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あなたを守る傘になると決めて…㊴さらば!

 慶長11年(1606年)4月1日――

 

 前日の雨は遥か彼方に消えたのか、この日の江戸は鮮やかな青い空の元、太陽がさんさんと輝く快晴であった。

 

 この日、江戸から二人の英傑が去ろうとしていた。

 一人は言わずもがな、天下の覇者、太閤秀吉の忘れ形見にして、今や右大臣まで登りつめた豊臣家当主、豊臣秀頼。

 

 そして、もう一人は…

 

 太閤秀吉が最も寵愛した五大老であり、「備前宰相」と称された人物…

 

 宇喜多秀家――

 

 彼が自ら伏見に姿を現してから実に四年もの歳月が経っており、それまでの間の大半は駿河国にて幽閉されていた。

 そしてこの日、彼は史実の通り、八丈島へと流されることになったのであった。

 

 彼はこの日の正午に、江戸の外れの港から小舟に乗せられて、島へと旅立つ予定とのこと。

 


「さあ、出ろ」



 かつての栄光はすたれ、江戸の一役人の若い者に命令された秀家はゆっくりと牢を出た。

 しかし彼はそのような細かいことなど気にするような人ではない。

 ただそれでも、この日は外に出るということで、罪人の身でありながらも着物は真新しく仕立てさせ、そして髪も無精ひげも整えたあたり、彼はどんな状況であっても、誇り高く自分を貫いていた。

 


「おお!まぶしいのう!」



 青い空の下、久々に大地を踏みしめる秀家。新調した黄色の上掛けが鮮やかに映えている。

 

 

「歩け」



 口調はぶっきらぼうで、前後左右を役人が囲みながらも、秀家の手に巻かれた縄をほどくなど、秀家が町を歩くのに不便がないように工夫しているあたり、彼らも「備前宰相」の名に恐れ多いものを感じていたのかもしれない。

 

 秀家はゆっくりと江戸城から港までの道のりを歩き始めた。

 もう既に花は散って、木々には若葉が萌えている。

 

 秀家は歩きながら、在りし日のことを思い起こしていた。

 

 

 

 それは、かれこれ十五年も前のことだ――

 

 

――秀家様!あの島はなんという島でしょう!?



 場所は備前…瀬戸内海を一望できる小高い山の上に彼は立っていた。

 その傍らには、可憐な花をあしらった深紅の着物に身を包んだ、彼の美しい妻の姿。

 彼女の名前は、豪姫。

 加賀国から嫁いできた彼女にとっては、見るもの見るもの全てが新鮮であったことだろう。

 この日も瀬戸内に浮かぶ島々を見ながら、目を輝かせて秀家に様々な事を尋ねていた。

 秀家にとっては、この時間が尊く、幸せな時間であった。

 自然と笑みがもれる。

 

 春でも強い陽射しを避ける為の、大きな赤い傘の下。

 

 その影の中に確かな幸せと、夢を育んでいたのだった。

 

 爽やかな一陣の風が吹く。

 

 豪姫の髪がわずかに乱れると、彼女はいつも笑顔になる。

 

 そんな笑顔を見るのが、秀家は好きだった。

 

 この笑顔を生涯かけて守り抜くのだと誓った。

 

 そして、何十年先もこの傘の下、今度は家族みなで瀬戸内の海を眺めたい。

 それが宇喜多秀家の『夢』であった。

 

 だが…

 

 関ヶ原の戦い…

 

 この戦さが彼の『夢』を閉ざしてしまった。

 

 その戦さで敗北した後、彼は命からがら京まで落ち延びると、伏見にある備前屋敷に入り、ここで彼は豪姫と最後の日々を過ごした。

 常に共にいるのが当たり前であったかつての日々が懐かしく、愛おしい。

 

 そしていよいよ彼が伏見から出ねばならなくなったその日…

 

 彼は屋敷の中に、大きな赤い傘を立てた。

 

 そこに子供たちを呼び、みなで傘の影の中に入って時を過ごした。

 

 もちろん目の前に広がる光景は、海ではない。

 殺風景な板の間だ。

 

 それでも豪姫は幸せそうであった。

 ふと開け放っていた襖から風が入ってくる。

 

 その風に乱れた髪をかき上げながら、豪姫は笑顔を見せた。

 

 あの時と変わらぬ笑顔…

 

 その笑顔を秀家は…

 

 

 豪姫を抱きしめた――

 

 

 そして…全ての未練を捨て、彼は『夢』を捨てた…

 これが豪姫との今生別れだったのだった。

 

 

 

 ふと、我に返る。すると、目の前に海が広がってきた。

 穏やかな海は、空の色を映した青。

 

 ただし、それは彼が好きな瀬戸内の海の風景とは全く異なるものだ。

 それでも海を眺めるのをこよなく愛している彼は、その景色に自然と胸がざわめくものを覚える。

 

 だが、そんな彼に一点の曇りが心の中にわいてきた。

 

 捨てたはずの未練だ。

 

 ただし、その相手は豪姫ではない。

 では一体彼にはどんな未練が残されているというのだろうか。

 

 それは、彼が家族の長であると同時に、いち戦国大名であった事を、彼自身があらためて実感した相手でもあった。

 

 

――あやつは、自分の成すべき事を成したであろうか…



 彼は、彼自身が自分の命を懸けて異国に送りだしたその相手…すなわち明石全登の事が気がかりで仕方なかったのだ。

 もちろん彼の家臣は全登一人ではない。しかし、花房職秀が徳川幕府に七千石の旗本として召抱えられるなど、みなそれぞれが新たな世の中の枠組みになじんでいるのを、彼は知っていた。

 だが、彼が最も信頼の寄せていた家臣であった明石全登だけは、未だに何かの迷いにとらわれているような、そんな目をしていたからだ。

 

 今頃はまだ異国の地で、奮闘しているのだろうか、そんな風にさながら我が子のように全登の行方に思いを馳せらせながら彼は港の方へと近づいていった。

 

 

 …と、その時であった。

 

 

「あれは…」



 秀家の視界に、真っ赤な番傘を大きく開いた一人の男の姿が目に入ってきた。

 

 

「あやつ…」



 秀家には、その男が誰であるかにについて考えを巡らせる必要などなかった。

 

 

 明石全登――

 

 

 その人であった。

 

 

「見送りだ。上様より特別にお許しが出ている」



 役人の男が、ぶっきらぼうに秀家に言うと、彼と全登の間から人がいなくなった。

 

 一歩また一歩と秀家が近づいていくと、徐々に全登の表情がはっきりと見えてくる。

 その顔を見て、秀家の口角は思わず上がった。

 

――杞憂であったか…


 そう心の中でつぶやくと、彼の中の雲が、この日の空のように晴れてきた。

 

 そして全登の目の前までやってきたその時…

 

 秀家の未練は綺麗に消え去っていた。

 

 

「いい目をしてるじゃねえか、全登」



 思わず口をついて出てきた言葉に、喜びがこもる。

 

 一方の全登は深々と頭を下げた。

 

 

「お久しぶりにございます。秀家様」



 積もる話しは山ほどあろう。この場に酒の一つでもあれば、夜が明けるまで語りあうに違いない。

 しかし、二人は互いの目を見つめあうだけであった。

 

 

 それが、武士の別れ方――

 

 

 全登は真っ赤な傘を閉じると、秀家にそれを手渡そうとした。

 

 

「お約束通りにお返しいたします」



 全登の手が秀家の目の前まで伸びてくる。

 

 しかし…

 

 秀家は、穏やかに首を横に振ると、その傘を受け取ることはなかった。

 

 

「その傘はお主に託したものだ。今後もお主が使うとよい」



 全登の顔に驚きが浮かぶ。

 しかし秀家はその驚きの理由を語らずに、横にいた役人に出立の為の声をかけた。

 

 再び歩き出す秀家。

 

 全登は赤い傘を片手にその背中をただ見つめていた。

 

 二人の距離が徐々に開いていくが、共に声を発することなく、あたりには海のさざ波の打ち寄せる音と、海鳥たちの鳴き声だけがこだましている。

 

 それでも…

 

 全登は万感の思いを込めて、その視線を秀家に送った。

 そして秀家もまた、全登への思いをその背中で示していたのであった。

 

 秀家は小さな舟に乗りこむ。

 

 そしていよいよ出港の時を迎えた。

 

 舟の上で、秀家は再び全登の方を見た。

 

 「もぐら」と呼ばれたかつての彼のような、どこか卑屈なものなど微塵も感じられない、堂々としたその表情。

 与えられた職務を全うした事で、彼が得た自信からくるものは明らかだ。

 

 舟はゆっくりと沖に向かって進みだしている。

 

 繋がっている視線の交わりが、徐々にほどけてくるのが良く分かった。

 

 未練はない。

 

 ないはずだ。

 

 そう思っていた。

 

 しかし…

 

 血の繋がりが一生涯消えぬのと同じで、一度酌み交わした臣下の契りは、その距離が離れるに従って、秀家に胸の痛みとなって彼の心を揺り動かした。

 

 何か…

 

 何か声をかけたい。いや、かけねばならない。

 

 そう思った矢先、彼は無意識のうちに叫んでいた。

 

 全登が最後に見せた驚きの顔に応える為に…

 

 

「武士は感謝されるように生きなきゃなんねえ。

もし隣で打ちひしがれている人を見たら、そっとその傘を差し上げてやれ。

そうやって少しずつ人を守る傘になってやれ。

自分は濡れても、他人は濡らさぬ武士となれ。

少しぐらい濡れようが、雨が上がればすぐ乾く。

少しぐらい体が冷えようが、雨上がりのお天道様がすぐに温めてくれる。

だから、濡れることを恐れちゃいけねえ。

こうして手にした小さな感謝は、積み上げれば必ずお主の宝となる。

それを大事に出来るような立派な武士になれ。

これがお主の君主としての最後の命令である。

さらばだ!明石全登!」

 

 

 一息に言いきった秀家。

 

 その言葉に全登は…

 

 

 笑顔であった――

 

 

 再び深々と頭を下げる全登。

 

 そして彼もまた、自分の溢れる想いを告げる為に、小さくなった秀家に向かって叫んだのであった。

 

 

「この傘でそれがしは、必ずや人々を雨から守りましょう!!

そして皆を守ったそのあかつきには、必ずや秀家様にこの傘をお返しに参ります!!

今日受け取っていただけなかったこの傘を!!

次こそは、胸を張ってお返しいたしましょう!!

それまで、どうかお達者で!!」



 秀家の耳と心には、確かにその言葉が届いていた。

 

 

 その言葉は、始まりの為の別れ…

 

 

「馬鹿野郎…それでは、この世に未練が出来ちまったじゃねえか…」



 秀家はニヤリとしながらそうつぶやいた。

 

 心地よい海風の中にあって、ひと際強い風が彼の頬に当たる。

 

 彼は少し乱れた髪をかき上げると、瞳を輝かせてこれから向かう島の方へと目を向けていたのであった。

 

 

 慶長11年(1606年)4月1日…

 

 太閤秀吉から愛され、豪姫と家臣を愛した宇喜多秀家が八丈島へと流されたその日だ。

 

 だがそれは、同時に彼がこれから新たな『夢』を見始めた、そんな始まりの日でもあったのだった。


 

 

 


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