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弟よ!幸あれ!②母と子と(2)

◇◇

 慶長11年(1606年)4月9日 夕刻――

 

 この日の夕げも、いつも通りに俺、豊臣秀頼と千姫、それに淀殿の三人、家族水入らずで始まった。

 淡々といつも通りに時間が過ぎていく。

 何も知らない人がその様子を見れば、何ら違和感など感じないであろう。

 

 

 しかし…

 

 

「あら?秀頼ちゃん、どうしたの?わらわの顔を覗き込んでしまって。頬に何か付いておりますか?」


「い、いえ!別に何でもありません!

ああ!このごぼう美味しゅうございます!なあ!お千!」



 急に話しを振られた千姫が、思わず目を丸くしている。その様子に淀殿は、いつも通りの微笑みを浮かべた。

 


「ふふふ、変な秀頼ちゃん」



 その様子を知っている人が見れば、明らかに俺の態度は不自然であった。それもそのはずだ。これより少し前に、真田幸村から衝撃的な事を耳にしていたのだから…

 

 

――淀殿は既に気付かれております。秀頼様の中身が、あの日から入れ替わっておられることを…



 こんな事を聞かされてもなお自然に振舞えるほどに、俺は肝のすわった人間ではない。

 この部屋に入った直後から俺の心臓ははちきれんばかりに高鳴り、あとからやって来た淀殿の姿が目に入った瞬間に、汗が全身から溢れだしたのは言うまでもないだろう。

 

 すっかり慣れ親しんだこの夕げの時間が、さながらこちらの時代にやって来てきたその日のように緊張に変わっている。

 

 

「秀頼さま?どうされたのですか?いつもはべらべらとおしゃべりされるのに…」


 

 千姫が不思議そうな顔で俺に問いかけると、俺はびくりと肩を震わせた。

 

 

「そ…そうか!?い、いつも通りであるぞ!」



 明らかに「いつも通り」とは程遠い上ずった声で俺は答える。

 するとますます不可解なものを顔に浮かべた千姫。

 

 だが…

 

 彼女は何かに気付いたようだ…その表情を一変させた。

 

――しまった!!まさか、お千に勘付かれたのか!

 

 そんな風に内心で舌うちをする俺を尻目に、千姫はみるみるうちに顔を青くすると、恐る恐るたずねてきたのであった。

 

 

「ま…まさか…秀頼さま…見えてらっしゃるというのですか…?」


「な…なにがじゃ?」


――まさか、『未来』が見えているとか言い出すんじゃないだろうな…!


「あれ…にございます…」


「あれ…とは何じゃ…?」



 ごくりと唾を飲み込む俺。

 同じようにごくりと喉を鳴らした千姫は…

 


「幽霊にございます!!」



 と、叫んだのだった――

 

 

 

「は???」




 きょとんとする俺。淀殿はその言葉を聞いても全く変わらない微笑みを携えたまま、千姫を見つめている。

 

 そして千姫はまくし立てるようにして話し始めた。

 

 

「だって!だって秀頼さまは、佐和山にて幽霊を見たとおっしゃっていたではありませんか!

また、千を怖がらせようとして、かような冗談をおっしゃっているのでしょう!

秀頼さまのいじわる!大っ嫌いじゃ!

千が苦手なのを知っていて!大っ嫌いじゃ!」



 腕をぶんぶんと振りながら、俺に向けて見当違いな事を言い、勝手に怒り始めている。

 そんな彼女を俺はぽかんとしながら眺めていると、淀殿が穏やかな口調で彼女をたしなめた。

 

 

「これこれ、お千。かようにお箸を振り回したら危ないですよ」


「だって、おかか様!秀頼さまが悪いのです!千を怖がらせようとして…」


「ふふふ、秀頼ちゃんはお千を怖がらせようなんてしていないと、わらわは思いますよ」



 千姫はぷくぅと頬を膨らませながら、口を尖らせている。

 

 

「秀頼さまは、千には見えないものが見えるっておっしゃるのですよ!」



 そんな千姫の言葉に、淀殿の表情が少しだけ変わった。

 

 それは本当にわずかな変化。

 誰も気づかないくらいに小さなものだ。

 

 それでも今の俺には、さながら虫めがねで見ていたかのようにその変化がはっきりと分かったのである。

 

 それは…

 

 哀しいものを携えたもの…

 

 

「ふふふ、お千や。同じものを見ていても、人によって見え方は異なるものなのです。

だから、お千が見えないものを、秀頼ちゃんが見えていても何らおかしくはないのですよ」



――人によって見え方が異なる…


 その言葉がやけに心に刺さってくる…

 

 今、母の淀殿の目に映る「豊臣秀頼」は、どうなのだろうか。

 

 俺がこの時代にやって来る前、つまり彼女の本当の子供である豊臣秀頼と、俺という豊臣秀頼では、彼女の中でも見え方は全く異なっているに違いない。

 

 そう…

 

 今の俺は、彼女が命を懸けて守り通した「我が子」ではない。

 その事を彼女は、俺がこの時代にやって来た時、つまり今から六年も前から気付いていたのだ。

 

 しかし、そんな事を微塵も感じさせないほどに、深い愛情をもって接してくれていることが、俺には不思議でならない。

 だが、その愛情は「偽りの愛情」なのであろうか…

 豊臣家の為に、俺に調子を合わせているだけなのだろうか…

 

 本当は俺の将来のことなど、どうでもよいのではないか…

 

 そんな猜疑心が俺の胸の内を灰色の雲で覆う。

 

 しかし…

 

 淀殿はそんな俺の心を見抜いていたかのように、俺の方をじっと見つめて続けたのであった。

 

 

「だから、今目の前に見えているものを疑ってはなりませんよ。

その目に映る人を、心のままに愛せばよいのです」



 その言葉に俺の心が震えた。

 

――目の前の人を、心のままに愛する…淀殿は、今までもそうしてきたというのか…


 しかし…

 俺は言わば「本当の子」ではない。

 それなのに…

 

 そんな言葉が思わず口をついて出てきそうになる。

 それでも俺は何とか自分を保って、淀殿を見つめ返していた。

 

 

「おかか様!千にはよく分かりません!」



 しばらく考え込んでいた千姫が、大きな声を上げると、淀殿は我に返ったように、その微笑みを千姫に向けた。

 そしてゆっくりとした口調で問いかけた。

 

 

「お千や。では、秀頼ちゃんの事をご覧なさい」


「秀頼さまを?」


「そうです。秀頼ちゃんの事をじっと見つめてみなさい」



 千姫は眉をしかめながらも、俺のことを真っすぐに見つめてくる。

 至近距離であらためて見つめられると、気恥ずかしいものだ。

 俺は思わず目をそらしてしまったが、千姫はそんな俺の事をしばらく真剣な面持ちで見ていた。

 

 すると…

 

 千姫の青かった顔が、徐々に赤く変わっていった。

 

 

「いかがです?お千。今、お千は何を感じましたか?」


「体の中からぽかぽかと暖かいものを感じます…なんなのでしょう?これは…」


「ふふふ、その気持ちが大切ということですよ、お千。

そして今、わらわが秀頼ちゃんに見えているものと、お千が見えているものが異なるはずです。

それは、人によって相手に対する気持ちが違うからです。

まあ、秀頼ちゃん相手なら、わらわとお千ではほとんど同じように見えているのかもしれませんが…

だから同じ場所にいても、お千と秀頼ちゃんの見えている風景が異なっていてもおかしくはないのですよ」


「むむむ…やはり千にはよく分かりません!

千は秀頼さまと同じ風景を見たいのじゃ!」


「ふふふ、それで良いのですよ、お千。

わらわも見たいと思うのです、秀頼ちゃんやお千が見ている風景と同じものを。

だから、もっと相手を理解しようと、努力するのです。

それが、相手を愛するということなのでしょうと、わらわは思うのですよ」


「では千はもっと、もっと秀頼さまの事を知らねばならぬ、そうおっしゃるのですか?」



 そんな千姫の無邪気な問いに、淀殿の目が細くなる。

 そこには再び一抹の寂寥感が浮かんでいたのを、俺は感じ取っていた。

 

 淀殿の知っていた豊臣秀頼はもうここにはいない。

 

 それでも彼女は、俺の事を懸命に理解しようと、俺を愛し続けている。

 

 それは、彼女が俺の事を本当に大切に想っているからに他ならないだからであろう。

 

 俺はますます分からなくなってきた。

 

 なぜ俺をそこまで愛せるのだろうか。

 なぜ他人の俺を理解しようと必死に努力しているのだろうか。

 

 

――なぜ…

 

 

 口に出して聞いてみたい。

 

 しかし、何も知らない千姫がいる前で、自分自身が何者であるかを暴露するような言葉を発するわけにもいかないのだ。

 俺はただただ、淀殿に向けて困惑するような視線を浴びせるより他なかったのだった。

 

 その視線に気づいているであろう淀殿であったが、千姫に対して言った。

 

 

「ふふふ、そうですね、お千。もっと秀頼ちゃんの事を知るようにこれから努力するのですよ。

では、今宵はもうお休みいたしましょう」


「はい!おかか様!

では、秀頼さま!おやすみなさい!」



 何をどこまで千姫は理解したのか分からないが、どこか納得したように晴れやかな顔で返事をする。

 淀殿はそんな彼女の手を引いて、そのまま部屋を後にしようとしたのであった。

 

 しかし、俺はこのまま何も分からずじまいでよいのだろうか。

 そしてこれからも、この胸の内を分厚い雲に覆われたままで過ごしていいのか。

 

 そう自問した瞬間に、言葉が口をついて出ていた。

 

 

「少しお待ちくだされ!母上!」



 突然の俺の大声に驚いた表情を浮かべる淀殿。

 そして俺は間髪入れずに一つ提案したのだった。

 

 

「明日!明日共に京に行ってはもらえませんでしょうか!!?」


「京に…?なぜです?」


「大仏…大仏に行きましょう!」



 ここで言う「大仏」とは、後世で言う「方広寺」の事だ。この時はまだ「方広寺」という寺の名前はなく、「大仏」と言う名で通っている。言わずもがな、俺の父である太閤秀吉が築かせた大仏であるが、それは大地震によって倒壊してしまった。俺…正確には、俺の代わりとなった淀殿の指示によって再び作られようとしていた大仏であったが、それも四年前に火災によって焼失してしまった。

 しかし、淀殿はもう一度、再建に向けた準備を指示していた。

 俺はその様子を見に行こうと提案したのだ。

 確かに今は、松平忠輝への饗応の実現に向けた正念場ではあるが、淀殿との事はどうしても決着をつけておかねばならないような気がしてならない。

 

 なぜ彼女はこうも自然に俺を愛してくれているのだろうか。

 そしてなぜ真田幸村は、今日俺に「淀殿が俺の秘密に気付いている」という事実を打ち明けたのか。

 

 この疑問は、「豊臣秀頼」という人物について、俺自身がより深く理解することになるのではないかと直感したのであった。

 

 

「まあ、これは嬉しいこと。では、早速且元(片桐且元のこと)にその事を話しておきましょう。

お供のことなどは、彼に手配をさせます。

ふふふ、楽しみです」


「ずるい!千も共に行きたいのです!秀頼さま!お千も一緒でよろしいですよね!?」



 必死な形相で俺に懇願するような潤んだ瞳を向けてくる千姫。その瞳にぐらりと心が動かされたが、彼女がいては肝心な事は聞けずじまいであろう。

 俺は心を鬼にして言った。

 

 

「お千、これは遊びに行くのではない。大仏の再建に向けた下見に行くのだ。だからお千を連れていくわけにはいかんのだ」


「いやじゃ!千は秀頼さまとおかか様と行きたいのじゃ!」



 良い返事を聞くまでは、てこでも動かんとして足を踏ん張っている千姫に対して、淀殿が優しくその背中に手を添えた。

 

 

「ふふふ、秀頼ちゃん。良いではありませんか。お千も共に参りましょう」



 そう言った彼女の瞳には、どこか「安心しなさい。必ず母と二人で話しが出来るようにいたしましょう」と俺に伝えているように思える。

 俺はその直感を信用して、コクリとうなずいた。

 

 その瞬間に、千姫の顔にはぱぁっと向日葵のような笑顔がはじけた。

 

 

「嬉しいです!おかか様!秀頼さま!では、こうしてはおられません!明日の準備をしてから床につきますゆえ、早く参りましょう!おかか様!」


「はいはい、まったくお千は落ち着きがありませんね」



 と、苦笑いを浮かべながら千姫に手を引っ張られて部屋を退出していく淀殿。

 そして最後に俺の方を見て微笑みを浮かべながら言ったのだった。

 

 

「今日もお疲れでしょうから、早めに休むのですよ。では、おやすみなさい」



 と…

 

 

「はい、母上。おやすみなさい」



 俺は努めていつも通りにそう答えたが、淀殿が自然に振舞えば振舞う程に、俺の戸惑いは大きくなっていくのであった。

 




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