家に尻尾を振って本領安堵を得た堀秀治。
そんな彼を、石田宗應の豊臣家に対する揺るがぬ忠義心は、このまま許すはずもなかったのであった。
地元の方には釈迦に説法かと思いますが、今でこそ日本有数の米どころである越後(新潟県)ではございますが、第二次世界大戦後までは決して豊かに米が収穫できような地域ではなかったようです。
特に沼田での田植えは、腰まで泥に浸かりながら苗を植えねばならず、物凄い重労働であったそうです。
そのおかげで上杉謙信率いる越後兵は、戦国の中にあって、最強の軍団の一つであったとのことです。
では、次回は田丸直昌の握っている真実の行方のお話しになります。




